今日から5月,月日の経つのは早いですね!
小林秀雄さんの「学生との対話」の続きを書きます。
民俗学の柳田邦男さんについて話されています。
柳田邦男さんの「故郷七十年」という本は、あの人が八十三の時に口述筆記をした本で、「神戸新聞」に連載されたものです。その中にこういう話があった。あの人の十四の時の思い出話が書いてあるのです。
その頃、あの人は茨城県の布川という町の、長兄の松岡鼎(かなえ)さんの家にたった一人で預けられていた。
その家の近所に小川という旧家があって、非常に沢山の蔵書があった。
柳田さんはそこへ行って本ばかり読んでいたので、身体を悪くして学校にも行けなかった。
その旧家の奥に土蔵があって、その前に二十坪ばかりの庭がある。そこに二、三本樹が生えていて、石で作った小さな祠(ほこら)があった。その祠は何だと聞いたら、死んだおばあさんを祀ってあるという。
柳田さんは、子供心にその祠の中が見たくて仕様がなかった。
ある日、思い切って石の扉を開けてみた。そうすると、丁度握り拳くらいの大きさの蝋石(ろうせき)がことんとそこに納まっていた。実に美しい玉を見たのです。その時、不思議な、実に奇妙な感じに襲われたと言うのです。
それで、そこにしゃがんでしまって、ふっと空を見た。実によく晴れた春の空で、真っ青な空にいっぱい星が見えた。その頃自分は十四でも非常にませていたから、いろんな本を見て天文学も相当知っていた。今頃こんな星がある筈はない。今頃出る星は、俺の天文学の知識ではあんなところにある筈がない、ということまでその時考えたそうだ。けれども、その奇妙な気持ちはどうしてもとれない。その時鵯(ひよどり)が高空でぴいっと鳴いた。その鵯の声を聞いた時に、ぞっとして我に帰った。そこで柳田さんはこう言っているのです。もしも、鵯が鳴かなかったら、私は発狂していただろうと思うと。ただ私はその後たいへんな生活の苦労をしなければならなかったので、そのために私は救われたのであると書いてあるんです。
僕はそれを読んだ時非常に感動しましたね。ははあ、これで僕は柳田さんという人が分かったと思いました。こういう人でなければ、民俗学なんてものはできないのです。民俗学も一つの学問だけれども、科学ではありません。科学の方法みたいな、あんな狭苦しい方法では民俗学という学問はできない。それから、もっと大事なことは、鵯が鳴かなかったら発狂するというような、そういう神経を持たなければ民俗学というものはできないのです。そういうことを諸君よく考えてごらんなさい。僕はその時はっと感動して、ああ柳田さんの学問の秘密は、こういう感受性にあったのだと気づきました。
柳田さんは沢山の弟子を持っている。けれども、柳田さんの著述は非常に面白いが、弟子の書いたものはどうも面白くおもえない。何故かといいますと、弟子どもは学問はしていますが、或る感受性に欠けている。その感受性というのは何ですか。柳田さんは、祠の中の蝋石の中に、おばあさんの魂を見たのです。柳田さんは、後から聞いたと言っていますが、おばあさんは中風になって寝ていて、いつもその蝋石で体をこすっていた。お孫さんが、おばあさんを祀るのに、この玉が一番記念になるだろうと言って、祠に入れてお祀りをしていたのです。
少年がその玉をみて、怪しい気持ちになったのは、その玉の中に宿ったおばあさんの魂が見えたからです。何でもないことです。だから柳田さんは、馬鹿々々しい話なら沢山ございますよと言ってそういう話を書いている。けれども本当の話です。馬鹿々々しいから嘘ということはありません。柳田さんは、そう言いたいのです。
柳田さんは、幸いにして後に生活の苦労をしなければならなかったから、私は救われたと言っています。しかし、生活の苦労なんて、誰だってやっています。特に、これを尊重するのは馬鹿々々しいことでしょう。当たり前のことです。生活の苦労も、取り上げて論ずるまでもない、当たり前の事だ。柳田さんは、そう言いたいのです。諸君はみんな自分の親しい人の魂を持って生きています。死んだおばあさんをなつかしく思い出す時に、諸君の心に、それはやって来ます。それが、昔の人がしかと体験していた魂です。それは生活の苦労と同じくらい平凡なことで、又同じくらいリアルなことです。柳田さんはこういう思想を持っているから民俗学ができるのです。けれども、現代のインテリには、なかなかこういう健全な思想が持てない。だから民俗学が生気を失うのです。
小林秀雄さんの言わんとされることは、たった3、4百年しか経っていない科学の狭い合理的経験の中でのことを真実だと思わず、世の中には計り知れない真実がたくさんあるということを忘れないようにしなさいと言われているように思いました。
私にはむつかしすぎます。(苦笑)
小林秀雄さんの「学生との対話」の続きを書きます。
民俗学の柳田邦男さんについて話されています。
柳田邦男さんの「故郷七十年」という本は、あの人が八十三の時に口述筆記をした本で、「神戸新聞」に連載されたものです。その中にこういう話があった。あの人の十四の時の思い出話が書いてあるのです。
その頃、あの人は茨城県の布川という町の、長兄の松岡鼎(かなえ)さんの家にたった一人で預けられていた。
その家の近所に小川という旧家があって、非常に沢山の蔵書があった。
柳田さんはそこへ行って本ばかり読んでいたので、身体を悪くして学校にも行けなかった。
その旧家の奥に土蔵があって、その前に二十坪ばかりの庭がある。そこに二、三本樹が生えていて、石で作った小さな祠(ほこら)があった。その祠は何だと聞いたら、死んだおばあさんを祀ってあるという。
柳田さんは、子供心にその祠の中が見たくて仕様がなかった。
ある日、思い切って石の扉を開けてみた。そうすると、丁度握り拳くらいの大きさの蝋石(ろうせき)がことんとそこに納まっていた。実に美しい玉を見たのです。その時、不思議な、実に奇妙な感じに襲われたと言うのです。
それで、そこにしゃがんでしまって、ふっと空を見た。実によく晴れた春の空で、真っ青な空にいっぱい星が見えた。その頃自分は十四でも非常にませていたから、いろんな本を見て天文学も相当知っていた。今頃こんな星がある筈はない。今頃出る星は、俺の天文学の知識ではあんなところにある筈がない、ということまでその時考えたそうだ。けれども、その奇妙な気持ちはどうしてもとれない。その時鵯(ひよどり)が高空でぴいっと鳴いた。その鵯の声を聞いた時に、ぞっとして我に帰った。そこで柳田さんはこう言っているのです。もしも、鵯が鳴かなかったら、私は発狂していただろうと思うと。ただ私はその後たいへんな生活の苦労をしなければならなかったので、そのために私は救われたのであると書いてあるんです。
僕はそれを読んだ時非常に感動しましたね。ははあ、これで僕は柳田さんという人が分かったと思いました。こういう人でなければ、民俗学なんてものはできないのです。民俗学も一つの学問だけれども、科学ではありません。科学の方法みたいな、あんな狭苦しい方法では民俗学という学問はできない。それから、もっと大事なことは、鵯が鳴かなかったら発狂するというような、そういう神経を持たなければ民俗学というものはできないのです。そういうことを諸君よく考えてごらんなさい。僕はその時はっと感動して、ああ柳田さんの学問の秘密は、こういう感受性にあったのだと気づきました。
柳田さんは沢山の弟子を持っている。けれども、柳田さんの著述は非常に面白いが、弟子の書いたものはどうも面白くおもえない。何故かといいますと、弟子どもは学問はしていますが、或る感受性に欠けている。その感受性というのは何ですか。柳田さんは、祠の中の蝋石の中に、おばあさんの魂を見たのです。柳田さんは、後から聞いたと言っていますが、おばあさんは中風になって寝ていて、いつもその蝋石で体をこすっていた。お孫さんが、おばあさんを祀るのに、この玉が一番記念になるだろうと言って、祠に入れてお祀りをしていたのです。
少年がその玉をみて、怪しい気持ちになったのは、その玉の中に宿ったおばあさんの魂が見えたからです。何でもないことです。だから柳田さんは、馬鹿々々しい話なら沢山ございますよと言ってそういう話を書いている。けれども本当の話です。馬鹿々々しいから嘘ということはありません。柳田さんは、そう言いたいのです。
柳田さんは、幸いにして後に生活の苦労をしなければならなかったから、私は救われたと言っています。しかし、生活の苦労なんて、誰だってやっています。特に、これを尊重するのは馬鹿々々しいことでしょう。当たり前のことです。生活の苦労も、取り上げて論ずるまでもない、当たり前の事だ。柳田さんは、そう言いたいのです。諸君はみんな自分の親しい人の魂を持って生きています。死んだおばあさんをなつかしく思い出す時に、諸君の心に、それはやって来ます。それが、昔の人がしかと体験していた魂です。それは生活の苦労と同じくらい平凡なことで、又同じくらいリアルなことです。柳田さんはこういう思想を持っているから民俗学ができるのです。けれども、現代のインテリには、なかなかこういう健全な思想が持てない。だから民俗学が生気を失うのです。
小林秀雄さんの言わんとされることは、たった3、4百年しか経っていない科学の狭い合理的経験の中でのことを真実だと思わず、世の中には計り知れない真実がたくさんあるということを忘れないようにしなさいと言われているように思いました。
私にはむつかしすぎます。(苦笑)