がん(骨肉腫)闘病記

抗がん剤治療、放射線治療、人工関節置換手術、MRSA感染、身体障害者となっての生活の記録を残します。

「がんのママをささえ隊」女性医師 企画のきっかけは後輩の死

2017年10月12日 | Weblog

2017年09月18日 00時58分34秒

テーマ: がん一般


https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170917-00010002-jisin-soci


9/17(日) 11:06配信 女性自身


「ウィッグがこんなに暑いなんて。帽子みたいにパッと取っちゃって、うちわであおぎたい~」

「でも幼稚園でいきなりウィッグをはずしたら、ほかのママたちが驚くだろうなぁ」

身ぶり手ぶりを交えながらの会話に、さざ波のような笑い声が重なる。スチール製の丸いすに座り「ウィッグ」を話題に盛り上がるのは、30代や40代の若さで乳がんを発症したママたちだ。全員、抗がん剤の副作用で脱毛を経験した。そんなママたちを穏やかに見つめるのは金城舞さん(38)。福岡県内の大学病院に勤務する乳腺外科医だ。

「今、女性の11人に1人が乳がんになるといわれています。そのなかで最近増えているのが、子育て中の若いママなんです」(金城さん・以下同)

金城さん自身も8歳の息子と5歳の娘を持つママ。だから、母親の患者ならではの不安はよくわかる。家事や育児をどうするか。病気のことを子どもにどう伝えたらいいんだろう。もし、自分に万が一のことがあったら――。

「ママたちの不安を安心に、涙を笑顔に変えたい」

昨年10月、金城さんはNPO法人「がんのママをささえ隊 ETERNAL BRIDGE」(以下・ささえ隊)を立ち上げた。

「スタッフは6人。私はプロジェクトリーダーとして、ホームページでの情報発信やイベントを企画します。とくに力を入れているのが月に1度の交流会。味噌づくりとか、お話会とか、家族ぐるみで参加してもらいます」

がんのママたちが互いに共感することで生まれる力。それが病気と向き合うために大切だと金城さんは言う。ささえ隊を始めるにあたり、金城さんの背中を押したのは、乳がんで闘病生活を送っていた小林麻央さん(享年34)の姿だった。麻央さんは命尽きる直前まで、ブログで子どもたちへのこまやかな愛情や家族への感謝をつづっていた。

「麻央さんを見て、やるなら今だ、そう思いました。なぜかって? 現実には麻央さんのようにできないママがたくさんいるからです」

金城さんは乳腺外科医として、子どもを残して亡くなっていく若いママをたくさん見てきた。不安や苦しみに追われて大切な時間を使い果たす人。現実逃避をしたまま最期を迎える人……。

「医療の問題もあるんです。乳がん治療は日進月歩。それはすばらしいことですが、ときに医者のほうが頑張りすぎて、患者さんの意思や家族と向き合う時間を優先できなくなったりして」

個室や特別な場所を除き、感染症予防の名目で幼い子どもの「病室への立入り禁止」を掲げる病院も多い。愛するわが子と会えず、ひとり病室で苦闘するママを見るたびに、やりきれない思いが募った。だからこそ、「麻央さんは、光だった」と言う。

「彼女と同じにはなれなくても、がんのママが、子どもへの愛情を伝えられるお手伝いをしたい。母と子の絆がつながり続けるための橋を架けたかったんです」

だが、大学病院でのポジションは医員という、いちばん下の職制。乳腺外科医としてもこれから修業を積んでいこうという若手医師だ。病院内で患者のための活動を立ち上げるには時間がかかる。既存の組織内で新しいチャレンジは難しい。ならば、別の立場を作ってボランティアでサポートすればいいと切り替えた。それが「ささえ隊」だ。

「こう見えて私、猪突猛進のところがあるんです」

涼やかな笑顔を引き締めて、キリリと言った。

金城さんは'79年5月、福岡市東区で2人きょうだいの長女として生まれた。その後、1年間の予備校生活を経て、九州大学医学部に進学。大学で、現在の夫と知り合った。医学部の同級生だった彼は、卒業後に北海道で研修医になるという。

「私も北海道に行く」

25歳になった'05年春、医師としてのスタートは、広大な北の大地だった。当初は家庭医を目指し、総合内科で研修を受けた金城さんだが、研修医3年目にして乳腺外科に異動し、手術や病棟担当として働いた。'08年、付き合ってきた彼と28歳で結婚、翌年、長男が生まれる。充実した日々の中、“修業”は転機を迎える。

「消化器外科医の夫が、名古屋のがんセンターに移ることになって。ここは乳腺外科も一流です。私はレジデント(初期研修を終えた後期研修医)というポジションで、所属できることになりました」

その職場では「子育て中のママさんレジデント」は、金城さんが第1号だった。名古屋での3年目。32歳の金城さんは、病理診断の部署に異動した。大好きな診察や手術はできない。そんななか、悲しい出来事が起きる。'12年2月、金城さんは大学時代の後輩の葬儀に参列した。乳がんのため、30歳で亡くなった彼女には、3歳と1歳の子どもがいた。

「夫は私の医学部時代の同期。家族ぐるみの付き合いでした。物心つく前に母親を亡くした、幼い子どもたちが心配でした。それで、『天国のお母さんからよ』と、クリスマスやバレンタインのプレゼントを贈っていたんです」

せめてママの代わりに。そんな思いで始めたが、忙しくてつい贈り忘れたりする。そもそも子どもたちが本当に欲しいものは、よその女性からの贈り物だろうか。もっと違う形で、ママの愛が子どもの中で生き続ける方法はないのか、そう思いを巡らせるようになった。

胸の奥で、少しずつ思いを熟成するうち月日が過ぎた。'13年、金城さんと夫は故郷の福岡県に戻ることを決めた。「仕事と育児の両立を応援する」というプロジェクトで、福岡県内の大学病院の求人募集があったのだ。無事に採用された金城さんは、再び乳腺外科医として一歩を踏み出す。そして、30歳で亡くなった後輩の死が、ささえ隊立ち上げのきっかけとなった。

「がんであるかどうかにかかわらず、すべてのママが助け合えるようにしたい。互いに思いを分かち合える、そんなママたちの共感力が広がってほしいんです」」

119番にためらい? 救急車の「適正利用」強調で 神戸

2017年10月12日 | Weblog

2017年08月18日 08時58分07秒

テーマ: 医療・介護・福祉制度


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170818-00000000-kobenext-l28


神戸新聞 NEXT 8/18(金) 6:50配信


「突然の激しい頭痛、救急車を呼ぶべきですか-。神戸市消防局がこんなアンケートを実施したところ、「呼ぶべきでない」「分からない」と答えた市民が3分の1を占めた。実はこの症状、くも膜下出血などの疑いがあり、「100%呼ぶべき状況」との想定に基づく設問だった。予想外の結果に、同局は「『救急車の適正利用』が強調されるあまり、119番のためらいにつながっている可能性がある」と懸念している。

【動画】「断らない救急医療」日本一の救命救急センターに患者が運び込まれる

 アンケートは、増加傾向にある救急車の出動件数の背景を調べようと、神戸市消防局が今年5月に実施。市内在住のネットモニター2230人が答えた。

 「倒れて意識がない人がいる」など具体的な17の状況を挙げ、救急車を呼ぶべきかどうか、呼んでもよい▽呼ぶべきではない▽分からない-の3択で質問。例えば「突然、激しい頭痛が起こった」場合は、「呼んでもよい」が65・5%にとどまり、「呼ぶべきではない」が11%、「分からない」が23・5%だった。

 激しい頭痛と同様に重症の恐れが強い「急にろれつが回らなくなった」と「胸が締め付けられるように痛む」でも、「呼んでもよい」は8割程度。症状により認識に差はあるものの、タクシー代わりに呼び出すなど救急車の不適切利用が社会問題化する中、119番に対し慎重になっている市民の姿が浮かび上がる。

 高齢化に伴い、同市内の救急出動は2016年、8万件を突破。全国では7年連続で過去最多を更新している。消防当局は「適正利用」を積極的に広報しているが、その際、不適切な通報事例が象徴的に取り上げられ、市民の意識に過度に影響しているとみられる。

 同局は「危険な変調などを感じたら、ためらわずに救急車を呼んでほしい」と強調。通報すべき状況を丁寧に説明するなど、誤解の解消に努めるという。

 救急車を呼ぶかどうか迷った際には、同市が運用する無料ウェブサービス「救急受診ガイド」を利用するようPR。今秋には、救急相談ダイヤル「#7119」を導入する予定という。

 総務省消防庁も救急車を呼ぶ必要があるかどうか緊急度を判定するスマートフォン用アプリ「Q助(きゅーすけ)」を無料提供している。(小川 晶)」


生活保護にも同様のことが言えるけど、メディアが極端な数%の事例を、あたかも全体のように喧伝して、制度を利用しづらくしている。


迷うような状況なら、すぐ呼べばいいんだよ。一般市民は医者じゃないんだから。病状の判断なんかできないって。


それじゃ医療リソースが追い付かないとか言うのがいるけど、そんなのは政治家・厚生労働省の怠慢・政策判断の誤りであって、株式に突っ込んでる積立金とか社会保障に回せって話だよ。

インテルCEOなどが大統領助言組織辞任、白人主義への対応巡り

2017年10月12日 | Weblog

2017年08月15日 21時02分32秒

テーマ: 憲法・政治関連


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170815-00000017-reut-n_ame


ロイター 8/15(火) 8:53配信


「14日 ロイター] - 米バージニア州シャーロッツビルで12日に白人至上主義団体と反対派が衝突し死傷者が出た事件で、トランプ大統領が当初極右派を明確に非難しなかったことを受け、製薬大手メルク<MRK.N>のケネス・フレイジャー最高経営責任者(CEO)が14日、大統領の経済助言組織である製造業評議会のメンバーを辞任した。同CEOはアフリカ系米国人。

【スライドショー】米シャーロッツビルの白人主義集会で衝突

このほか、米半導体大手インテルのブライアン・クルザニッチCEOやスポーツ衣料品大手アンダーアーマー<UAA.N>のケビン・プランクCEOも相次ぎ辞任を表明した。

インテルのクルザニッチCEOは「わが国の断絶した政治状況が重要課題に対する深刻な危害となっていることに関心を促すため評議会を辞任した」とブログに投稿した。

アンダーアーマー<UAA.N>のプランクCEOはツイッターで辞任を明らかにし、米製造業の改善に向けて引き続き意志を強くするとしながらも、同社が「政治ではなく、革新やスポーツに関与する」と述べた。プランク氏は先に、トランプ大統領を称賛したことで同社の広告塔を務めるスポーツ選手らから反発を受けていた。

フレイジャー氏は声明で「米国の指導者は、すべての人々は平等であるというわが国の理想に反する敵対感情、憎悪、白人至上主義の拒否を明確に示し、われわれの基本理念を尊重すべきだ」と表明。「メルクのCEOとして、また個人的な良識に基づき、私は不寛容と過激思想に反対する責任を感じている」と述べた。

これに対しトランプ大統領は、ツイッターで「フレイジャーCEOが大統領の製造業評議会を辞任した。CEOは、これからは『不当に高い薬価の引き下げ』に向けてもっと時間を割けるようになるだろう!」と揶揄(やゆ)した。

さらに大統領は、メルクについて「薬価つり上げのリーダーであり、同時に米国から仕事を海外へ移動させている。仕事を国内に戻し、薬価を下げるべきだ」とツイートした。

フレイジャーCEOは2016年の大統領選時、共和党・民主党双方に献金するなどの政治的貢献をしていたが、大統領候補には献金を行わなかった。

同CEOに対し、同じ製薬会社であるアルナイラム・ファーマシューティカルズ<ALNY.O>のジョン・マラガノーレCEOも賛同を表明。他業界でもヒューレット・パッカード・エンタープライズ(HPE)<HPE.N>のメグ・ホイットマンCEO、ゴールドマン・サックス<GS.N>のロイド・ブランクファインCEOらも支持を宣言した。

国内最大の労組、米労働総同盟産別会議(AFL─CIO)は声明で「当会議は、シャーロッツビルで発生した国内過激派による敵対感情に基づく行動を明確に非難するものであり、大統領にも同様の対応を求める」と述べた。」


こんな下衆な大統領に、真っ先に金のゴルフクラブ持って馳せ参じたのが我が国の総理大臣というのが情けないね。


個人的なことを言うと、Vodafone.K.K.で働いていたときに、Vodafone.K.K.がソフトバンクに買収されて、孫正義の下では働きたくないと思って転職したんだけど、トランプと孫正義が抱き合ってる姿を見た時、「自分の判断は間違ってなかったな」と改めて確認したね。


こんなゴミみたいな大統領と、それと繋がりを持って金儲けしようという銭ゲバと。


貧しくても、自由・平等・寛容を大切に思って生きていきたいね。実践はなかなか難しいけど。

トルーマンは何故原爆投下を決断したか?

2017年10月12日 | Weblog

2017年08月06日 18時38分54秒

テーマ: 戦争・平和


Ⅰ 本土侵攻に伴う米軍犠牲の本当の意味


http://www.inaco.co.jp/isaac/back/005/005.htm


平成18年1月2日 筆者 哲野イサク
1948年(昭和23年)広島生まれ。
早稲田大学第一商学部中退。
アメリカでジャーナリストとして在米日本企業を取材、

レポート。
その後、テレビ朝日と契約して、「三浦事件」の報道に

あたる。
1986年、ジャーナリストをやめ帰国。
広島で父親の経営する会社を引き継ぐ。
2005年、その会社が倒産。その後再び

ジャーナリスト復帰を目指す。
なお哲野イサクはペンネーム。本名伊奈道明。






 2005年の暮、ある目的があって広島平和記念

資料館を訪ねた。

といっても、広島市内の西区にある私の事務所から

歩いて20分ほどの距離だ。もっと頻繁に訪れていい

はずだが、そうもいかない。

ニューヨークに通算10年くらい住んでいて、

エンパイア・ステートビルやツインタワーには仕事

で行ったが、自由の女神はついに行かずじまいだった。

手近にあるとそんなものだ。


 確か資料館の回りは鳩でいっぱいだった筈だが、

影も形もない。連れのものに聞いて見ると、糞害で

もう餌をやらないことにし、鳩が寄りつかなくなった

のだそうだ。頼み込むようにして鳩にどいてもらい

車を動かしたのを思い出す。いいじゃないか糞害くらい、

と思ってしまう。


 入場料は大人50円。月曜日の午後だというのに

結構人が入っている。外国人の人たちがざっと2-3割。

詰まらなさそうに見ている女の子も居たが、うっすら

涙を浮かべている外国人のひとも2-3人居る。

ここの展示はやはり何度来ても衝撃的だ。以前はなかった

と思うのだが、2階の展示で、原爆投下直後の、なんと

言うんだろうか、実物模型展示があった。作り物だ。

いただけない。どんなに精巧に作ってみても、所詮

作り物だ。その一角だけがお化け屋敷のようで、逆に

原爆の恐ろしさを矮小化している。


 目的というのは、資料館が原爆投下のいきさつをどう

説明しているか確かめると云うことだった。2005年の

ノーベル平和賞の授賞式で述べられている通り、投下後

60年もたっているのに核兵器使用の危機は、減ずる

ばかりかかえって高まっている。一つは核拡散の要素が

大きいが、やはりハイパー大国アメリカが核兵器の保有

と開発をやめようとしないことに根本原因がある。


 核兵器に関して云えば、アメリカの支配層とアメリカ

一般民衆とは、はっきり分けて考えなければならない。

何故、いかなるプロセスで日本に、そしてその結果とし

て広島と長崎に原爆が投下されたのかを明確にし、

その意志決定のプロセスを情報として人類の共有財産
にすることが、核兵器使用の歯止めの一つになる
と思うからだ。
「ノーモアヒロシマ」ではなくて、「ホワイ?
ヒロシマ?」だ。
資料館の展示は、驚くほど簡単にこの点を済ませ

ている。この展示があるのは東館の1階、玄関から

入って突き当たりの左側の小区画でささやかに

知ることができる。要約すれば

1.戦争終結にあたって米軍はその被害を最小限

に止めようとした。
2.すでに米ソ冷戦がはじまっており、戦後の

交渉を有利にしようと米軍が原爆投下を急いだ。

3.原爆開発計画に20億ドルの費用を使っており、

何らかの形で成果を見せなければ批判が高まる

恐れがあった。

ということだ。そして何故広島と長崎が選定されたか

という点に力点が置かれて説明してある。

(参考に平和記念資料館のURLは、

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/ )





 このテーマでの資料・文献はおびただしい数に上る。

しかしその論点は、多くが「原爆投下は正しかったか

、誤っていたか」「原爆投下はしなくても良かったか、

必然だったか」「原爆投下は防げたか、防げなかったか」

という点に集中しており、それぞれの論者が自分にとって

都合のいい資料を切り出して議論が行われている。

こういう風に問題を立てると、

それぞれのテーマに「イエス」とも「ノー」とも答えることが

できる。

代表的な例が次のようなホームページだろう。
http://www.nipponkaigi.org/reidai01/Opinion3(J)/history/nagasaki.htm

それでなければ、原爆投下は歴史的事実なのだから

いいとも悪いともいってみても始まらない、大切なことは

これからその使用をどう未然に防ぐか、と言う主張である。

「ノーモアヒロシマ」に込められたイデオロギーも限りなく

この主張に近い。これを突き詰めると次のようなホーム

ページになる。
http://www.csi.ad.jp/ABOMB/index-j.html 
このホームページでプロデューサーの大場允という人は、

次ぎのように云っている。
 「原爆の被害者であることを強調して相手を非難したり、

自己満足のために謝罪を求めることは、歴史の観点から

見れば意味のないことです。

問題は ”過去から何を学ぶか?”です。 歴史は過去を

学ぶ教室です。

そこで学ぶことは、教科書の中の単なる名前や言葉、

数ではありません。

生き方を学ぶのです。私たちは他の人たちとも過去に

関する知識を共有する必要があります。」
 まさしく「過去から何を学ぶか」なのだが、大場氏が

ついに触れようとしない一点、「誰が、どのようなプロセスで、

原爆投下を決断したか?」こそが学ぶべきことなのだ。

 なぜ日本に原爆投下をしたのか、この問題は決断した

当の本人に聞いてみるのが一番手っ取り早い。大統領

トルーマンはすでになくなっているけれど、膨大な文書を

残している。しかもトルーマン政権の意志決定の過程から

議論の詳細に至るまでの公式記録を、私たちは現在入手


できる。しかも大統領トルーマンという人は、アメリカの

農民出身者らしく几帳面な人柄で、「トルーマン日記」を

大量に残している。ハリー・S・トルーマンは何の拍子か

ルーズベルト大統領の副大統領に指名され、ルーズベルト

大統領の急死によって、副大統領職わずか82日間で、


これまた何の拍子か大統領になってしまったという人で

ある。大学卒業ではない最後の大統領としても有名である。

比較的冷静な記述が次の

ホームページにあるので興味のある方は参照されたい。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3 )





 トルーマン大統領に関しては、ミズーリ州インディ

ペンデント市にあるトルーマン大統領博物館(Truman

Presidential Museum and Library)に、トルーマン

日記を含めて膨大な資料が保存されている。これら

文書の内容は次のURLで簡単に入手することができる。
http://www.trumanlibrary.org/

 膨大である。問題は私のテーマを追求するにあたって、

どの文書を出発点とするかだ。色々検討した結果(という

よりも直観的に)

Robert H. Ferrell という人の「トルーマンと原爆、文書から見た歴史」

を出発点とすることにした。この論文はトルーマン大統領

博物館のホームページに掲げられており、いわばトルーマン

の代弁を行っていると見たからだ。ここでざっとおさらいを

しておけば、その後に出てくる生資料(原爆投下までに

開かれたおびただしい原爆投下に関する臨時委員会の

内容やトルーマン日記や手紙)の内容も理解しやすいと

思ったからだ。ファレル(と発音するのだと思うが)という人は、

インディアナ大学の名誉教授で歴史学の権威だそうだ。

トルーマンの研究家としても知られているようだ。
 「トルーマンと原爆、文書から見た歴史」は21章からなって

おり、ファレルがコメントを加えつつ、原爆投下に至る過程を

まとめている。無料で手に入る日本語の翻訳がどこかに

ないかと思って探したが、どこにもない。

そこで無謀にも自分で訳してみることにした。私は英語の

文章を読むとき、どうしても日本語に訳さないと理解した


感じがしない。英語の文章を英語のまま理解できないと

いってもいい。

恐らく私が日本語でものを考えているからだろう。

やむを得ない。

今回はもっとも重要な序章のみの全訳を別途に掲載して

おいた。興味のある方は参照されたい。
(序章:トルーマンと原爆、文書から見た歴史 全訳)





 ファレルは、日本に原爆を投下するに際して、大統領

トルーマンの脳裏には2つの理由があった筈だと云って

いる。一つは日本軍の野蛮性・非人道性。ここで3つの

事件を上げている。
 1.南京大虐殺
 2.パールハーバーの奇襲
 3.バターン死の行進
 こうした日本軍の獣性・非人道性は、ナチがおこなった

ホロコーストにも匹敵すると、ファレルは述べ、トルーマン

の心中を代弁している。 「こうした獣にも等しい日本軍は

懲らしめてやらねばならない」とする感情がトルーマンに

あったかなかったかは想像の域を出ないが、少なくとも、

ファレルが理由の第一番目に「日本軍の獣性」を上げて

いることは注目に値する。これが日本に対する原爆投下の

直接の理由でないにしろ、重要な下地だったことはまず

間違いない。 (私も20代前半の頃、堀田善衛の「時間」を

読んで衝撃を受け、つくづく日本人であることやめたいと

思った記憶がある)

 云うまでもなくファレルは、歴史学者としてよりトルーマン

の代弁者としてこの論文を書いていることは念頭に置いて

おかねばならない。

 二つ目の理由が日本本土作戦に伴うコスト(ここでは

ほとんど人的犠牲の意味で使われている)のことだった

という。やや弁解気味に次のように云っている。
 「表面的に見たり、その部分だけ取り出して見れば、

当時の日本本土侵攻(実際には起こらなかったのだが)に

伴うコストを計算することは、現実問題としてできないことで

あり、従って当てずっぽうにならざるを得ないとも見える。

本土侵攻はどうしても理論上の問題ならざるを得ない。

従って、夥しい数の民間人、女性、子どもを含む10万人

以上の日本人の生命を危険にさらす(これは実際に起こった

ことだが)というトルーマン大統領とそのアドバイザーたちの

究極の決定はなんら根拠を持たないとも見える。

しかし、投下に至る考慮の過程は理論ではなく、日本本土

侵攻は極めて犠牲が大きいと考える根拠があったのだ。

今振り返ってみて、トルーマンや彼を補佐した人たちが

感情的な理由や、それは日本の野蛮性のことだが、米軍が

直面するだろう犠牲を量ることなしに、決定的な決断を

下したというのは不適切である。」

 これは巷間伝えられる、「日本に原爆を落とすことによって、

戦争終結が早められ、多くの米軍将兵の命を救った」という

極めて短絡した原爆擁護論とはややニュアンスが違って

相当屈折している。

 で、肝心の「米軍コスト」だが、これにはいろんな試算が

あったようだ。

1945年6月中旬、陸海合同戦争計画委員会が提出した

数字は、九州侵攻と本土侵攻による米軍将兵の犠牲(死者)を

4万6000人と見積もり、6月18日のホワイトハウスにおける

会議に提出した。ところが参謀総長のジョージ・C・マーシャル

(戦後ヨーロッパ復興計画のマーシャルプランで有名。その後

ノーベル平和賞受賞)はこの数字を全く無視し、諜報作戦の

分析から割り出した3万1000人という数字を上げたようだ。

ファレルはこのマーシャルの態度には腹を据えかねたと見えて、

「マーシャルがこの数字を出したときに、当時ルソン島の

総司令官山下奉文が米軍侵攻の最初の1ヶ月間に前線撤退

を命じていたことを考慮にいれてないか、またはほとんど考慮

を払っていないかのどちらかである。」とこき下ろしている。

(ファレルはトルーマン大統領の代弁者であることをお忘れなく)

 同じ会議ではトルーマン大統領の個人的補佐官であった

ウイリアム・D・レーヒー海軍大将が遠慮がちに「沖縄戦の死者

の5倍に達するだろう」と述べたようだ。沖縄戦では1万3000人

の死者が出ているから、レーヒーによれば6万5000人の死者

ということになる。 (なお、ウイリアム・D・レーヒーはWilliam D.

Leahyでリーヒーと表記してある文献もあったが、研究社 新英和

大辞典 第6版の表記に従った。また肩書きはadmiralなので、

提督と表記してある文献もあったがこれは間違いであろう。


イギリス海軍には称号としてadmiralがあり、これは提督とすべき

であるが、米国海軍のadmiralは階級であり、海軍大将とすべき

であろう。
次のURLを参照のこと。
http://www.ecsu.edu/personal/faculty/pocock/rank.htm )





 要するになんら科学的な根拠をもった数字が出たわけはなく、

どの数字を取ってみてもスペキュレーションである。
米軍の犠牲を推し量るのに際して、こうした個々の数字は大して

重要ではなく、もっと重要なのはファレルの次の記述である。
 「1945年6月の半ばまでに、米司令部とトルーマン政権の高官

たちに去来した大きな疑問は果たして日本政府を説得し降伏させる

ことができるかどうかと言うことだった。当時日本軍は(明白に破滅

的状況だったとはいえ)降伏するつもりはなかった。もし決定が

非軍部のリーダーたちや日本の民衆の手によってなされるとすれば、

戦争は恐らく早急に終結していただろう。

しかし不幸なことに決定権は彼らになかった。決定権は軍部に、

特に軍部首脳にあったのである。(このときまでに日本海軍は

事実上消滅状態にあった。艦船のほとんど全部が航行不能に

陥っているかまたは撃沈されていた。)」

 この記述をした時、ファレルの念頭にあったのは、すなわち

大統領トルーマンの念頭にあったのは、硫黄島と沖縄本島の激戦

である。
硫黄島では、日本軍守備兵力の4倍の兵力で侵攻したのに海兵隊を
中心に6200名の死者が出た。沖縄本島では守備兵力の2.5倍の
兵力臨んだにもかかわらず1万3000人の戦死者を出した。数字

より強烈に印象づけられたのは日本軍の徹底抗戦ぶりである。

沖縄本島では、民間人まで自決した。(実際にはさせられたのだが、

当時米首脳部にその認識があったかどうか)

 そして極めつけはカミカゼである。ファレルはこう記述している。
「この旧式航空機はほとんどの場合基地に帰投する能力を持たず、
そのパイロットは自らを犠牲にした。航空機そのものが爆弾であった。
もっとも高価についた単独カミカゼ攻撃は、(米海軍戦艦フランクリン

であったが)1000名の死者を出し、艦は炎に包まれ大破し、戦闘

能力を失った。」

 また当時日本には5000機のカミカゼになりうる航空機を日本軍は

保有しており、これが九州侵攻で使われたら米軍艦船・補給船の

損害、人的損害は計り知れない、ともファレルは書いている。
 (この5000機という数字の根拠は今のところ全く不明である)

 こうしてみてくると、ファレルすなわちトルーマンの脳裏にあった

2つの理由とは実は1つの理由であることが分かる。すなわち理性を

超えた旧日本軍とその指導者たちの存在である。まったく予測しがたい

ほど非理性的で非人道的な日本軍部が、日本の進路の決定権を

握っている以上、日本本土侵攻は相当大きな犠牲が出る、と腹を

括ったのである。

これは数字を超越した問題だ。





 実際当時日本は「国体護持(これはとりもなおさず天皇制の維持

ということだが)さえできれば全面降伏してもいい」と考えていた。

戦争遂行に自信をなくした小磯内閣が総辞職し、当時70歳をはるか

に超えた鈴木貫太郎が内閣を組織していた頃である。当時の日本の

状況がどうであれ、トルーマン政権は以上のように考えていたという

ことである。これを念頭に次の記述を読んで頂きたい。

「原爆投下容認論への反駁―なぜ原爆は投下されたのか(大阪国際

平和センターの展示パネル)
 「米大統領トルーマンは、『ヒロシマ・ナガサキヘの原爆投下は、

本土決戦で失われる百万人以上の米軍の犠牲を回避し、戦争を早期

に終わらせるためであった』と述べた。しかしこの主張は、米軍戦略

爆撃調査団報告では否定されている。
 また、ブラケットという学者は、『原爆投下は第二次世界大戦の最後

の軍事行動というよりも、ソ連との冷たい外交戦の最初の大作戦の

一つであった』と述べている。さらに一九九三年八月にはアルペロ

ビッツという著述家が、公開された米政府公文書をもとに『原爆が日本

降伏促進』という見解をきっぱりと否定している。
 こうみてくるとヒロシマ・ナガサキは、アメリカの戦後冷戦政策の

デモンストレーションの犠牲にされた、といえるのではないだろうか。」
(※ここで紹介している米軍戦略爆撃調査団報告の結論は以下に掲載。
日本会議のホームページより。
http://www.nipponkaigi.org/reidai01/Opinion3(J)/history/nagasaki.htm )


 問題は原爆投下の必要性があったかなかったではなく、トルーマン

政権が、狂信的な日本軍部が日本の進路の決定権を握っている以上、

日本本土侵攻は相当大きな犠牲が出る、と見ていたことだ。数字の

問題ではなくこの見解が、日本に対する原爆投下決断の大きな伏線に

なっていたことは疑いようがない。

 1通の興味深い手紙がある。1945年8月9日の日付の手紙で、

ジョージア州選出のリチャード・D・ラッセルという上院議員から来た

電報に対するトルーマンの返事だ。ラッセル上院議員の電報は8月7日

付けとなっているから、時差を考えても広島への原爆投下後に打った

電報に違いない。この電報でラッセル上院議員は、トルーマンに対日強硬

路線を取れ、日本が許してくれと云うまで原爆を落としまくれ、と言っている。

これに対するトルーマンの返事だ。
(原文 http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/documents/fulltext.php?fulltextid=22 )
短い手紙なので全文を訳しておこう。
(なおラッセル上院議員の電報も違う意味で興味深いので全文を掲げておく。ラッセル上院議員のトルーマン大統領に宛てた電報―全訳)


                           1945年8月9日
  親愛なるディック:(ディックはリチャードの愛称)
 
 8月9日付けのあなたの電報を興味深く拝見しました。
戦争において、日本が恐ろしく冷酷で、反文明的な国であることは私も承知しています。しかし、日本が野蛮であるから私たちも同様に振る舞うべきだという考え方には私は与しません。

私自身のことと言えば、その国の指導者たちが頑迷(pigheadedness-豚頭という言葉を使っている)であるゆえに、人口まるごと消し去ってしまわねばならないことを後悔しています。これはあなただからお伝えするのですが、私はそれが(原爆のこと)、絶対に必要という状況でなければ、使用するつもりはありません。私の意見では、ソ連が参戦すれば日本はすぐに降伏するでしょう。(降伏はfold up という口語を使っている)

私の目的は、できるだけ多くのアメリカ人の命を救うという点にありますが、日本の子どもや女性に対して人間的な感情も同時にまた持ち合わせるものであります。

敬具
ジョージア州・ワインダー リチャード・B・ラッセル足下へ


 

 この手紙の中でトルーマンは彼なりの必要性に迫られたとはいえ、

明確に「後悔-regret」という言葉を使っている。
この手紙の直後に2発目の原爆が長崎に落とされるわけだが、

トルーマンはこの時点で「後悔」がまだ足りなかった・・・。


やまゆり園園長「あなたの笑顔思い出す」 追悼の辞全文

2017年10月12日 | Weblog

2017年07月25日 21時09分01秒

テーマ: 障害者関連


http://www.asahi.com/articles/ASK7S4T26K7SULOB020.html


朝日新聞デジタル 2017年7月24日22時40分


「24日にあった津久井やまゆり園の追悼式で、入倉かおる園長は「園の地に降り立って身を置くと、あなたの息吹を感じる。風に吹かれると、あなたのしぐさがよみがえる。朝の日差しがまぶしい時、あなたの笑顔を思い出す」と涙ながらに追悼の辞を述べた。全文は以下の通り。


毎年めでていた津久井やまゆり園の桜は今年も見事に咲きました。でも私は、今年の桜をゆっくり見上げることはできませんでした。引っ越しで忙しかったからではありません。あなたと一緒に毎年見上げていた、一緒に花見をしていたことを思い出してつらくて見上げることができなかったのです。

 あの日がなければ、今年の桜も一緒に見上げることができたに違いありません。桜だけではなく、プールで夏を満喫することも、食欲の秋を謳歌(おうか)することも、音楽に合わせて歌を口ずさむことも、あの日がなければ、そんな穏やかな日が繰り広げられていたに違いないのです。

 津久井やまゆり園の地に降り立って身を置くと、あなたの息吹を感じます。風に吹かれると、あなたのしぐさがよみがえります。朝の日差しがまぶしい時、あなたの笑顔を思い出します。色とりどりのあじさいを眺めると、あなたの服と重なります。

 突然命を奪われた無念さ、残されたご家族のみなさまの悲しみ、苦しみには、到底およぶものではありません。それでもあの日まで、それまで一緒に過ごしていた仲間の1人として、言葉にならない悲しみ、哀悼の思いを胸に、この1年過ごしてきました。

 あの日守ってあげることができなかったことの申し訳ない思いで、時間が止まったような1年でした。本当に申し訳ありませんでした。気が付けば夏を迎えていたのでした。

 この1年の間、高い空から見下ろして、私たちを見ていてくれたのでしょうか。悲しみに暮れるご家族を、見守っていてくれたのでしょうか。これから私たちはどうしていけばいいのでしょうか。何を目指してやっていけばいいのでしょうか。

 高い空からどうかしかって下さい。立ち止まるなと。高い空からどうか教えて下さい。一緒にご飯をたべた仲間がいると。同じ車でドライブをした仲間が待っていると。きっと1年が過ぎても、この悲しみは続くでしょう。それでも私たちは今、目の前にいるお一人おひとりに寄り添って、あの日の前まで繰り広げられていた暮らしを取り戻すために、誠心誠意尽くしていきます。

 どうか高い空から見ていて下さい。津久井やまゆり園があの地に戻って、息吹を吹き返すまで、今それぞれの暮らしの中で、懸命に生活をしている仲間たちを、職員を。

 そのことを伝えるために、今日はここにやってきました。

 高い空に行ってしまった方々の、ご冥福をお祈りするとともに、ご家族のみなさまのお気持ちが、1日でも早く癒えることを願っております。

 これで津久井やまゆり園園長、追悼の言葉とさせていただきます。」