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団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

私は寂しい反面、ホッとしました。

2021-12-26 02:30:08 | 日記
  先日 東京にいる娘から「生活必需品を今度の土曜日に送って欲しい」との依頼がありました。

 毎月かみさんが娘に生活必需品を送っています。

 私はその際、「オミクロン株が心配だが、ここ2年間帰省していない。今度のお正月は帰って来て欲しい。」とLINEに書き込みました。

 娘は「オミクロン株が心配だけど帰る事にするとの返答がありました。」。

 かみさんはオミクロン株が流行りだしたのを懸念して、昨日の朝 娘に「今回のお正月は帰って来ない方がいい」と言いました。

 「新幹線は帰省客でいっぱいだし、久しぶりに自宅に帰省できるという事で両親はウキウキだし、子供達ははしゃいでいる。
 こんな新幹線に乗るのは危ない」という事を言っていました。

 娘も「オミクロン株が心配なので、今回は帰省するのを諦めた」と言いました。
 5月のゴールデンウィークに帰る」という事でした。

 私は寂しい反面、ホッとしました。



行かないで [玉置浩二 ]

かみさんがケーキを食べる時、「いいおじいちゃんがみっともない!」と言いました。😅

2021-12-25 02:31:12 | 日記












 昨日のクリスマスイブは、息子宅近くのケーキ屋さんで買いました。

 ケーキを予約する時、店員さんが「12センチか15センチかどちらのケーキにされますか」と訊かれたました。

 かみさんは「12センチで」と言いましたので、慌てて私が「12センチでは小さすぎる、15センチで」と怒ったような口ぶりで注文したようです。

 かみさんがケーキを食べる時、「いいおじいちゃんがみっともない!」と言いました。😅

 まぁ、15センチの4人分を買って、昨日の午後のおやつ、今日の朝のおやつで食べるのが、私のいつものパターンですから。😁

 今回息子宅から近いケーキ屋さんで買いましたが、生クリームがさっぱりしていて美味しかったです。

 ケーキを取りに行った時、私と同じくらいのおじいちゃんがクリスマス・ケーキを2つ持って帰られました。

 お孫さん宅に持って行かれるのかな?





San Francisco - Scott McKenzie

私はとび箱が大の苦手でした。

2021-12-24 06:01:31 | 日記
 中日新聞の読者投稿欄に「友の助け とび箱できた」というタイトルで、小学6年生の女子児童が投稿されていました。


 「運動会ではとび箱をやります」と先生が言いました。

 台上前転は低いだんでもできません。

 とび箱に頭をつけて足を上げますが、回れません。

 友達に助けてもらって何度も練習しました。

 先生ができない子を集めて練習を始めました。

 まずは一だんです。

 なんとか回れました。

 二だんと三だんは先生に補助してもらいながらクリアしました。

 次は四だんです。

 じょそうし、手をつけてこわさを忘れていきおいよく足を上げます。

 しかいが回って足がつきました。

 うれしくて動きそうになるのをおさえてポーズを決めました。

 本番でも友達と先生のおかげできれいに決めることができました。

 これからもできないことはたくさんあると思います。

 それでもがんばっていきたいです。

 以上です。

 運動会で台上前転を行うんだ。

 友達や先生のおかげで本番でもきれいに決めることができて良かったですね。

 頑張ればできるという自信がついたようですね。

 私はとび箱が大の苦手でした。

 助走して目の前にとび箱が見えるとスピードが鈍ってしまい、飛び越えることが出来ませんでした。

 運動会にとび箱がなくて良かったです。




 来生たかお - セカンドラブ

子どもたちの笑い声を戦友に聞かせるためだった。

2021-12-23 01:34:33 | 日記
三宅邦夫さん死去 100歳、子どもに遊びの大切さ伝える
2021年12月20日 21時21分 (12月20日 23時54分更新)





 新聞を使った親子遊びを指導する三宅邦夫さん(右から2人目)=2009年7月、名古屋市瑞穂区で


 「三宅おじさん」の愛称で親しまれ、70年以上にわたって中部地方の子どもたちに遊びの大切さを伝えてきた遊戯研究家の三宅邦夫(みやけ・くにお)さんが19日、敗血症のため死去した。100歳。愛知県春日井市在住。葬儀・告別式は家族葬で執り行う。
 1921(大正10)年、岐阜県恵那市で生まれ、42年に浜松飛行隊へ入隊。

 飛行機の整備兵としてフィリピンやニューギニアを転戦。

 戦後の貧しさからすさんでしまった子どもの笑顔を取り戻そうと、47年に「中部日本弁論研究会」を結成し、東海3県を中心に巡回子ども会の活動を開始した。

 49年には会を「中日こども会」に改称し、51年に中部日本新聞社(現中日新聞社)に入社。

 毎週、会員の児童や学生らに新聞や段ボールなど身近な材料を使った遊びの方法を伝えた。会員が学んだ遊びを友人たちに教える形で、多くの子どもに遊びを伝えていった。2009年に中日新聞社を退社後も個人で活動を続けた。

 戦争体験原点「子どもに笑顔を」
 19日に100歳で亡くなった遊戯研究家の三宅邦夫さんは、東海3県を中心に時には海外で、延べ1千万人以上を笑顔で指導してきた。

 その活動の原点は、飛行機整備兵としてフィリピンなどに従軍した、自身の戦争体験にある。

 大学在学中から会の活動を手伝ってきた山崎治美さん(73)=名古屋市熱田区=によると、三宅さんは終戦翌年に復員した広島で、暗い目をした子どもたちに物をせがまれた。その光景は、終戦間際に、フィリピンで見た子どもたちとそっくりだった。

 三宅さんはその時に「子どもたちの笑顔を取り戻そう」と決意。翌年、子どもに夢を語ってもらうために「中部日本弁論研究会」(後に中日こども会に改称)を設立した。

 戦時中、食料をもらうなどして助けてもらったマレーシア・ボルネオ島の村には戦後、何度も訪れ、小学校に図書館を寄贈。同行した山崎さんは「とにかく子どものために仕事をしていた」と振り返る。

 2006年の本紙の取材には、遊びを教える場には、戦死した戦友たちの名簿をいつも持ち歩いていることを明かしている。子どもたちの笑い声を戦友に聞かせるためだった。

 90歳を過ぎても活動を続けていたが、コロナ禍で活動を休止。

 山崎さんは8月に電話をもらい、再開を約束していたが、かなわなかった。「半世紀も一緒に活動していたので、空気のような存在をもぎ取られた感じ。コロナがなければもう少し活動できたのに」と残念がった。

 以上です。

 世の中にこのような善行を行っている方がいるなんて知りませんでした。






卒業式で森山直太朗が「さくら」をサプライズで歌う!「カロリーメイト」


肩こりなどには、鍼は効果があるように思います。

2021-12-22 01:39:56 | 日記
 中日新聞の日曜版「おじさん図鑑」に「鍼治療の実際」というタイトルで、飛島圭介さんがエッセイを書かれていました。

 肩凝りのひどさに悩まされたあげく、友だちに紹介された鍼灸(しんきゅう)院に行った。

 鍼は、若い頃、交通事故で肩をケガしたときにリハビリで打ってもらったことがある。

 だから経験はあるのだが、なにしろ注射の時も顔を背けるほどの怖がりなのでびくびくしていた。

 のっけから「もう少し力を抜いてください」と鍼灸師に言われた。

 自分ではリラックスしているつもりだったが、やはり緊張していたらしい。

 うつぶせの姿勢になると、頭からクビ、肩に次々トントントンと鍼が打たれていく。

 どんなふうに鍼が刺さっているのか見る勇気はない。

 鍼を打ったらすぐ抜くのか、それともしばらく打ったままにしてあるのかも見たくない。

 「あ、緩くなってきました。とても反応が早いですね」と言われ、褒められたようで少しうれしい。

 その後も腰、手足、おなかと鍼を打ってもらい、マッサージして治療が終わった。

 全身がほぐれた感じでポカポカと温かい。

 やや視力も回復したようだ。

 鍼は中国伝来というが、数千年前の誰が発明したのだろう。

 昔の人はすごい、とおじさんは軽くなった肩をグルグル回した。

 以上です。


 私も30代半ばの時に、病院で坐骨神経痛と診断され鍼治療に行ったことがあります。

 その場では腰が軽くなった気がしましたが、しばらくするとまた腰が痛みました。

 病院の診断が間違っていて、椎間板ヘルニアだったので鍼の効果はなかったです。

 それ以降は鍼の治療は受けたことがないです。

 肩こりなどには、鍼は効果があるように思います。





岡村孝子 夢をあきらめないで (2021 music day)