三宅邦夫さん死去 100歳、子どもに遊びの大切さ伝える
2021年12月20日 21時21分 (12月20日 23時54分更新)

新聞を使った親子遊びを指導する三宅邦夫さん(右から2人目)=2009年7月、名古屋市瑞穂区で
「三宅おじさん」の愛称で親しまれ、70年以上にわたって中部地方の子どもたちに遊びの大切さを伝えてきた遊戯研究家の三宅邦夫(みやけ・くにお)さんが19日、敗血症のため死去した。100歳。愛知県春日井市在住。葬儀・告別式は家族葬で執り行う。
1921(大正10)年、岐阜県恵那市で生まれ、42年に浜松飛行隊へ入隊。
飛行機の整備兵としてフィリピンやニューギニアを転戦。
戦後の貧しさからすさんでしまった子どもの笑顔を取り戻そうと、47年に「中部日本弁論研究会」を結成し、東海3県を中心に巡回子ども会の活動を開始した。
49年には会を「中日こども会」に改称し、51年に中部日本新聞社(現中日新聞社)に入社。
毎週、会員の児童や学生らに新聞や段ボールなど身近な材料を使った遊びの方法を伝えた。会員が学んだ遊びを友人たちに教える形で、多くの子どもに遊びを伝えていった。2009年に中日新聞社を退社後も個人で活動を続けた。
戦争体験原点「子どもに笑顔を」
19日に100歳で亡くなった遊戯研究家の三宅邦夫さんは、東海3県を中心に時には海外で、延べ1千万人以上を笑顔で指導してきた。
その活動の原点は、飛行機整備兵としてフィリピンなどに従軍した、自身の戦争体験にある。
大学在学中から会の活動を手伝ってきた山崎治美さん(73)=名古屋市熱田区=によると、三宅さんは終戦翌年に復員した広島で、暗い目をした子どもたちに物をせがまれた。その光景は、終戦間際に、フィリピンで見た子どもたちとそっくりだった。
三宅さんはその時に「子どもたちの笑顔を取り戻そう」と決意。翌年、子どもに夢を語ってもらうために「中部日本弁論研究会」(後に中日こども会に改称)を設立した。
戦時中、食料をもらうなどして助けてもらったマレーシア・ボルネオ島の村には戦後、何度も訪れ、小学校に図書館を寄贈。同行した山崎さんは「とにかく子どものために仕事をしていた」と振り返る。
2006年の本紙の取材には、遊びを教える場には、戦死した戦友たちの名簿をいつも持ち歩いていることを明かしている。子どもたちの笑い声を戦友に聞かせるためだった。
90歳を過ぎても活動を続けていたが、コロナ禍で活動を休止。
山崎さんは8月に電話をもらい、再開を約束していたが、かなわなかった。「半世紀も一緒に活動していたので、空気のような存在をもぎ取られた感じ。コロナがなければもう少し活動できたのに」と残念がった。
以上です。
世の中にこのような善行を行っている方がいるなんて知りませんでした。
卒業式で森山直太朗が「さくら」をサプライズで歌う!「カロリーメイト」