真理と実存人文書院このアイテムの詳細を見る |
人間存在は何故、私の真理を他者に与えるのか?
それは先に述べたように、その存在が根源的に無知であるからである。
真理の構造として、
「存在するものが、存在しないものによって照射されるというものになる。真理-検証の動きは、存在しない将来から、現在へと向かう。」(53頁)
という性格がある。
存在と無の即自存在についての記述でも見たように、われわれは<私>があるところのものが何であるかしらない。知りえないそれゆえ、検証ということが必要となる。
「現在の〔=現前する〕存在は来るべき〔=将来の〕非在である。いたるところで、この現前する存在を取り囲む非在がある。」(63頁)
非在ゆえに、その存在がなにであるかは知りえない。
知りえないということは、知りえたいというという欲求を喚起する。
それゆえ、<私>の現前する存在は、他者へ問いかけなければならない。
他者へ呼びかけるのと同様に、対自的に即自を暴き出そうとする。
「無知は運命への呼びかけ」(89頁)なのである。
*運命については、おそらく、後にニヒリズムについて検証する際に検証予定。
「無知は純粋な存在とではなく、借り物の存在とのみ関わり」(95頁)を持つことをする。
純粋な存在とは、今、それではない存在として、非在として現前する即自=真理である。借り物とは、検証段階における即自、対他的状況に置ける問いかけらる-べき-存在としての存在である。
無知ゆえに問いかけを待つ。
無知には、3つの危惧が含まれている(95頁)という前提がある。
それは、①暴きだされる即自に対する恐怖②暴き出しを行う対自に対する恐怖③暴きだされた即自と暴き出しを行う対自との関係に対する恐怖。というものである。
ここでは、無知というものは真理を見ることを恐れるものとして描かれている。
しかし、同時に、
「無知を認めることは、寛大さgenerositeであり、解放」(135頁)という性格と共に、「行動するためには無知でなければならない」(142頁)という性格もあるというようにも論じられている。
行動する条件であると同時に、時に恐怖を起こす要因ともなりうるもの、それが無知の性格のようだ。
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