まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

理想の死に方

2020-05-21 16:01:26 | 看護学校「哲学」
看護学校の第11回目・第12回めの授業では、

最初に自分の「理想の死に方」について考えてもらいました。

自分は最期どんなふうに死にたいのか、というのも死生観のひとつです。

しかも、人生の最期をどう迎えるかということですから、

これは人生全体の質に関わってくる問題です。

もちろんこれも人それぞれで、誰がどんな死に方を望もうとまったく自由です。

自分のと比べて相手のはおかしいなどと思う必要はありませんし、

ましてや相手に向かってそれを言う必要もないことです。

みんなはどんな死に方を望んでいたでしょうか?


さて、しかしながらこれはあくまでも理想であり希望であって、

その通りになるとは限りません。

いつ交通事故にあうかわからないですし、

事件に巻き込まれるなんていうこともあるかもしれません。

大きな災害だってまたやってくるかもしれないでしょう。

今回のように今まで存在しなかったような病気が突然大流行して、

それにかかって亡くなってしまうなんて誰が想像していたでしょうか。

そうなったときには理想もへったくれもなくて、

まったく自分ではコントロールできなくなってしまったりするのです。


それでは次のケースを考えてもらいましょう。

不治の病にかかっている場合に、それを告知してもらいたいか、

告知されたくないかという問題です。

最初の問いの答えで、告知されてあらかじめ死が近づいているのが

わかっているほうがいいと答えた人にとっては、

同じ答えを書くことになるかもしれませんが、

たぶんそういう人はそれほどいないだろうと思うので、

もしもそういう病にかかってしまっていた場合に、

告知されたいかされたくないか考えてみてください。

安楽死に関する重大な注意!

2020-05-21 15:40:41 | 看護学校「哲学」
看護学校第9回目・第10回目の授業では、

「死なせてあげるべきか?」という問題を考えてもらいました。

ひとつだけ補足しておきます。

安楽死というのは積極的安楽死であれ、消極的安楽死であれ、

相手のためを思ってやってあげることですが、

一度それをやってしまったら相手は死んでしまいますので、

絶対に取り返しがつきません。

ですので、実際にやる場合には、相手が本当の本当にそれを望んでいるのか、

他に何かいい別の治療手段や苦痛除去の手段はないのか等、

慎重に慎重を重ねて、多くの関係者でじっくり検討し、

病院の倫理委員会でも十分審議をしてもらった上で行うことです。

1人の医療者のその場の判断でやっていいようなこととはまったく違います。

しかし、看護師というのは患者さんやそのご家族の一番近くにいて、

ふだんからその悩みや苦しみや望みを聞く立場です。

その立場で、もうこの患者さんにはこうしてあげるしかないと感じたとしても、

お医者さんや病院の側が上記のようにいつまでもじっくり検討していて、

なかなか結論を出してくれないなんていうことがあったときに、

私がやってあげなきゃという気持ちになるかもしれません。

しかし、これだけは絶対に覚えておいてください。

看護師は絶対に安楽死を行ってはならない!

ということを。

安楽死を行う場合はチームや病院全体で判断し、

実際にそれを行うのは医師でなければなりません。

どんなことがあっても絶対にあなたは手を下してはいけないのです。

これだけは絶対に忘れずにいてください。

日本の臓器移植法

2020-05-07 05:02:37 | 看護学校「哲学」
日本の臓器移植法の骨子

①改正前臓器移植法 (1997年) の骨子
 イ.医師は死体(脳死した人の身体を含む)から移植のために臓器を摘出できる。
 ロ.脳死した者の身体とは、移植のために臓器が摘出される予定で、
   全脳の機能が不可逆的に停止したと判断された人の身体をいう。
 ハ.脳死で臓器を摘出する場合の脳死判定は、
   本人が生前に書面で脳死と判定されたら死者として扱われることに同意しており、
   家族が判定を拒まない場合に限って行える。
 ニ.脳死の判定はこれを的確に行うために必要な知識、経験を有する
   2人以上の医師の行う判断の一致による。
   (摘出医、移植医は除く。竹内基準による。)
 ホ.脳死で臓器摘出ができるのは、
   死者が生前に書面で臓器を提供する意思を表示しており、
   遺族が摘出を拒まない場合に限る。
 ヘ.心臓停止後に腎臓又は角膜を摘出する場合は従来どおり、
   本人の提供意思が不明でも、遺族の同意で摘出できる。     
 ト.脳死した者の身体への処置の費用は当分の間、保険給付の対象とする。
 チ.臓器提供は15歳以上の者のみ可能とする。

②改正後臓器移植法 (2010年) の骨子
 イ.脳死は一律に人の死。
 ロ.本人の書面による意思表示がない場合、家族の同意のみで脳死者から臓器提供できる。
    (15歳未満の者からも、家族の同意があれば臓器提供できる。)
 ハ.本人の書面による意思表示があれば、近親者への選択的臓器提供ができる。

脳死とは何か?

2020-05-07 04:40:37 | 看護学校「哲学」
脳死と植物状態の違いについては理解してもらえたと思います。
脳死については「少なくとも脳幹が機能していない」、
「自発呼吸がなく、人工呼吸器が必要」と書いたわけですが、
残念ながらあれは脳死の定義ではありません。
あくまでも植物状態との違いは何かという説明でしかありませんでした。
もうお気づきの人もいると思いますが、
「少なくとも」というビミョーな言い回しを用いていました。
あの言葉には重要な意味が込められていたのです。
それはどういうことかというと、
現在までのところ世界で「脳死」に関して統一的な見解はなく、
いくつかの争点をめぐって意見が割れていて、
それにしたがって複数の定義が存在しているのです。

まずは、脳死をめぐる争点ですが、これには2つあります。

1.脳幹死 (脳幹さえ死ねば脳死)か、全脳死 (脳幹も大脳も含めて全脳の死が脳死)か?

2.機能死 (脳の機能の不可逆的停止)か、器質死 (脳の細胞レベルでの死)か?

1は脳の部位に関する争点です。
植物状態との違いを重視して、脳幹さえ死ねば脳死だと考えるのが「脳幹死」の立場であり、
「脳死」と言う以上は脳幹だけでなくすべての脳を含めるべきだというのが「全脳死」の立場です。
2は脳死判定基準にも関わって、何をもって「死」と呼ぶべきかという争点です。
脳の機能(=働き)が止まることを「死」と呼ぶというのが「機能死」の立場であり、
脳という臓器が細胞レベルで死んでしまうことを「死」とするというのが「器質死」の立場です。
前者(=機能死)の場合、ただたんに脳の機能が止まっただけでは、
一時的(=可逆的)停止にすぎないかもしれないので、
(病気や麻酔等により脳の機能が一時停止することはいくらでもある)
例の「不可逆的」という形容詞を付して「脳の機能の不可逆的停止」を脳の死としています。
後者(=器質死)に関しては、脳死になった患者さんの頭をあとで解剖してみると、
脳がサラサラに溶けてしまっているケースが見られるので、
それが機能死(=脳の機能の不可逆的停止)の原因にもなっているはずで、
そちらの根本原因のほうこそが「死」という名にふさわしいと考えています。

このように2つの争点をめぐってそれぞれ2つの立場があるので、
組み合わせると4つの定義が出てくる可能性があるわけですが、
現在、世界中に存在する定義はそのうち以下の3つとなります。

A.脳幹の機能死   ex.イギリス

B.全脳の機能死   ex.日本やアメリカをはじめとして多くの国々

C.全脳の器質死   ex.ロシア、スウェーデン等

このように脳死の定義は世界でひとつに定まっておらず、
国によってバラバラなのです。
定義が違うことによって脳死の判定基準(=判定方法)も変わってきます。
つまり、脳死の判定方法も世界で統一されていないのです。
3つのうち上のほうが判定が簡便にでき、
下になるにつれて検査項目が増えてきます。
同じ状態の患者さんが国によって「脳死」と判定されたり、
まだ「脳死」ではないと判定されたりするということが起こりうるわけです。
今回はどの定義が「脳死」としてふさわしいかも考えてもらいますが、
国家試験に向けては、世界にいろいろな定義や判定方法がある、
なんていうことは覚えなくてもいいので、
日本の定義と判定基準だけ覚えておけばOKです。

日本における脳死の定義は「B.全脳の機能死」を採用していて、
正確には、「脳幹を含む全脳の不可逆的な機能停止」と定義されています。
これをどうやって判定するかという判定基準としては、
1985年に策定された「厚生省基準(竹内基準)」が現在でも使われています。

 イ.深昏睡
 ロ.自発呼吸の停止
 ハ.瞳孔散大
 ニ.脳幹反射の消失 (対光反射、角膜反射、毛様脊髄反射、眼球頭反射、前庭反射、咽頭反射、咳反射)
 ホ.平坦脳波
 ヘ.イ~ホの確認後6時間以上経過後に再検査

イは「従来の人の死」で言う「動かない、話さない」が徹底した状態で、
叩こうが階段から突き落とそうがまったく反応しない状態です。
(それで痛がったりしたら完全に生きているわけですが…)
ロとハは心臓死の三徴候のうちの2つですね。
ロの代わりに人工呼吸器につながれていて、
そのために心拍は維持されているわけです。
ニによって脳幹の機能が消失していることを確認しています。
「A.脳幹の機能死」の定義であれば、ここまでの検査でいいのですが、
日本は「B.全脳の機能の不可逆的停止」の定義を採用しているので、
脳幹だけではなく大脳の機能の停止も確認しなければならないので、
ホの検査を行います。
こうして全脳の機能の停止を確認したわけですが、
これで脳死判定は終わりではありません。
なぜならイからホまですべて満たしたとしても、
それはまだ「可逆的」(=一時的)停止にすぎないかもしれないからです。
実際にイからホまですべて満たしたとしてもそこから回復してくる患者さんはいます。
回復するのであれば「死」ではないので、
これが「不可逆的停止」であることを確認するにはどうすればいいのでしょうか。
時間をおいて再検査します。
イ~ホで終わりでなく、ヘがあるのはそのためです。
何時間後に再検査するかはこれも国によってまちまちですが、
日本では6時間以上経過後に再検査となっています。
(これは世界最短。だいたい12時間後や24時間後が一般的)

時間をおいての再検査によって「不可逆的」な機能停止であることを証明できるのか、
これが先に書いた争点2の重要なポイントにもなっています。
国によっておく時間が違っていることからもわかるように、
6時間後に再検査して機能が戻っていなかったとしても、
ひょっとすると8時間後には戻ってきているかもしれません。
24時間後に戻っていなくても24時間30分後に戻ってくるかもしれません。
どれだけ長い時間を設定したとしても、
その後に戻ってくるという可能性を排除しきれないので、
「機能死」の立場を採る限り「不可逆性」を証明することはできないのではないか、
それゆえ、不可逆的機能停止を判断するためにも、
その原因である脳の細胞レベルでの死を確認すべきだというのが「器質死」の立場です。
これを判定するために脳血流の停止や脳代謝の停止を判定基準に加え、
PETなどの機材を用いて脳細胞が活動しているかどうかを検査しています。

さて、このあと脳死は人の死かどうかを考えてもらうわけですが、
その前に脳死とは何かという定義のところで、
脳死には3種類の定義があるということになってしまいました。
A~Cどの定義を選ぶのかということも含めて、
脳死は人の死なのかどうか考えてみてください。
ヒントとしては、自分だったらと考えずに、
自分の家族の死の判定だったらどれを選ぶかという観点に立つといいと思います。
それから、やはり脳死は人の死ではなく、心臓死のみしか認められない、
という考え方も当然ありだと思いますが、
その場合には脳死臓器移植は完全にできなくなる、
(生きている人から臓器を摘出して死なせたら殺人罪に問われる)
ということも念頭に置いた上で考えてみてください。

脳死と植物状態の違い

2020-05-07 01:12:54 | 看護学校「哲学」
植物状態と脳死の違いを簡単にまとめると以下のようになります。

 植物状態‥‥脳幹は機能している
       ∴自発呼吸がある

 脳  死‥‥少なくとも脳幹が機能していない
       ∴自発呼吸がなく、人工呼吸器が必要

ざっくり言うと、脳のなかの脳幹と呼ばれる部分が機能しているかいないか、
というのが大きなちがいです。
脳幹は、人間が無意識的にできることを司っている部位です。
呼吸とか、心拍とか、消化とか、ホルモン分泌とか、新陳代謝とか…。
つまり、人間が寝ているときにもできることをコントロールしているのが脳幹です。
植物状態の場合、動いたり話したりができず意識活動がないとはいえ、
脳幹がまだ機能していますので、上記のようなことはできるわけです。
植物状態というのは、要するに寝たきりの状態であり、
植物が動かないし話さないけれど呼吸はして生きているのと同様、
自分で呼吸をしているし心拍もあり、ちゃんと生きているわけです。
これに対して脳死は、この脳幹部分も働いていません。
したがって呼吸その他ができないわけで、だから人工呼吸器に繋がれているわけです。

脳死というのは人工呼吸器というものが開発されたことによって初めて生じました。
人工呼吸器が普及したのが1950年代ですから、
それ以前には人類20万年の歴史において脳死なんてまったく存在しなかったわけです。
それまでは自発呼吸の停止に至った人はいずれ間もなく心臓も停止して、
死亡(=心臓死)してしまうのが当たり前でした。
マウス・トゥ・マウスによる人工呼吸という方法が開発されて、
しばらくの間、酸素を供給してあげられるようになりましたし、
その間に治療を施すことによって回復するという人も増えてきましたが、
そんなにいつまでもマウス・トゥ・マウスは続けられず限界があります。
人工呼吸器はその問題を解消する素晴らしい発明だったのです。
これが開発され普及したことによって、
それまで救えなかった多くの患者さんを救うことができるようになりました。
その点は医学と医療技術の大勝利だったと言うことができるでしょう。

しかしながら人工呼吸器も万能ではないので、
すべての患者さんを助けられるわけではありません。
人工呼吸器を用いた治療を施してもあいかわらず助けることはできず、
失われていた命はありました。
それは仕方のないことです。
ただ、それとは別に新しい問題も生まれてきました。
回復するわけでもなく、といってすぐに死亡(=心停止)してしまうわけでもない、
中間状態の患者さんが新たに生み出されることになったのです。

最初に書いたとおり、脳幹は心拍も司っているので、
ふだんは、運動したり緊張したときに心拍を上げたり、
リラックスしているときに心拍を下げたりというコントロールも脳幹が行っています。
脳幹が機能しなくなれば、自発呼吸が失われると同時に、
そうした心拍のコントロールもできなくなってしまいます。
なので脳幹が機能しなくなれば心臓も停止してしまってもおかしくないはずなのですが、
しかしながら心臓には、いざというときのためにバックアップ機能が備わっており、
万一の場合に脳幹から指令が来なくなっても、自動で拍動できるようになっています。
この自動拍動は酸素をエネルギーとして動いているので、
呼吸が止まればいずれこの心拍も止まってしまうのですが、
酸素が供給されれば心拍は維持されます。
そのために、脳幹が機能しなくなって自発呼吸が失われ、
人工呼吸器につながれて、その間に様々な治療を試みたが回復させることはできず、
自発呼吸は戻ってこないまま、しかし心停止に至ってしまうわけでもなく、
人工呼吸器によって酸素が供給され続けているために、
心臓の自動機構によって心拍が維持されるという、
人類がこれまで経験したことがないような新しい中間状態が生み出されました。

こうした状態の患者さんのことを当初は、
「超過昏睡」、「不可逆的昏睡」などと呼んでいました。
「不可逆的」というのは「可逆的」の反対語で、
「可逆的」は逆戻りあり、つまり回復することがありうる一時的な、
という意味の言葉なので、
「不可逆的」は一時的ではなくもうけっして回復することがありえない、
という意味の形容詞になります。
この言葉は脳死のことを考える上でひじょうに重要になってきますので、
これもいっしょにぜひ覚えておいてください。
いずれにしても昏睡状態のなかのすごいやつみたいに命名されていたわけですが、
こういう患者さんの心臓を臓器移植に使いたいという必要性から、
1968年になって「脳死」という概念が生み出されることになりました。
「昏睡」だったら眠っているだけで生きているわけですが、
「脳死」と言い換えれば死者として扱うことが可能になるわけです。
「脳死」という言葉自体が価値判断を含んだ概念だったということがわかるでしょう。

話を戻しましょう。
植物状態と脳死の違いとして、
回復する可能性があるかないかということを挙げる人がよくいますが、
これは不正解です。
脳死の場合はもちろん 「死」 なんですから、
回復の可能性があっては絶対にいけないわけですが、
植物状態のほうも、定義上は 「回復の見込みがないこと」 という文言が含まれています。
ただし、そう書きたくなってしまう気持ちはわからなくもなくて、
よく植物状態の患者さんを取り上げたドキュメンタリー番組などで、
家族や看護師があきらめることなく、
普通の患者と同じように声がけしたりタッチングしたりし続けたことによって、
奇跡的に意識を取り戻したとか、意思の疎通が可能になったとか、
場合によっては歩けるくらいに回復したというような話が取り上げられますので、
植物状態は回復可能なものだと思い込んでしまったのでしょう。
しかし、それは稀なケースですので、植物状態がすべて回復可能だというわけではありませんし、
むしろ厳密な言い方をするならば、回復した人たちは回復してしまったわけですから、
定義上、植物状態ではなかったと言うべきなのだろうと思います。
(植物状態の定義については次回扱います。)
しかしながら、植物状態に関しては回復するかしないかは何とも言えませんので、
定義のなかに 「回復の見込みがない」 ということを含める必要もなければ、
「回復の可能性がある」 と言い切ることもできず、
したがって、脳死とのちがいとして回復可能性を挙げることはできないのです。

なので、脳死と植物状態の違いは脳幹が機能しているか否か、
自発呼吸があるか否かなのだということをよく覚えておいてください。
ただし、これはまだ脳死の定義ではありません。
脳死の定義についてはさらに難しい問題が含まれていて、
実はまだ脳死の定義は世界中でひとつに確定されていません。
これが次のお話になります。

価値判断と事実判断

2020-05-06 17:39:42 | 看護学校「哲学」
先に読んでもらったブログのなかで、脳死状態になったときに延命治療を停止するかどうか、
臓器提供をするかどうかは価値判断の問題であり、
それにどう答えようと正解・不正解があるわけではないと書きました。
それに対して、3問目の脳死とは何か、植物状態との違いは何かという問題は、
事実判断に関する問いであり、これには科学的・医学的な正解があります。
私の「哲学」の授業の中で、今回の問3の問いは唯一、
国家試験に出題される可能性がある問題なので、
知らなかった人はこの機会にちゃんと覚えるようにしてください。

さて、先に考えてもらった「脳死状態になったときに延命治療を停止するかどうか、
臓器提供をするかどうか」という問いはたしかに価値判断ではありますが、
この価値判断は本来、「脳死状態とはどういうものであるのか」という事実判断を踏まえて、
その答えをあらかじめきちんと知っておいた上で初めて考えられるはずの問題です。
脳死のことをきちんと知らずに、
脳死になったときにどうするかを決められるはずないからです。
しかし、皆さんは3番の答えに自信ありますか?
3番にちゃんと答えられた人は、その事実判断に基づいて、
1番や2番の価値判断を下したと言えるでしょう。
しかし、3番の答えを知らずにテキトーに予想で答えた人は、
1番や2番の価値判断を正しく下せていたのでしょうか?

福島大学の「倫理学」という授業では、
もう少しイジワルな質問をしています。
授業の最初に次のような質問をしてみます。
「あなたは脳死臓器移植をよいことだと思いますか、悪いことだと思いますか。
 その理由も書いてください。」
これをけっこう時間を取ってみんなに書いてもらった後で、続いて問2。
「ところで、脳死って何ですか? 植物状態とどう違うのか書いてください。」
とても意地悪です。
問1はよいか悪いかという価値判断を問うています。
福島大学の学生たちはみんなこれにけっこうスラスラと答えてくれます。
理由もたくさん書いてくれます。
ところがその価値判断を下す前にきちんと確定しておくべき 「脳死とは何か」 という、
事実に関わる問いに対しては、ほとんどみんな正しく答えることができません。
つまり、みんな脳死とは何かをよく知らないまま、
「脳死」という言葉の何となくのイメージだけに基づいて、
脳死臓器移植がよいか悪いかという価値判断を下してしまっているのです。

福島大学の「倫理学」の授業では、初期の頃に「倫理学的な考え方」について講義し、
倫理学的な判断というのは事実判断と価値判断の2つから成り立っていて、
一般的にはまず事実判断を確定させてから価値判断をするのが正しい順序であるが、
この順序が逆転してしまう場合もあるので気をつけなければいけない、
という話をしています。
そのことを具体例に即して体感してもらうために、こういう引っかけ問題を出しています。
授業の感想からは、この引っかけにみごとに引っかかってしまったことが、
相当印象に残った様子がうかがわれます。

「脳死臓器移植という重いテーマを用いて、倫理とはどういうものなのかということを考える授業であった。事実判断が不十分なままの価値判断がいかに滑稽であるか、授業内課題で思い知らされた。そして、脳死の概念の誕生による事実判断と価値判断の転換が非常によくわかった。」

「やっぱり脳死という大事で深いテーマだと一回聞いただけでは理解できないところもあったが、日本で臓器移植が他国より進んでいない理由を知ることができたのは大きい学びだと思う。事実判断が重要だと言っていたのが少し理解できた。軽く良いとか悪いとか決められないと思ったから、自分でも事実をもっと知らなければならない。」

「事実判断ができないと価値判断はできないはずなのに、『なんとなく』の価値判断をしてしまう恐ろしさを感じた。人を助けるための脳死臓器移植だが、手段が目的になって臓器移植のために脳死の人をつくるというのは犯罪でしかない。事実判断に必要な情報を持つことが求められると感じた。」

「今日の授業で取り上げられた『脳死』について、授業が進むほどに、私自身は脳死について無知だったと気づき、脳死というものについて正確な知識を身に付けたいと思った。正確な知識を身に付けることこそが、倫理学において、価値判断をする上で必要だと思うので、今後の倫理学の授業が進む上での意欲を駆り立ててくれた。」

「1、2番の課題を書いている時にすでに思っていたが、『脳死』という専門用語をあまり深く知らないのに、価値判断をしていることにとても疑問を感じた。そのようなことが、国会でも行われていたかもしれないと思うと、少し怖いなと思った。」

「事実判断が不十分であったことに気がついた。他の問題などについても、価値判断を下すことは授業課題などで訓練されていたが、事実判断があることが必要なのだと感じた。」

「倫理とは価値判断だけでなく事実判断も必要であるが、価値判断だけでも何かしらの考えが書けてしまうという話を聞いた時、自分の意見がまさにそれであって納得した。脳死臓器移植や植物状態について知らないことばかりなので、事実判断もできるようにしていきたい。」

「『脳死が良いことか悪いことか』という質問には答えることができるのに、『脳死とは何か』という質問には答えにつまって自分でもドキッとした。これからの講義で倫理的な脳死の問題について学んでいくのが楽しみです。」

「事実判断と価値判断の逆転、まんまと先生にだまされたなと思います。日頃気をつけようと心掛けているつもりではいましたが、自然な流れに、何の疑問も持たず書いてしまいました。そのくらい曖昧であり、逆転のリスクは高いのだと改めて感じました。最近の法改正についての報道の『脳死を人の死とする』という見出しや取り上げ方の意味がやっと分かりました。歴史も知らずに価値判断をしていたと思うと、改めておそろしいなと思います。」

「脳死だけでなく、何かの良し悪しを考える時、それがどういうものなのかもあまり考えず、なんとなくで答えを出していることに気づきました。自分の行為がひどく無責任なものに思えてきました。」

さて、看護学校の皆さんはどうだったでしょうか。
きちんと脳死とは何かをわかった上で、
脳死になったときにどうするかという価値判断を下せていたでしょうか。
問3の正解は次に読んでもらうブログのなかに書いてあるので、
各自答え合わせをしてみてください。

自分の場合と家族の場合のズレ

2020-05-06 03:55:20 | 看護学校「哲学」
1.自分もしくは自分の家族が脳死状態になったときに、延命治療(人工呼吸器その他)を停止してもよいと思いますか。その理由も書いてください。
2.自分もしくは自分の家族が脳死状態になったときに、臓器提供してもよいと思いますか。その理由も書いてください。

1番と2番の問いにいっぺんに答えてもらいました。
またそれぞれに関して、自分の場合と家族の場合とに分けて考えてもらいました。
どうだったでしょうか。
なかなか考えるのは難しかったし、
人によっては考えるのが辛いと感じた人もいたかもしれません。
特に自分がそうなった時のことはスラスラ考えられるけど、
家族がそうなったと考えるのは大変だったかもしれません。
家族の場合についてもスラスラと答えられた人というのは、
たぶん、以前に家族でこの問題について話し合ったことがあって、
家族がどうしてもらいたいかを聞いたことがあったのではないでしょうか。
そういう人はわりとスラスラ答えられます。
そうでない場合はそう簡単に答えは出せなかったろうと思います。

まず、この2つの問いはどちらも価値判断を問う問題であり、
しかも個人の自由に委ねられた価値判断なので、
イエス・ノーどちらを書いていたとしても何の問題もありません。
他の人の答えを見てみるといろいろな答え、いろいろな理由があったと思いますが、
どれが正解というわけではなく、いずれもすべてその人にとっては正解です。
なので、それぞれの答えに対して異を唱える必要はなく、
どんな考えであれ、その人はそう考えるのだなと受け入れればいい話です。

次に、自分の場合と家族の場合の答えを比べてみてください。
その両者が同じ答えだったか、それとも異なる答えだったか。
同じ答えであり、理由もほぼ同じであれば、それは首尾一貫した答えです。
自分も延命治療は停止してよいし、家族の場合も停止してよい、
あるいは、自分は臓器提供はしないし、家族も臓器提供はしない等、
イエス・ノーどちらでもいいのですが、自分であれ家族であれ答えが同じなら、
何の問題もありません。

心配なのは自分の場合と家族の場合で答えがズレている人です。
実は日本人の場合、答えが異なる人がけっこう多いのです。
もちろんそれもひとつの価値観なので、答えが異なっていてもいいのですが、
現実問題として自分の意思が尊重されなくなる可能性が高くなるので心配です。
日本人の典型的な答えはこうです。
自分が脳死状態になったときは延命治療は停止してよいし臓器も提供したい、
しかし家族の場合は延命治療は停止したくないし臓器も提供したくない。
こういうふうに答える人がひじょうに多いのです。
自分の場合は、そうまでして延命したいとは思わないし、
使ってもらえるものならばどんどん使ってもらいたい、
しかし、家族の場合は万に一つの可能性にかけて最後まで最善を尽くしたいし、
大事な家族の一部を知らない誰かのために提供するなんて考えたくない、
そういう考え方の日本人がけっこういるのです。

これは家族を大切にする日本人らしい価値観なのでそれはそれでいいのですが、
その家族が全員同じような価値観をもっていて、
みんなこう考えているとするとどうなるでしょうか。
もしも家族の誰かが脳死になってしまった場合、
本人はもう何の意思表示もできなくなっているので、
けっきょく延命治療や臓器提供に関して判断するのは残された家族になります。
すると家族は延命治療を続ける、臓器提供はしないと決めることになります。
この家族は全員、自分だったら延命治療は停止してほしい、臓器は提供したい、
と思っていたにもかかわらず、その希望は誰もかなえてもらえなくなるのです。

こういう弊害を回避するためには、事前に家族で話し合っておく必要があります。
全員が自分の場合、家族の場合でどうしたいか希望を伝え合い、
こちらの思いとみんなの思いがズレている場合に、
どちらを尊重することにするのかじっくり話し合ってみる、
こうして相互に相手の意思を知ることによって、
いざとなったときに自分の思いだけで決めてしまうのでなく、
本人の意思を尊重するという選択肢も生まれてくる可能性が出てくるのです。
そもそも家族が脳死状態に陥ったりしたら、残された者はパニックになり、
冷静に考えることができなくなってしまいます。
そういうときに本人がどうしてほしいと思っていたかを知っているかどうかは、
判断を下す上でひじょうに重要になってきます。
それを知らずに判断を下した場合、それが本当に本人のためになっていたのか、
残された家族は一生悩み続けることになるでしょう。
そうしたことにならないためにも、事前に家族で話し合っておく必要があるのです。
皆さんもぜひこの機会に、この問題について家族で話し合ってみてください。

従来の「人の死」と新しい死の概念

2020-05-06 01:31:20 | 看護学校「哲学」
看護学校「哲学」の第5回目・第6回目の授業では、
「死んだらどうなるのか?」を考えていただきました。
つまり、死んだ後のことから考え始めてもらったわけです。
第7回目・第8回目のテーマは、「人の死とは何か?」です。
今回は、どこからが死なのか、どうなったら死んだことになるのか、
ということを考えてもらいたいと思います。

これはひじょうに新しいテーマです。
前回の「死んだらどうなるのか?」というテーマについては、
人類はもうずっと長いあいだ考え続けてきました。
たぶん有史以前の時代(文字がなかった時代)からずっと考えています。
それに対して「人の死とは何か」なんて、あまりにも当たり前すぎて、
わざわざ悩んで考えるような問題ではありませんでした。
人が生きているか死んでいるかなんて素人にもはっきりわかることで、
ホモ・サピエンスが地球に誕生して以来20万年の間、
(ひょっとするとそれ以前の原人や旧人の頃からずっと)
何が死かについては人類は明確な答えをもっていたのです。
それが揺らいできて「人の死とは何か」が問われるようになったのは、
ほんの50年ほど前のことです。

従来の「人の死」は簡単に見分けることができました。
人は死ねば動かなくなります、話さなくなります。
そしてすぐに白くなり、冷たくなっていきます。
そのまま放っておくと腐敗していき、いずれ白骨だけが残ります。
これらは誰の目にも明らかです。
どの時点で死んだのかということに関しては、
専門家である医師のみが診断できることになっていて、
医師は死の三徴候をもって死の診断を下します。
 1.心停止
 2.呼吸停止
 3.対光反射の消失(瞳孔散大)
これらは専門家ではない人間にとっても常識となっており、
正式な診断は下せないものの、
生きているか死んでいるかを確かめるためには、
素人である私たちもこれらを確認しようとするでしょう。
これが従来の死の概念であり、
これをもって人の死とすることに誰も疑問を感じていませんでした。

しかし、今からほんの52年前の1968年に「脳死」という概念が誕生しました。
それ以前の20万年間まったく必要とされていなかった新しい概念が、
突如として現れてきたのです。
そして、「脳死」と区別するために、
従来の死の概念に対しても新しい名前が与えられることになりました。
「心臓死」という言葉です。
「脳死」の大きな特徴のひとつは、上記の死の三徴候のうち、
1番目が満たされておらず、心停止していません。
つまり、心臓がまだ動いているのです。
心臓が動いていて血流があるために白くもならず、冷たくもなりません。
従来の死とはまったくかけ離れた状態ですが、
これも「脳死」という名の新しい死であるということになり、
それとの違いを強調して、従来の死のことを「心臓死」と呼ぶようになったのです。
こうして「死」は「心臓死」と「脳死」の2種類に分けられることになりました。
ここから人類はそれまでまったく考える必要のなかった新しい問い、
人の死とは何か?
従来通り「心臓死」のみが人の死なのか?
それとも、新たに誕生してきた「脳死」も人の死として認めるべきなのか?
という問いに直面させられることになりました。
今回はこの問題について考えを深めてもらおうと思います。

「脳死」という概念が新たに生み出された背景には、
臓器移植の問題があります。
特に心臓移植を行うためには、動いている心臓を移植する必要があります。
つまり、「心臓死」の人の心臓は移植に利用することができませんが、
「脳死」の人の心臓であれば移植することができるのです。
他の臓器に関しても、「心臓死」の場合に比べて「脳死」のほうが、
血流があるので移植に適した状態が保たれています。
こうして「脳死」と「臓器移植」はセットで論じられるようになりました。
というわけで、まずは脳死臓器移植の問題から考えてもらうことにします。
第1段階としては、臓器移植と切り離して、
脳死を「死」として受け入れ、延命治療を停止してもいいかどうか。
第2段階としては、脳死を「死」として受け入れた上で、
さらに誰かの脳死臓器移植のために、自分ないしは家族の臓器を提供してもよいかどうか。
この2つについて考えてみてください。

父の日の父の自覚

2019-06-16 20:19:55 | そして父になる
子どもが保育園に通っていると、様々なアニバーサリーに、

たぶん本人ではなく、保育園の先生が作ってくださった、

いろいろな作品を頂くことができます。

一昨日の金曜日は私が保育園にお迎えに行ったのですが、

その帰りにこんな物を保育園の先生から渡されました。



父の日のメッセージカードのようなものです。

私はこれを受け取りながら、ああちょうどよかったと思いました。

6月16日の父の日には妻の実家に行って、

みんなでお義父さんの父の日を祝うつもりでおりましたので、

お義父さんへの手土産が増えたと思ったのです。

そのつもりで受け答えしていたら、保育園の先生との会話がスムーズに流れません。

それでしばらくしてから、ああこれは私へのプレゼントだったのだと気づきました。

おおそうかあ、自分が父の日に感謝される立場になっていたのかあ。

いやあ、ビックリしました。

父の日って、ずっと自分とは無関係だったので。

自分の父が存命のときもよく父の日のことをスコーンと忘れて怒られていましたし、

25年くらい前に父が亡くなってからはまったく他人事で、

配偶者のお父さんの父の日の集まりとかには参加させていただいていましたが、

それはもうただ皆さんにお膳立てされた飲み会に、

賑やかし要員として参加していただけだったので、

まさか自分が父の日の当事者になっているとは思っていませんでした。

そう言われてみれば、去年の父の日が自分が父となって初めての父の日だったはずですが、

当時はまだ子どもは保育園に通っていなかったので、

自分も含めて誰も父の日の対象者として私が該当するということに気づいていませんでした。

今年もあのような作品をいただいたわけですが、

別に子ども本人は私のことを 「おとうさん」 と呼んでくれたことはなく、

ましてや 「おとうさん、大好き」 とか 「おとうさん、ありがとう」 なんて言ってくれるどころか、

思ってみたことすらないでしょうから、

本当に保育園という存在がなければ、自分が父の日に、

ああいった物をもらえる対象であることに気づくことすらなかったでしょう。

これは父としての自覚が足りないということなのでしょうか?

まあそうなのかもしれませんが、別に感謝されたいとか、

感謝の念を示してもらいたいと思ってやってるわけではなく、

ただ親としての機能は自分にできる範囲内において果たしているだけですので、

これからもこのぐらいの感覚でやっていきたいと思います。

これから先、子どもが父の日のこととかを理解して、

幼稚園や小学校で無理やり作らされる父の日の記念品を卒業して、

自主的に何かできるような歳になったときに、

父の日のことをコロッと忘れてボーイフレンドと遊び回ったりしていたら、

私はショックを受けたりするようになるのでしょうか?

そんな時にはこのブログを読み返して、

自分も父の日や母の日をコロッと忘れて遊び回っているような人間だったよね、

ということを思い出し、「この親にしてこの子あり」 という真理を嚙みしめよう、

と自分に言い聞かせる今日この頃でした。

2019年度「キャリア形成論」ガイダンスに対する質問

2019-04-24 12:32:49 | 教育のエチカ
「キャリア形成論」 の第1回の授業のときのワークシートには、
「ガイダンスでわかりにくかったことや不安なこと、質問したいことがあれば、書いて下さい」
という設問がありました。
多くの方は 「特になし」 と書いていましたが、
不安なことや質問を書いてくれた人もいました。
不安に関しては特に回答する必要はなさそうだと判断しましたが、
質問にはお答えしておかなければならないでしょう。
「プレ・インターンシップ」 に関する質問で、
希望調査票を提出する前に知っておくべきことに関しては、
すでに 「ライブキャンパス」 を通じてメールでお答えしておきました。
今日はそれ以外の質問に関してお答えします。

ところで、3年前にもこの場で質問に答えたことがありますので、
そちらもいちおう見ておいてください。

  「キャリア形成論」 ガイダンスに対する質問

インターンシップの名称や日程など今年とはちょっと異なっているところもありますが、
まあ参考になったのではないでしょうか。
それではまず毎回のワークシートに関する質問から。
Q-1 「ワークシートはどれくらい書けばいいんでしょうか?」
Q-2 「ワークシートの評価において、文章量はどの程度影響するのでしょうか?
     5行程度でも内容が優れていれば最高評価は得られるのでしょうか?」

A-1、2
書いている中身が重要なので、文章量と評価は正確に比例するわけではありませんが、
これまでの先輩たちのワークシートを見るかぎり、
概ね文章量と評価は比例している場合が多いです。
例えば第1回のワークシートの設問は「キャリア形成論ガイダンスで印象に残ったこと
(なるほどと納得したこと、違和感を感じたことなど) を書いてください」 でした。
しかし、口頭で説明したように、印象に残ったことだけを書いてくれても、
それはけっきょく教員が話した内容をそのまま書いているだけになります。
こちらとして書いてもらいたいのは、どういう点がなぜ印象に残ったのか、
それによって自分の考えがどう深まったかなわけです。
文章量が少ない人というのは、
先生が言ったことを書き写しただけで終わっていることが多く、
それではメモやノートと変わらないのでどうしても評価は低くなります。
とにかく自分が何を感じ、どう考えたかまで書いてください。
それを書けば、どうしたってそこそこの文章量になります。
第1回のワークシートで言えば、5~6行しか書いていない人は、
だいたいほとんど何も言っていない感じでしたね。
きちんと自分の考えたことまで書いた人はみんな10行くらいにはなっていました。
ワークシートにどんなことを書いてもらいたいのかについては、
これもこのブログのなかに例が載っていますので参考にしてみてください。

  「キャリア形成論」 のワークシートにはどんなことを書けばいいのか?

続いて職業人レポートに関する質問。
Q-1 「テキストの45ページに 「A4サイズ1枚を1人分とします」 と書かれていましたが、
     テキストから切り取って用いるレポート用紙以外に、
     A4サイズのレポート用紙を自分で用意するということでしょうか?」
A-1
ちがいます。
切り取った紙3枚に記入して提出してくれればそれでOKで、その他の紙は必要ありません。

Q-2 「レポートはどれくらい書くべきですか?」
Q-3 「私は文字を大きく書いてしまうのですが、8割を埋めなければならないとき、
     文字を小さく書いた方が点数が良かったりするのか気になりました。」
A-2、3
テキストの45ページには 「スペースの8割は埋めるようにしましょう」 と書いてありますが、
実際にレポート用紙を見ていただくと、ひとつひとつの欄がけっこう狭いので、
これの8割しか埋めないというのはむしろ相当難しいと思います。
先輩たちは小さい字でぎっしり書き込んでやっと何とか書き切れるか、
ウラのスペースを使って書いていました。
レポートはボールペンで書くように指定されていますので、
ふだん字が大きい人も、下書きをあのレポート用紙に清書する時には、
どうしたって1文字1文字は小さく書かなければならなくなるだろうと思います。
逆に大きな文字であのスペースの8割ぐらいしか埋められなかったとしたら、
本当にインタビューしてお話を聞いてきたのか怪しまれるレベルだと思います。
ウラは自由に使っていいですし、どうしてもそれで足りなかったら、
レポート用紙でもルーズリーフでもテキトーにホチキスで留めて、
書きたいだけ書いてきてください。

Q-4 「インタビュー欄に相手の答えにまじえて、自分の感想を書いていいのか?」
A-4
前問の答えともかぶりますが、相手の方のお答えを書くだけで、
たぶん欄はいっぱいいっぱいだろうと思います。
ですので、さらに感想を書く場合にはウラのスペースを使ってください。

Q-5 「職業人レポートのお話をうかがう際、失礼のない所要時間の目安はどのくらいでしょうか?」
A-5
テキストの46ページにも書いておきましたが、
だいたい20~30分くらいかなあと想定しています。
特に面識のない方の場合はそれぐらいがいいのではないでしょうか。
ある程度親しい方の場合は、話が盛り上がってもっと時間を取ってもらえるかもしれません。
これはまあ関係性次第といったところでしょうか。

Q-6 「定年退職された方 (今は明確な仕事に就いていない方) でもいいですか?」
A-6
この授業の趣旨からすると引退後というのもキャリアですから、
そういう方を排除するわけではありません。
ただし、皆さんがラクをしようと思って、
お父さんとお母さんでは1人足りないからあとおじいちゃんですまそう、
などと思っているのなら、それはやめたほうがいいと思います。
自分に負荷をかけるために3枚のレポートになっていることを思い出してください。

Q-7 「働きがいを感じる瞬間が、休み時間の一服や仕事終わりのお酒などだった場合、
     それを素直に書いて提出してよろしいのですか?」
A-7
こちらの期待する答えと違ったからといって、それを書かなかったり、
テキトーに別の答えを書いてしまったら、それは捏造となります。
インタビューでは、どんな答えであれ、相手の答えを受け止めることが大事です。

職業人レポートに関する質問は以上です。
続いて、ワークシートとレポートの両方に関する質問。
Q-1 「レポートとワークシートを提出する場所は同じですか?」
A-1
ちがいます。
ワークシートと職業人レポートは授業の最後に教室で回収します。
プレ・インターンシップ・レポートは教務課前のレポート提出ボックスに提出してください。

Q-2 「プレ・インターンシップに参加するときや、職業人にインタビューするとき、
     自分の興味のない企業にも進んでインタビューを申し込むメリットは何ですか?」
A-2
これについてはすでに第1回のガイダンスの中でお話ししたつもりでしたが、
聞き逃してしまいましたか?
今の大学1年生の興味なんて本当に狭い世界の中だけで芽生えた興味関心にすぎません。
あなたがたはこの世の仕事のことをほとんど何も知らないしわかっていません。
どんな企業に行っても、どんな職業の方にお話をうかがっても、
必ず新しい発見があり、視野が広がり、新たな興味関心が芽生えるはずです。
狭い視野を広げるというメリットがあるのです。

次はプレ・インターンシップについての質問です。
Q-1 「インターンシップ先で、女性はスカートではなくパンツスタイルでも可ですか?」
A-1
プレ・インターンシップの時の服装については、
各インターンシップ先で文化が異なっていますので、
必要な場合は個別にご連絡します。
が、一般論として女性に対してパンツはダメでスカート着用を求める企業というのは、
今どき聞いたことがありません。

Q-2 「自分のコースとはまったく関係のない職場に行って、
     知識などで置いていかれたりはしないのでしょうか?」
A-2
逆に、あなたがどのコースに所属していようと、
そのコースと関係がありそうな職場だからといって、
その職場に関して十分な知識を持っているなどと勘違いしないようにしてください。
あなたがたはまだ大学に入学したばかりですし、
たとえ、これから2年、3年と大学で学んだからといって、
関連する就職先についての情報が十分に得られるわけではありません。
ですので、コースと関係のありそうな職場だろうがなさそうな職場だろうが、
どっちみち目から鱗が落ちるような新しい発見ばかりだろうと思います。
どこに行くにせよ、あらかじめ十分に情報収集してから臨むようにしましょう。

次の質問もけっこう出されていました。
教員になれなかった場合に関する質問です。
Q-1 「なぜ過半数は教員になれないのか?」
A-1
えええっっ!?
そんなことも知らずに大学を決めてしまったのですか?
高校の先生はきちんと説明してくれませんでしたか?
少子化だからに決まってるじゃないですか。
子どもが減る → 学級が減る → 先生が減る → 教員採用数が減る → 合格者が減る、以上。

Q-2 「教員になれなかったらどうなるのか?」
A-2
教員になれるまで頑張るか、別の道を探すかのどちらかです。
今どき新卒時に教員採用試験に合格ずみで、
卒業と同時に正規採用の教員になれる人はごくごく少数です。
それ以外の人たちで、どうしても教員になりたい人は、
臨採などと呼ばれる非常勤の教員職に就いて現場で働きながら、
教員採用試験を受け続け、何年か後に正規教員になるというのが一番多いです。
大学院 (特に教職大学院など) に進学して、さらに教育について学び続け、
その結果、教採に合格して2年後に教員になるという人もけっこういます。
在学中に教採に受からなかった or 受かりそうにないと判断してあきらめた、
という人もけっこういます。
この場合は、どこかの段階で教採受験とは別の就活を始めることになります。

Q-3 「教員になれなかった場合のことも考えて就活しておくのか?」
A-3
これはあなたの自由です。
教員1本に絞って、ダメだった場合も翌年以降に教採を受け続けるという選択もあります。
これはすなわち、なれなかった時のことは考えないようにするという手ですね。
教員志望の強い先輩たちは臨採を続けながら何回もチャレンジしたりしています。
早々にあきらめて教員以外の道を目指すという人もけっこういます。
これは教員採用試験に受かるかどうかというよりも、
自分が本当に教員に向いているのかどうかを早めに判断するという道でもあります。
教育実習に行ってみてやはり自分は教員には向いていないとわかるという人はけっこういますが、
大学教員の立場から言わせてもらうと、
できることなら教育実習に行く前にこの判断はすませていただきたいものです。
というのも、教育実習を行わせてもらうためには、
プレ・インターンシップなんて比べものにもならないくらい、
ものすごくたくさんの方々のご協力が必要なので、
それをやった後に初めて自分が教師に向いてないことがわかった、
というのは本当にお世話になった皆さまに申しわけないからです。
そして、教員と教員以外の両にらみという人もたまにいます。
教採の勉強をしながら就職活動もしていたり、
公務員試験の勉強もやっていたなんていう人もいました。
逆に4年次の教採の結果が出たあとに (つまり不合格となったあとに)、
就職活動を始めたという人もいました。
これはもう様々ですので、どうするかはあなた次第です。

Q-4 「教師を志望している人で、民間企業や公務員に志望を変更する場合、
     タイムリミットはおよそいつですか?」
A-4
上の質問で答えたように、タイムリミットはありません。
が、大学としては3年次の教育実習に行く前に決めてもらえるとありがたいです。

Q-5 「教職以外の仕事に就こうと思ったときに、就職サポートしてもらえるのか?」
A-5
教職以外の就職サポートが充実していないと話された先生もいらっしゃいましたが、
私はけっしてそんなことはないと思っています。
教育学部から人間発達文化学類に変わって以降は、
学校教員とは異なる人間発達支援者も育成することが本学類の使命となりましたので、
そういう人たちのサポートもきちんと行っています。
就職支援課をどんどん活用してください。

Q-6 「数理自然科学を学んで、教職以外の職業は何に就けるのですか?」
A-6
それはもう仕事はいくらでもゴマンとあります。
それぞれのコースの就職状況について詳しくはコースの先生に直接お尋ねください。

最後にその他の質問を2問ほど。
Q-1 「将来の見通しは早いうちに確定したほうがいいのですか?」
A-1
そんなことはありません。
じっくり悩んでゆっくり決めるのもありです。
特に上述したように、途中で変わるというのはいくらでもあると思います。
ただ、いつまでも何も決めずにダラダラ過ごすのはよくありません。
確定はしなくてもいいので、とりあえず何かに決めてそれに向けてがんばってみる。
そうしてがんばっているうちにだんだん自分のことが見えてきて、
進路が変わるということも出てくるかもしれません。
何も決めずに何もしないでいると変えることもできないので、
早いうちに考え始め、動き始めたほうがいいことは確かです。

Q-2 「テキストに 『マナーを身に付けよう!』 というページがありますが、
     マナー (あいさつのしかた等) を直接指導するといった時間はありますか?」
A-2
ありません。
テキストを参考に自分で身に付けてください。

以上です。
いろいろと不安なことも多いかもしれませんが、
大学での学びの向こう側にキャリアの道筋が見えてくると思いますので、
まずは日々の勉学に勤しむようにしてみてください。