がん(骨肉腫)闘病記

抗がん剤治療、放射線治療、人工関節置換手術、MRSA感染、身体障害者となっての生活の記録を残します。

警察庁キャリア、成田でキレる…化粧水持ち込み制止され

2009年01月16日 | Weblog
2009年01月16日 08時58分記載

URL http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090115-OYT1T00748.htm



「警察庁人事課の課長補佐でキャリア官僚の男性警視(36)が昨年12月24日、成田空港の手荷物検査場で女性検査員(32)に暴言をはいたうえ、プラスチック製の検査用トレーを投げつけていたことがわかった。

 警視は知人女性とドイツ行きの旅客機に搭乗しようとしていたところで、千葉県警が暴行容疑で捜査するとともに、海外旅行は内規に反して無届けだったことなどから同庁も懲戒処分する方針。

 同庁によると、警視は、国際線への液体の持ち込みが100ミリ・リットルまでに制限されているのに、それを超える男性用化粧水を持ち込もうとして検査員に制止された。その際、「私は警察庁の警察官だ。本部長に連絡してもいいんだぞ」などと暴言を吐き、トレーを検査員に投げつけたという。空港警備隊の警察官が駆け付けると、警視は謝罪したが、そのまま出国した。

 警視は2000年に同庁に入り、昨年4月から同庁人事課で、警察官の職務倫理教育を担当している。

(2009年1月15日21時18分 読売新聞)」


いるんだねえ、実際に。こういうのが。


奴隷小児科医の医療革命「医師が医師を裁く5」

2009年01月15日 | Weblog
2009年01月15日 19時26分記載

「さて、書ける時には書いておこうということで連チャンです。

 この三つの記事、みなさんはどう考えますか?


 ①『 手術後に障害、京大を提訴 女児と両親、3億求め

 京都大病院で、2000年8月に心臓手術を受けた女児(13)に知的障害が残ったのは、医療ミスが
 原因だとして、女児と両親が5日までに、京大に約3億円の損害賠償を求めて京都地裁に提訴した。

 訴状によると、当時5歳だった女児は、京大病院の心臓血管外科で心臓の弁などの手術を受けた。
 その際、人工心肺と血管をつなぐ送血管を挿入した部分から出血があり、一時的に管を取り外した。
 約7分後、再び管を挿入し送血を再開したが、女児の脳や手足に重度の障害が残った。

 両親側は「送血を迅速に再開していれば障害は残らなかった。送血管を挿入する際にも十分な確認を
 怠った」と主張している。

 京大病院の中村孝志(なかむら・たかし)院長は「事実関係を調査し、真摯(しんし)に対応したい」
 としている。                                        』





 ②『 チューブが胃貫通し死亡 80代女性、流動食が胃外に

 青森県弘前市立病院(松川昌勝(まつかわ・まさかつ)院長)は10日、内科医が80代の女性患者=
 弘前市=の胃に流動食を入れるチューブを交換した後、チューブが誤って胃を貫通したため、流動食が
 胃の外に漏れて汎発性腹膜炎を起こし、死亡する事故が5月にあったと発表した。死因は感染性ショック
 だった。

 松川院長は「何らかの原因でチューブが胃を貫通してしまったが、処置後、内科医はチューブが胃に
 あるのをレントゲンで確認しており医療過誤には当たらない」としている。
 遺族には慰謝料1200万円を支払うことで同意を得ているという。

 青森県警は業務上過失致死の疑いもあるとみて捜査している。

 院長によると、内科医は5月28日、弘前市のグループホームに入っていた外来女性の胃に流動食を入れる
 ためチューブを交換。女性は翌日昼ごろ、ショック状態で同病院に搬送された。

 チューブが胃を貫通して胃の外に流動食が漏れており、緊急手術を実施したが、30日未明に死亡した。

 女性はそれまでに二度、同病院でチューブの交換を受けたことがあった。内科医は日常的にほかの患者
 にもチューブ交換を行い、処置は慣れていたという。                      』






 ③『 手術中に肝臓傷つけ失血死 茅ケ崎市立病院、ミス否定

 神奈川県の茅ケ崎市立病院で9月、60代女性患者を手術中に肝臓を傷つけ、女性が失血死していたことが
 28日、分かった。市役所で発表した病院は「手術に伴い、いくら注意しても一定の割合で起こる
 『合併症』」と説明。「医療ミスでも医療事故でもない」として、警察に届けていないという。

 病院によると、女性は4月、肺から漏れた空気が胸にたまる「気胸」で入院。5月から7月にかけて手術
 を3回受けた。

 9月下旬、胸腔(きょうくう)のうみを出すために胸から挿入していた「ドレーン」と呼ばれる管
 (直径8ミリ)が抜けたため、呼吸器外科の担当医が挿入し直したところ、針状の先端部が肝臓を
 数センチ傷つけ大量出血、女性は約4時間後に死亡した。

 経緯は病院長に報告され、医療事故を扱う安全管理委員会にも諮られたが、いずれも「合併症」と
 判断したという。

 望月孝俊(もちづき・たかとし)副院長は「患者が亡くなったことは残念だ。
 適切な処置だったと認識している」と話した。                        』


 
 

 結論から先に言うと、早く第3者による事故調査機関を作ろうよということ。
 厚労省主体のではなく、弁護士・医師主体のものを。
 最初は扱う症例を限定して。

 記事①に関しては、ある一定の割合で起こる不可避な合併症なのか、医療過誤なのか分からないが
 それにしても3億の賠償金は桁違いだと思う。
 俺の入っている医療保険は1件につき1億円までで、年に3億円までというもの。
 個人的に請求されたら、残り2億は自腹になるな。
 おそらく先天性心疾患で特定疾患に認定されているはずで、手術費を含め治療費はほとんどかからない。
 結果が悪くて3億要求するならば、結果が良ければ1億の報酬でも支払うつもりはあったのだろうか。
 その辺も含め、相場というものを第3者が決めていくべきだと思う。
 

 記事②に関しては、支離滅裂。
 医療過誤でないなら、慰謝料を払う必要はない。
 まさに公立病院のなせるワザ、職員の懐が痛むわけでもなくすべて税金から支払われるだけ。
 そんな安易な慰謝料が、「なんかあったら病院訴えたら、金出しよる」という風潮を助長させる。
 また業務上過失致死罪の疑いとか言ってるけれど、医療に業務上過失致死罪を適応させるべきでは
 ない。(理由はコンビニ受診3のところで書いたので興味のある方は参照してください。)
 医療過誤かどうか、警察が決めるものでない。
 ぐずぐずしている我々医師にも責任はある。


 記事③は、最近では珍しい医師からみればマトモな内容。
 医師以外からみれば、「また医師同士で身内をかばってる。医師は信用できん。」と思う方もいるはず。
 だって俺も、自分のいる以外の世界に関しては、疑いの目で見てる部分もあるから。
 だから、信用を得るためにも第3者機関が必要なんだな。
 

 いっそのこと訴訟のたびに、とりあえずドイツに頼んだらいいんじゃないの。お金だして。
 しかるべき判断をお願いしますとか言って。
 少なくとも、日本で警察や司法に裁かれるよりもマシなんじゃないかな。
 医師にとってはね。

 
 患者と医師、お互い負のスパイラルから抜け出せず、加速度的に落ちていっている現状。
 時間が経てば経つほど、修復不可能になっていく。
 医療が進歩しすぎて、お互いが不幸になっていくパラドキシカルな日本。
  
 

 さてと、自分の身の振り方も考えないといけないのかもしれない・・」


これらの記事の他にも、小児医療・産科医療を軸に、医療問題について深く考えさせられる内容の記事が多く掲載されているので、多くの人に一読を勧めたい。

奴隷小児科医の医療革命「医師が医師を裁く4」

2009年01月15日 | Weblog
2009年01月15日 19時24分記載

「「一犬影に吠ゆれば百犬声に吠ゆ」を日々危惧する奴隷小児科医でございます。

 他国の医療制度や法律を調べていくうちに、いろいろと面白いことが分かってきました。
 奴隷小児科医を辞めて、医療ジャーナリストへの転向も考えています。(ウソ)

 ドイツのお話の前に、我が国のお話を少し・・

 『 医師に地方勤務義務付けを 自治体病院協議会会長

   全国自治体病院協議会の辺見公雄(へんみ・きみお)会長は11日、記者会見し、診療科や地域による
   医師の偏在を改善するため、大学の医学部卒業生の半数程度に一定期間の地方勤務を義務付けるなど
   実効性のある医師確保策が必要との考えを示した。協議会は既に自民党にこの考えを要望している。

   会見で辺見会長は「(医師不足で)住民の基本的生存権が奪われている」と強調した。
   さらに「医師の総数を増やしても銀座で形成外科を開業したのでは意味がない」と指摘、
   地方の病院を中心に小児科や産婦人科などの医師が不足している状況を改善するには、
   強制力のある対策が必要と訴えた。

   また、公立病院が購入する医薬品などのコストを削減するため、複数の自治体が共同購入できるよう
   に、国に規制緩和を求めることも明らかにした。                      』


  う~ん、難しいな。この問題は。
  まあ、これから医学部へ入学する学生に対してなんだろうけれど。
  日本国憲法で保障されている居住・移転の自由や、社会権である居住権の問題があるからね。
  こうなると医師法を改正する必要があるな。

  
  すでに地方大学では地域枠というのがあって、卒後地域医療への貢献を約束に入学させる枠が
  ある一定人数あるけれど、法的な強制力はない。
  また、自治医科大学という大学もあり、すべての卒業生が各都道府県のへき地への勤務をしなければ
  ならないという規定がある。(確か9年間くらいだったかな。)
  その代り、6年間の授業料はすべて無料。
  この規定に従いたくない場合は、6年間の教育費(授業料ではない)を卒業時に全額返金すれば、
  自由に勤務できる。(3~4000万くらいだったと思う。)
  まあ、こういう大学の医学部の定員を増やすというのも一つの方法だと思う。

  
  もともと1県1医大制度というのは、日本全国で同じレベルの医療を提供するために
  作られたものであるから、地方で医師免許だけさっさと取って、都会で働くということになれば
  確かに地域の医療を担う大学にとっては、たまったもんではないだろうということは分かる。
  (自分もそのパターンなので、大きな声では言えない・・)
  さらに、後期研修医制度が拍車をかけたという形になっているのは、前にも話をしたとおり。

  
  これらはすべて法的な強制力はないので、いくらでも抜け道はある。
  だから地方勤務を本気で義務付けたければ、法改正をしなければならないであろう。
  
  それから「 大学の医学部卒業生の半数程度に地方勤務を義務付ける 」とあるが、
  この半数を選ぶ基準はどうするのだろうか?
  一部例外を除いて、だいたい成績の悪い順に地方勤務ということになるのか。
    
  「 医師の総数を増やしても銀座で形成外科を開業したのでは意味がない 」というが、
  個人的には医師の倫理に反さない限り、美容形成をしようが形成外科をしようが問題ないと思う。
  産科・小児科に比べ、ローリスクでハイリターンであれば人気が集中するのは当然のこと。
  (実際はどうなのか知らないので、間違っていたらごめんちゃい。)

  「 地方の病院を中心に小児科や産婦人科などの医師が不足している状況を改善するには、
    強制力のある対策が必要と訴えた。」
  その強制力を働かせる基準はどうするのかが、一番知りたいところである。
  普通の競争原理で言えば、だいたい成績の悪い順から産婦人科・小児科となっていくのだろうか。
  いや、成績優秀者から産婦人科へ行けというなら、多くの医学生は勉強しなくなるであろう。 

  いずれにせよ、当面の地域の産科小児科医療の質と量を充実させるため(付け焼刃的に)の
  方法は、限られてくる。
  症例数が少なく、指導者の数も少ないという地方の病院で、卒後自分の腕を磨き多くの経験をする
  には都会と比べると不利であるというハンデを払拭させるほどの待遇を用意するしかなさそうだ。
  法で規制でもかけない限り、魅力のない病院へすすんで就職する医師は少ないのは当然である。
  
  個人的には、都会の美容外科でも到底得られないほどの高収入を条件にすればいいと思っている。
  多くの医師は、地方の自治体病院で勤務されている産婦人科医にもっと多くの給与を出すことに
  異論はないと思う。
  
  で、肝心の法の規制に関しては、『医師が医師に法の規制をかける』べきだ。
  現場を知る医師が、ドイツのように主要官庁とは全く無関係な組織をつくり、その中で試行錯誤を
  しながら、医師自らを規制する法をつくるのが良いと思う。
  あくまで、医師と法律家が主導で組織をつくらなければならない。
  厚労省の天下り機関では、意味がないのである。


  ドイツでは、医師会が本国を約450の医療圏に分けて、その医療圏の住民構成や医療ニーズを
  考慮し、家庭医を含めた産科や小児科などの専門の医師の適正数を決めている。
  つまり開業医の数も、病院勤務医の数も、それぞれの科の医師の数も完全の決められているのである。
  日本のように自由には開業できないシステムである。
  また、医療人口に対する医師の数が決まっているので、それぞれの医療圏での医業収入はほぼ同じで
  どこで勤務しようが給与はだいたい同じになるようになっているのだ。
  
  また、卒後研修機関についても各州医師会の定める医療施設と決まっているので、偏在することは
  ない。(ドイツでも都会の方が競争率が高いのは日本と同じかもしれない。)
  ドイツで医師を目指す学生は、すべて承知の上で医師になるのである。
  これは、ドイツにおいて医師という職業がもっとも尊敬され、社会的にも国民からの信用が高いので
  規律を重んじるドイツ人医師にも十分理解が得られているのではないだろうか。

  
  今の日本でここまで望むのは、国民性の違いもあり難しいと思われる。
  しかも、今以上に時間もお金もかかるのは間違いない。
  
  しかし焼け野原になってからでは遅いのであるが、具体的に誰がどうしたらよいのか
  なかなか名案は浮かんでこない・・・
  
  圧倒的なカリスマ性を持ち、多くの医師から支持される、そんな医師の登場を待つしかないのか・・」

奴隷小児科医の医療革命「医師が医師を裁く3」

2009年01月15日 | Weblog
2009年01月15日 19時23分記載

「みなさま、お疲れさまです。

 今週末は横浜みなとみらいへ小児アレルギー学会へ行って参りました。
 
 「あ~ 面白かったな。年に一回、新たな知識の更新でした。全国から多くの医師が集まり、  
  最新の情報を持ちよって、議論をして、また全国各地へ持ち帰る。いや、最高でした。」

 では、前回のブログの続き・・・

 今回の内容は、あまり面白くないので興味のある方だけ読んで下さいな。


 ドイツの裁判外紛争処理、医師職業裁判所について詳しく述べていきます。


 ドイツの裁判外紛争処理(ADR)について。

 ドイツのドイツでも1975年から1978年にかけて、各地の州医師会は鑑定委員会/調停所を設置して
 裁判外紛争処理(調停)を始めた
 米国を発端とするこの制度は、ドイツでは成功し、患者や医師の信頼を獲得する成果を挙げている。
 ここでのポイントは州の医師会が主導となっている点である。
 厚労省主導の日本とは大きく異なる点である。

 では、どういう制度かを簡単にいうと

 ・申請手続は簡単なので苦情を訴えやすい。
 ・手続は無料。
 ・必要資料は委員会が取寄せる。(診療記録、検査記録、入院時の記録、必要であれば当該医師の前後に
  診療した医師の記録なども) 患者が集める必要はない。証拠保全は不必要。
  医師が資料提出に協力して成立するのが裁判外紛争処理なので、平和的解決と言われる。
 ・書面審理:口頭審理は一部を除き行われない。
 ・当事者が出頭することは通常ない。
 ・鑑定は数多く行われ重要な判断基準となる。
 ・裁判外紛争処理の決定は裁判所の判決と異なり拘束力がない、不満であれば民事裁判に。
 ・弁護士費用は当事者が負担、低所得者には公費補助。(弁護士を頼まなくて済む場合が多い)
 ・運営経費は医師会が負担。
 ・委員は無報酬(名誉職=ボランティア)。
 ・委員会の多くは医療過誤の有無のみを判定し、賠償などの金額決定には関与しない。
 ・委員会が医療過誤があったという決定をすると、患者は保険会社と損害賠償・慰謝料の額について折衝
  する。
 ・委員会には医師以外に、必ず法律家が加わり重要な役割を果たしている
 ・年間受理件数はドイツ全体でだいたい1万件。
  その内訳は
   (医療過誤を認めた)     37%
   (医療過誤が否定)      58%
   (医療過誤が確定できない)   5%
   
  医療過誤が認められなかった63%のうち、11%が訴訟に持ち込まれている。
 ・民事裁判に持ち込まれた場合、裁判所の判決の90%は鑑定委員会の決定に沿った結論。
 ・医療過誤/説明不足が認められただけで満足し、賠償や慰謝料を請求しない人が24%程度。
 ・損害賠償と慰謝料の額。
   (~75万円)    50%
   (~150万円)   20%
   (~300万円)   17%
   (~750万円)    8%
   (~1500万円)   3%
   (~7500万円)   2%(最高7500万円)


 鑑定委員会、調停所が医師会の中に作られたとき、費用は医師会負担、オフィスは医師会内、医師会の
 職員を使うというので、医師に有利な判断をするのではないかと心配されたが、
 委員と鑑定人が中立の立場を守り、公平な判断を下してきたので、現在は患者も医師も満足している。
 医療過誤申請は増え続けていたが、2,3年前より減少傾向に移行している。


 ドイツのADR制度はアメリカの制度を基につくられたが、ドイツほど上手くいっていない。

 理由としては、

 ・ドイツ人は米国人より裁判が好きではない。
 ・医師への尊敬度は米国より高い。
 ・ドイツでは敗者は勝者の費用を払うので裁判所は遠い。
  米国はそれにくらべると裁判所の門が開かれている
 ・米国では陪審に聞いてもらえるし、自分の鑑定人を持てる。(法廷での弁護士合戦)
  反対にドイツでは、裁判所が証人や鑑定人を選ぶ


 これらを考慮すると、日本の国民性はドイツよりもアメリカよりだと思われるので、上手く機能するのは
 難しいかもしれない。
(コメントでも、そのような意見を頂いているが・・)


 では、日本で上手く機能するためには何が必要か?

 ・信頼できるカルテ記載の徹底(改ざんの処罰も)。
 ・医師がカルテ提出に協力。
 ・信頼できる医学鑑定が行える。
 ・訴えやすくする。(受付窓口を各病院の置くなど)
 ・患者の経済的負担軽減、弁護士依存脱却。
 ・運営費用(行政に依存しない、委員は無報酬など)の問題。
 ・制度を支えられる医学教育と医師の職業倫理感。
  (ドイツの医師はこの制度に関して、みな専門的な教育を受けることが必須である。)



 次に日本にはない医師職業裁判所について。

 民事的な意味合いの強いADRに対して、刑事的な意味合いの強いこの医師職業裁判所とは、
 どういうものか?


 まず、参審制という制度。
 参審制というのは、特殊な専門領域の裁判において、その方面に詳しい民間人(ここでは医師)を名誉職
 裁判官として任命する。
 (名誉職は無報酬、ボランティアを意味する)

 それから、裁判は二審制で行われる。
 第一審: 裁判官3名: 専門職裁判官1名、医師の名誉職裁判官2名(医師会が推薦し裁判所が選ぶ)
 第二審: 裁判官5名: 専門職裁判官3名、医師の名誉職裁判官2名

 定義は
 職業裁判所は個々の職能階級の懲戒裁判所で、それを純潔に保ち、職業の品位と相容れず、また職業身分
 の名声を害する行為を罰するためのものである。処罰は通常戒告、罰金さらには職業身分からの排除で
 ある。

 職業裁判所は現在通常裁判所(州裁判所、高等裁判所)に設置され、裁判官である職業裁判官と、
 裁判官でない職業代表者(医師)とによって構成される。


 つまり医師・裁判官以外の人間は関与しないため、感情に流されることなく裁かれることが期待できる。
  
 その他、手続は刑事訴訟法に合わせている。
 通常裁判所で刑事訴訟が同時に係争中であるときは、職業裁判所の手続は通常前者の判決が出るまで
 中断され、判決の出た後再開される。
 職業裁判所の判決に対して第二審の職業裁判所に控訴できる。


 医師職業裁判所の制裁の種類。
 
 「注意・戒告・被選挙権の剥奪・50000ユーロまでの罰金・医師免許剥奪」

 医療過誤であっても刑事事件になることがあり、基本的な能力に欠陥があれば処罰の対象になる。
 しかし、失敗程度であれば処罰されない。

 その場合の医療過誤は、患者側からの訴えで裁判外紛争処理で扱われ、過誤と認定されれば損害賠償、
 慰謝料の請求が認められ、患者の権利が確保されている。不満であれば民事裁判所に提訴。


 このように医師の自律のために厳しい医師職業倫理規則というのがあり、日本にはない規定もある。
 
 「医師は常に自分の能力の限界を知らなければならない、能力の限界を超える時は他の人に依頼しなけれ
  ばならない」

 
 それから、ドイツでは医師不足はどうなのか?
 科によっての隔たりはないのか?
 

 そのあたりについて、次回述べていきます。」



奴隷小児科医の医療改革「医師が医師を裁く2」

2009年01月15日 | Weblog
2009年01月15日 19時22分記載

「「一葉落ちて天下の秋を知る」の如く日本の医療の将来を危惧する奴隷小児科医でございます。

 
  余計なことは書かないで、さっさと本題へはいりましょうか。
  (飛ばし読みしたい方は『 』の中だけ読んでくださいな。)

  まずは、日本の医療事故調査委員会のおさらいから・・

  昨年10月に第二次試案が厚生労働省から発表された医療事故調査委員会(以下事故調)。
  医療機関から事故報告を受け、事故調がこれを調査して原因を追及し、診療行為の問題を判定する。
  厚労省は「異状死の届け出制度」に代わるものとして考えてる。
  なぜなら、異状死というのは警察への届け出が必要で、刑事事件につながりやすいため、
  警察への届け出の前に事故調が調べるというもの。
  これは、医師法第21条にある
  「医師は、死体又は妊娠四月以上の死産児を検案して異状があると認めたときは、二十四時間以内に
   所轄警察署に届け出なければならない。」
  によって定められている。
  この条文というのは、100年以上前からあるもので、道端などで死んでいる人を医師が診察した
  場合に殺人事件の被害者であったなどの見逃しがないようにという目的で作られたもの。

  つまり厚労省としては

  『異状死を最初からなんでもかんでも刑事事件として扱う前に、事故調が刑事訴追・行政処分が
   妥当かどうか判定してあげるよ。だから、いきなり刑事事件になることは減ると思うよ。』

  『ただし、異状死は医師が全例届け出をしてもらわないと、罰するからね。』
  
  『それから、もし刑事訴追が妥当だとなったら、調査報告書を検察に渡すからね。
   あとは、検察から取り調べを受けて下さい。そうすると裁判になるね。』

  『でも、事故調が刑事訴追の必要なしと判断したら、検察は勝手に刑事事件として動くことは
   しないと言ってるから、安心してもいいんじゃないかな。』

  『言い忘れてたけど、医師法21条の異状死の定義は昔と変わってしまって、平成16年の
   都立広尾病院事件の最高裁の判決以来、自分が診察していて亡くなってしまった患者で医療過誤が
   疑われる場合も、ちゃんと届け出てよ。じゃないと、医師法違反で罰するからね。』

  それに対し医師側は

  『2004年に第三者機関は必要って臨床医の学会から声明を出したけど、どうなんこれ。』

  『だいたい異状死の定義があいまいすぎるよな。治療の合併症なのか医療過誤なのかの
   判断は自分たち医師でやれってことやろ。で、あとからやっぱり医療過誤やったと分かったら
   罰せられるんやから、とりあえず病院で患者さんが亡くなったら、全員届けておいたほうが
   無難やな。』

  『でも、そんなにたくさんの届け出に対して、ちゃんと調べてくれるかどうかも疑問やし、
   適当に判定されて刑事訴追される機会が増えるんとちゃうんか。
   だって、亡くなった人を全員届けてたら膨大な数になるし、それに対応できるだけの人が
  (医師も含めて)おるんかいな。』
   
  『刑事訴追を公正に判定する人を、どうやって選ぶんやろうな。
   法律関係、医療関係以外の人もいれるんかいな。
   難しい問題やで。
   【刑事訴追を公正に判定する人を選ぶ人】も公正に選ばなあかんやろ。
   そうなると《【刑事訴追を公正に判定する人を選ぶ人】を公正に選ぶ人》も公正に選ばな・・・』 

  『検察の言うことがホンマやったら、黙って届け出でせんかったら刑事訴追されへんわけやから
   絶対やばい医療過誤やったら、なんやかんや理由つけて届け出ない医師も出てくるんちゃうか。
   だって患者さんがなんぼ届けろって言っても、医師が必要ないって判断したらそのままやろ。』

  『そうなったら、医師はやっぱり隠しとるとかいうことになって、検察がガンガン動きだしたり
   してな。』

  『逆に、明らかにこっちの医療過誤であっても患者さんにちゃんと説明して納得してもらえたと
   しても、届け出はせなあかんのやから、患者さんは訴える意思はなくても、刑事訴追されて
   有罪になる可能性もあるわな~』

  『この制度は亡くなった患者さんに対してだけということになってるけど、亡くならずとも
   高度の障害が残ってしまった場合とかは、どうなるんや?』

  『民事訴追に関しては、今までと変わらず患者さんの意思によると思うんやけど、刑事訴追の
   結果を見てから、どうするか決めるようになるんやろうな。
   だって裁判費用ってけっこうかかるし、刑事訴追が妥当と事故調で判定されたら民事でも勝てる
   可能性が高くなるわけやから、訴えな損という風潮になってくるやろな。』

  『っていうか、やっぱりあかんでこの制度は。厚労省に任せたらあかんわ。』


 
 
  では、規律を重んじるドイツではどうなのか?

  ドイツでも日本の事故調に該当する機関があるが、主務官庁とは完全に独立しているというのが
  大きく異なる点である。

  『ドイツの事故調は日本と違い、日本でいうところの厚労省・警察庁・検察庁・裁判所とは
   全く無関係な独立した組織である。』

  『ドイツで医療過誤が疑われた場合、医師は行政権・司法権とは全く無関係な第三者の権利に
   よって裁かれる。 』
   
  この紛争解決方法を裁判外紛争処理(ADR)という。
  日本の事故調はADR委員会ともいえる。
  イメージでいうと「当事者間による交渉」と「裁判所による法律による裁断」の中間的な位置づけ
  となる。
  
 
  ただし、日本のADRとドイツのADRのもうひとつの大きな違いというのが

  『ドイツのADR委員会は医師に対して制裁を与える権限を有する。』

  ということだ。
 
  この権限というのは、

  『注意・戒告・2500ユーロまでの罰金・医師職業裁判所への手続き開始依頼』となっている。 

  この医師職業裁判所については、後ほど説明するが、簡単にいうとADRが医療過誤に対して
  民事的な性格で医師に制裁を与えるものであるが、この医師職業裁判所というのは刑事的な性格で
  医師に制裁を与えるものである。
  当然後者のほうが、制裁の程度が重い。
  ADRと同様に行政・司法とは全く無関係な組織である。
  主に医師の義務・倫理違反に対して制裁を与えるものである。
  日本にはない制度である。

  
  ADRと医師職業裁判所それぞれ判例を挙げてみよう。

  【ADR判例】
 
     45歳の患者が胸痛を主訴に救急当番の家庭医を受診。 
     心電図の検査で異常なしと判断され、自宅へ帰した。
     2日後再診時に、心電図で心筋梗塞を疑われ患者に病院へ自家用車でいくように伝えた。
      
     初診時に診断できなかったために治療が遅れたと医師を非難した。
     継続的な健康障害は残っていない。

     結果的には初診時に心電図異常があり、すぐに病院へ転送する必要があり回避可能な
     過誤であり、また再診時では医師同乗の救急車で病院へ転送すべきであったという見解を
     示した。

     この医師に対し「注意」という処分を下した。

  【医師職業裁判所の判例】

     夜間救急当番医師に患者から、胸痛があるとの相談を受けた。
     家で様子を見るように指示。
     再度2時間後にも同じ患者より同様の相談を受けたが、家で様子を見るように指示した。
     翌朝、家庭医により心電図検査を受け、心筋梗塞と診断された。 

     このようなケースは心筋梗塞のような重篤な疾患を疑うべき状況であったのに、そのような
     判断をせず、患者を往診しなかったのは医師の義務に反するとして、この医師に対して
     「戒告と2000マルクの罰金」という処分を下した。
    

  では、ドイツでは、医師は司法による刑事裁判を受けることはないのか?
  答えはNOである。
  医療費の不正請求やよほど悪質な医療行為に限り、司法による刑事裁判で裁かれることもある
  とのこと。
  
  では、ドイツの各種の裁判手続きを紹介して、続きは次回へ。

  A:民事的(医療過誤に対して)

        ① 裁判外紛争処理(ADR) ② 民事裁判所

  B:刑事的(医師の義務・倫理違反に対して)

        ① 医師職業裁判所  ② 刑事裁判所


   詳細は次回で・・

  
   (ああ、疲れた。
    法律に関してはズブの素人なので、あれこれ調べたり確認したりしながら書いたが
    もし間違っていたら教えてくれ・・)」

奴隷小児科医の医療革命「医師が医師を裁く1」

2009年01月15日 | Weblog
2009年01月15日 19時14分記載

アメブロブロガーである、ハンドルネーム奴隷小児科医さん(このハンドルネームの理由は奴隷小児科医さんのブログ「奴隷小児科医の刹那主義( http://ameblo.jp/hakaishiya/ )を読んで頂ければわかります)の許諾を得て、医療と法・裁判に関する記事の転載をさせて頂く。以下転載(5つ記事が続きます)



記事タイトル:奴隷小児科医の医療革命「医師が医師を裁く1」



「多くのコメント大変ありがとうございました。
 
 「一難去ってまた一難」の奴隷小児科医でございます。(予想してくれた方、惜しい!)


 医療不信に関しては、ブログの医療不信の項を参考にしていただければと思います。
 
 それから、刑事訴訟免責については(?)、日本よりはるかに医師に対する法律が整備されている
 ドイツでの例を挙げて説明していくことにします。
 (このテーマは、非常に複雑な問題なので、何回かに分けて書いていきます。)
 
 もし、論理的に矛盾点・疑問点があれば、どしどし御指摘ください。
 (法律に詳しい方、間違っていれば御指摘おねがいします。)

 遠慮はいりません。

 感情的な意見でもかまいません。

 とにかく多くの方に感じてもらって、考えてもらうというのが、このブログの主旨なのですから。

 最終的に、すべての妊婦さんや赤ちゃんの命を守っていくという方向へ向かわせないといけないのです。

 それには、正しい知識(俺も間違ったこと書いてる時があるかもしれないが)と理解が必要なのです。


 

 題して、『 医師が医師を裁く 』
 
 医療関係者からの意見もお待ちしております。(ちょっと怖いけれど・・・笑)


 
 みなさんも、医療機関を受診されて医師に対して不信感を持ったことがあると思います。
 それは治療の説明の仕方であったり、内容であったり、医師の態度であったり、明らかな医療過誤と
 思われるものであったり・・・
 医師にはプライドの高い人が多く(自分も含め、自戒の念を込めて)、医師同士でもそれが鼻につく
 こともあります。
 (自分の周りで本当に優れている医師は、非常に謙虚であると思います。
  医学を深めれば深めるほど、自分の知識の浅さを感じ、医療の不確実性を再認識することになる
  からだと思ってます。
  受験勉強もすればするほど、不安になるのと同じ理屈ですね。)
 また他の医師に対しても、医療過誤を含め治療内容について疑問を感じることも、正直あります。
 

 医師として不適切だと思われる方もおられます。
 麻薬であったり、強制わいせつであったりと医師としてというよりも、社会人として処罰されるべき
 医師も存在するのも事実です。
 ですから、とりあえず医療以外に関しては問題を起こせば、刑事免責する必要は全くないと思います。
 当然のことだとは思いますが・・


 
 なぜ、日本では医師が刑事訴訟されて逮捕されるのでしょうか?
 
 不当な医療訴訟が医療崩壊を加速させているといわれていますが、なぜ不当なのでしょうか?
 
 
 

 それは日本には『医師が医師を裁く』法律がないからです。
 
 医療を知らない検察や裁判官が、医師を裁くために様々な問題が起こるのです。
 遺族の感情に流されてしまうこともあり、医学的根拠を伴った正当な判断が難しいのです。
 もちろん医学的知識を持ち合わせていないため、第三者の意見を取り入れるのですが、
 その第三者というのが、我々多くの医師が到底納得できない(現場を知らない)医師の場合も
 あるのです。
 
 だから不当逮捕ということが起きてしまう。
 ただ、まっとうに働いている大半の医師にしてみれば、あきらかに医学の常識からかけ離れた
 医療過誤を起こした医師や、多くの医師が到底納得できない治療を行って問題を起こした医師に
 関しては、しかるべき処罰を受けてもらうべきと思っています。

 
 「腐ったりんごは箱からつまみ出さないと、箱の中のりんごがすべて腐っていると思われる」

 
 医師として高い倫理性を求められる現状で、自ら律することなく他者によって処罰を受けているだけ
 ではなかなか国民の理解は得られないと思うし、医師自ら自分の首をしめていることを認識すべきと
 思う。

 弁護士には弁護士法というのがあり、義務違反に対する処罰規定というのが法律で定められている。
 医師にも医師法というのがあるが、これは明らかに医師として品位に欠ける行為(診療中のわいせつ
 行為など)や保険の不正請求などの対してである。
 医療過誤に対して処罰することはできない。(法律がない。)


 いま、第三者機関として医療事故調査委員会の設立が厚労省主体で検討されているが、
 本当に第三者機関としてなり得るのか、疑問視する医師も多い。
 はたして、医療過誤をこの第三者機関が公正に裁くことができるのか。
 
 
 公正にならない理由というのが警察・検察の介入である。

 
 「 医療過誤の犯人探しを警察が行うのである。」

 
 呼び名が変わっただけで、実質やってることは今と変わりない。
 
 適正な処罰は必要であるが、医療を委縮させてはいけないのである。

 では、公正な第三者機関を作るにはどうすればいいのだろうか?
  
 医師にも患者にも認められていると思われるドイツでの例を挙げて説明していこう。

 
 ただ、公正な第三者機関を作るためには医師法の改定は必須で、今すぐに実現は不可能であるので、
 急場しのぎ的に、今の受け入れ不能の問題をてっとり早く解決に向かわせる方法として
 (少なくとも医療崩壊の速度を緩めるためにも)
 
 「少なくとも救急医療の(刑事)訴訟免責」

 が必要だと個人的に思ってる。
 
 ただ、これも一時的なもので根本的な解決にはなっていない。

 
 次回はドイツでの話を、具体的な医療過誤の例も含めて紹介します。

                         (ああ、頭疲れた・・・)」



補正衆院通過 予算審議を速やかに進めよ(1月14日付・読売社説)

2009年01月14日 | Weblog
2009年01月14日 10時21分記載

URL http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20090113-OYT1T00923.htm



「定額給付金という問題の多い政策を含む補正予算だが、景気回復を最優先するなら採決を遅らせるわけにはいかない。

 第2次補正予算案と関連法案が13日、自民、公明両党の賛成多数で衆院を通過した。

 民主党は、審議が尽くされていないとして、補正予算案の採決に抗議し、衆院本会議では採決前に退席した。

 衆院通過により、補正予算は、参院で採決されなくても、30日たてば自然成立する。ただ、定額給付金支給などを実施するには、関連法案の成立が必要になる。

 与党は、野党が採決に応じない時は、憲法の「60日ルール」に基づき、衆院の3分の2以上の多数による再可決を迫られる。

 民主党は今後も、定額給付金の「愚策」ぶりを際立たせ、いずれ再可決の際、自民党内から多数の造反を誘う狙いがあるようだ。

 だが、定額給付金問題で参院審議入りを遅らせたとしても、それはおのずと限界がある。

 目下の景気後退を考えれば、補正予算と2009年度予算の早期成立は、喫緊の課題だからだ。

 審議を通じ、約2兆円に上る定額給付金予算の削除要求に伴う代替案を明確に示し、政府・与党に修正を迫る。この方が、民主党にとってよほど賢明な策だろう。

 仮に、民主党が、審議拒否・遅延戦術をとるならば、参院の補正審議と同時に、衆院で09年度予算審議も進める「並行審議」も、やむをえないところだ。

 政府・与党も、09年度予算審議を前に、いま一度、態勢を立て直すことが求められる。

 本紙世論調査で、麻生内閣を「支持しない」人は、7割を超えた。3人に2人は、09年度予算に盛り込まれた景気対策を「評価しない」と答えている。

 予算の景気浮揚効果について、政府・与党は、もっと丁寧に説明を尽くすことが大事だ。

 早期の衆院解散や定額給付金の撤回などを求めていた渡辺喜美・元行政改革相が採決前、自民党に離党届を出し、受理された。渡辺氏の主張からすれば、離党は当然の帰結である。

 渡辺氏の言い分の多くは民主党と重なり、「利敵行為」との受け止め方も少なくなかった。テレビ出演での行き過ぎた「反麻生パフォーマンス」に、辟易(へきえき)した自民党議員も多かったのではないか。

 ただ、衆院本会議の採決では自民党議員一人が棄権した。これ以上、党の結束を乱すわけにはいくまい。党執行部の責任は重い。(2009年1月14日01時34分 読売新聞)」



自民党機関誌読んでるみたな気になるね。



まあ、それはいつものことと諦めて、2次補正予算について1つ。



定額給付金に対する批判が強いのは周知の事実であるが、もう1つ、2次補正には「高速道路料金の引き下げ」に伴う5000億円の予算が盛り込まれていることも、もっと大きく取扱ってもらいたい。



定額給付金が2兆円という膨大な額なので、それに隠れてしまっているが、5000億円も巨額の予算である。

費用対効果で、もっと有効な使い方があるのではないだろうか。



介護従事者の処遇改善と人材確保が約1490億円。出産・子育て支援の拡充が約2450億円。これらを足したものを1000億円以上上回る額である。

ガソリン代も下がっている。景気も下降局面にある。高速道路料金の引き下げはそれほど景気刺激・浮揚効果はないのではないだろうか。定額給付金とあわせて考え直してもらいたい。

1月12日付 編集手帳

2009年01月13日 | Weblog
2009年01月13日 20時20分記載

URL http://www.yomiuri.co.jp/editorial/column1/news/20090111-OYT1T00790.htm



「「働かざる者、食うべからず」は新約聖書にある言葉だが、原典のニュアンスは少し異なる。正確な和訳は、「働きたくない者は、食べてはいけない」。聖書は働こうにも職がない人まで食べるな、とは言っていない◆この言葉はロシア経由で日本に広がったという。ロシア革命を主導したレーニンが聖書の言葉を「働かざる者」に変え、資産家の特権を排すスローガンにした。第2次大戦後、ソ連兵がシベリア抑留日本兵に過酷な労働を強いる際にこれを借用し、帰還兵が日本に持ち帰ったという説がある◆戦後の復興と高度成長のもと、日本では勤勉の合言葉になった。働き口がいくらでもあったころは、言葉の持つ冷徹さは気にせずにすんだのだろう◆時代は移り、多くの人が、寒風の下で「働かざる者…」の冷たい響きを肌で感じている。「勤労は善」だったはずなのに、君は「非正規」だから、と突然に職を奪われる。その疎外感は、衣食住への支援だけでは埋まるまい◆新約聖書には「人はパンのみにて生くる者に非(あら)ず」ともある。お金持ちが給付金をもらわぬ矜(きょう)持(じ)より、よほど心を砕くべき矜持がある。(2009年1月12日01時37分 読売新聞)」



たまにはまともなこと書くね。

検証・「年越し派遣村」

2009年01月13日 | Weblog
2009年01月12日 23時57分記載

MSN産経ニュース配信記事(参照URL http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090112/trd0901122133016-n1.htm )



「年末から年始にかけて、多くのメディアに登場した「年越し派遣村」。どのような人たちが運営し、どんな成果があったのかを検証する。    (敬称略)

 ■NPOや労組が基盤

 村の設立に携わったのはNPOや労働組合など約20団体。村長に選ばれたのがNPO法人「自立生活サポートセンターもやい」の事務局長の湯浅誠だ。

 昭和44年生まれの湯浅は日本政治思想史を専攻し、東京大学大学院まで進学した経歴を持つ。友人に誘われて野宿者の炊き出しにかかわったことから、貧困問題を意識。「もやい」を立ち上げ、困窮者の生活支援をしている。講演料や本の印税が主収入という。

 村の立ち上げについて湯浅は「同様の問題意識を持つ人たちと昨年暮れに、東京・飯田橋の居酒屋で飲んでいて、話が決まった」と証言する。湯浅の記憶だと、労働問題を専門にする労働弁護団弁護士、棗(なつめ)一郎らが提案。「人は集まらないかもしれないが、雇用や貧困問題を提起できればいいじゃないか」という思いだった。

 労働組合の連合、全労連、全労協も支援メンバーに加わった。運動の在り方をめぐって考えが異なる3つの労組が統一戦線を組むのは極めて異例。ほかに、非正規労働者の支援活動で実績のある「派遣ユニオン」「首都圏青年ユニオン」などが村政を支えた。

 湯浅は「炊き出しなど現場経験がある自分が村長の役回りになった」と話す。



■与野党を超えた人脈

 運動の一つの山が、2日夜に厚生労働省の講堂が宿泊場所として開放された場面だ。実行委員会の用意したテントの宿泊能力は150人分。村には300近い人が集まっていた。

 開放を決断したのは厚労副大臣の大村秀章(自民)。湯浅とは12月に放映された、労働問題をテーマにしたNHKの番組で名刺交換していた。2日昼過ぎに入った湯浅からの「テントに入りきらず病人も出ている。受け入れ施設を用意してほしい」という電話に、大村は「直感的にヤバイと思った。あの現場をみたら助けないわけにはいかないだろ」と振り返る。

 厚労省幹部も危機感を抱いていた。「厚労省の目の前の日比谷公園で、失業者が凍え死んだとなれば批判を浴びるどころか、内閣が吹っ飛ぶ」(幹部)。村を訪れた菅直人(民主)ら政治家らも与野党の枠を超えて、官房長官の河村建夫や厚労相の舛添要一に電話を入れ支援を求めた。

 午後5時過ぎ、「講堂に暖房を入れろ!」と大村が指示。9時過ぎには260人の村民が講堂に入った。



■成果と課題

 講堂開放では与野党を超えた協力態勢があったものの、派遣村に政治色やイデオロギーがちらついたのも事実。5日に日比谷公園から国会までを歩いたデモでは共産党と行動を同じくすることが多い、全労連、自治労連の街宣車が村民らを先導。「総選挙で政治を変えよう!」「消費税値上げ反対!」とシュプレヒコールを上げる光景もあった。

 実行委員会では、12日までの動きを振り返り、行政側が緊急の小口融資を柔軟に支給した点などを「各地で生活に困っている人にも応用できる貴重な経験だ」と肯定的にとらえる。

 一方で、行政側への今後の要望も多い。村民に行われた、生活保護の受給決定や行政の保護は「当たり前」というのが実行委のスタンスだ。実行委では、今回の派遣村のような一時避難所を行政もかかわって全国につくることや、大企業に再就職支援のための基金設置などを求めていくという。(赤堀正卓、神庭芳久、蕎麦谷里志)






 「年越し派遣村」に関するご意見・感想をお寄せください。Eメールnews@sankei-net.co.jp」



厚生労働省幹部の「厚労省の目の前の日比谷公園で、失業者が凍え死んだとなれば批判を浴びるどころか、内閣が吹っ飛ぶ」という発想の仕方はとても残念。



派遣村を主催・運営する方々に1つリクエストさせてもらえるなら、シュプレヒコールは、生活保護・失業給付等セーフティネット、労働法制、格差等に直接関係するようなものに限定してもらいたい。



そうしないと、非寛容な、何もしない連中が「政治に利用されてる」とか「政争の具になってる」とかわけのわからねえチャチャ入れてくるから。

チャチャ入れる奴等がおかしいことは十分わかってるんだけど、意外とおかしい奴がこの国には結構いるからね。

派遣切りを巡るあれこれ

2009年01月11日 | Weblog
日経BPnetのサイトを見てみると、派遣切り関連の記事がいくつかアップされ、それらが多くのアクセスを集めている。以下に、記事のタイトルと筆者を挙げてみる。

1.派遣首切り問題の根っこにあるもの(田原総一朗) http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090107/122829/

2.これでよかったのか「年越し派遣村」(早川 玄+X(エックス)) http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090106/122485/

3.続「派遣切り批判をあえて批判する」(財部誠一) http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20081225/121762/

4.派遣切り批判をあえて批判する(財部誠一) http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20081212/119407/

5.派遣切りと2009年問題、日本のものづくりの軋轢(林 志行) http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20081218/120560/

4の記事については、村野瀬玲奈の秘書課広報室( http://muranoserena.blog91.fc2.com/ )というブログで、当該ブログの管理人である村野瀬さんが、1月3日のエントリー「一方的派遣切りを正当化する論の特徴」で冷静に、論理的に反論されているので、一読をお勧めする。

私としては、一番気に掛かった2の記事を批判したいと思う。~以下、2の記事への批判~

「どことなく「悩ましさ」がつきまとってしまう。

 年末から大きく伝えられている「年越し派遣村」のことである。報道によれば「(厚生労働省は)廃校になった中央区の小学校体育館など都内4施設の利用を提示(毎日jp 1月4日) 」し「当面12日までで、食事も都などが手配(同)」するという。

 たしかに「それはそれでよし」なのかもしれない。

 そうはいっても、素朴に「12日以降はどうするの?」と考えてしまう。さらに「ほかの失業した人たちは?困っている人たちは?」の思いも残る。しかも「派遣村」というネーミングには抵抗感めいたものがぬぐいきれない。」



→曖昧で、感覚的な表現のオンパレードである。「どことなく」「なのかもしれない。」「抵抗感めいたもの」。自分の考えをまとめてから公表してもらいたい。

また、「12日以降はどうするの?」「ほかの失業した人たちは?困っている人たちは?」ともある。

それでは、この記事の筆者は、12日以降も責任を持てなければ最初から支援などするなと言うのであろうか。すべての失業者を救う義務がボランティア・有志にあるとでも言うのであろうか。「困っている」とは具体的にはどういう状態を指すのか。さっぱり理解できない。



「つきつめていくと「これってアリ?」という疑問が大きくなってしまう。」



→何をどう突き詰めたのかさっぱりわからない。



「だからといって「炊き出し」や「宿泊場所」提供を否定しているわけではない。仕事を失い、住む場所もない人たちに「手をさしのべよう」とするのは、自然な発想である。もし、街頭で支援を呼びかけられたら、それなりに応じる気持ちもないわけではない。」



→同じことの繰り返しになってしまうが、この記事の筆者は、肯定したいのか否定したいのか、論旨が定まらない。

応じる気持ちがないならないで「ない」と言い、あるならあるで「ある」と言ってもらいたい。「ないわけではない」とは結局どうしたいのか。



「また、パフォーマンス大好きの麻生さんが一度も足を運ぶことなく、「安心 活力」なんて書初めを披露している姿を見て、失礼ながら「なぁに考えてるんだかぁ」となる効果を、「年越し派遣村」はもたらしたような気もする。」



→また「ような気もする」である。自分の気持ちを整理してから記事にしてもらいたい。



「それでも「これってアリ?」と「悩ましさ」はなくならない。」



→直前に「年越し派遣村」の存在を肯定するかのような記述をしながら、また悩んでしまう。記事を公表する前に悩みを整理しておいてくれ。(これが、日経BPnetで公表される記事でなければ、ここまでは言わない。単なる一個人が運営しているブログではなく、相当数の人が見る、それなりのメディアに載る記事だからここまで言っている。)



「考えてみれば、そもそも年末年始の「炊き出し」や「宿泊場所」提供は各地で取りくまれている(「年末年始」と「炊き出し」で検索してみてください)。地域のボランティア主催のものから労働組合や行政など、立場に違いがあっても、困っている人たちに「手をさしのべよう」という発想は変わらない。

 にもかわらず、「派遣村」だけが注目を集め、「用意したテントが足りなくなった(YOMIURI ONLINE 1月3日) 」から「厚労省の講堂」そして「東京都が用意した体育館」というのには、どうしても「これってアリ?」になってしまう。

 もちろん反対はしない。それによってに500人前後の人たちが暖かく眠れたのだから、それなりの意義があったのは事実である。」



→「派遣村」だけが注目を集め、「用意したテントが足りなくなった」から「厚労省の講堂」そして「東京都が用意した体育館」というのには、どうしても「これってアリ?」になってしまうと疑問を投げかけた直後に、「もちろん反対はしない。それによってに500人前後の人たちが暖かく眠れたのだから、それなりの意義があったのは事実である」と言ってしまう。支離滅裂である。



「でも、多くの「炊き出し」や「宿泊場所」提供が、さまざまな制約のなかで「できる範囲で」努力しているのと比べると、やはり「悩ましさ」が残ってしまう。けっして役人の味方をするわけではないが、体育館の確保にしても電話一本でできるわけではないし、暖房を入れるにも、それなりの予算措置も必要だろう。」



→そしてまた直後に「でも」である。この記事の筆者は何がしたいのだろう。



「たしかに、政府や役人は、あまりにも無策すぎる。しかし「想定より集まったので、体育館提供して」では、「手をさしのべよう」の範疇ではなくなってしまう。そこに「これってアリ?」と「悩ましさ」がある。」



→政府や役人があまりにも無策であることは、この記事の筆者も認めている。その無策な政府や役人に策を授けてやることに何の問題があるのかわからない。



「もっとも、震災や台風などの自然災害に対する「炊き出し」や「テント村」には、「体育館や講堂も」となる。自然災害の被災者に対する手厚い援助には「これってアリ?」にはならないし、まして「備えがないからだ」とか「自分でなんとかしろ」と思うのは、ごく限られた少数だろう。

 ところが、派遣労働者とすると、どこかが違う。「非正規労働者救済の低利融資と住宅提供」についてYahoo!ニュースのネットアンケート結果 をみても、割り引いて考えるとしても、ほぼ過半数以上が「まったくよくない」「あまりよくない」となっている。推測すれば、「年越し派遣村」への「無条件で支持」は、圧倒的多数ではないような気もしないでもない。」



→自然災害の被災者と派遣切りにあった派遣労働者のどこがどう違うのか明確に述べてもらいたい。「どこかが違う」では伝わらない。

また、ネット上のアンケートは同一人が複数回回答することが可能なので、信用するのは危険である。

そしてまた「圧倒的多数ではないような気もしないでもない」である。はっきり言おうよ!



「それを「弱者きりすて」とか「思いやりのない」とする論調は、あまりにも単純で間違いだろう。困っている人たちに「手をさしのべよう」とする考え方には、誰もが反対はしない。個人的にも「なにもできないからカンパくらい」となる。

 しかし「悩ましさ」がつきまとうのは、どこか「納得」できないからだ。「派遣村」とされただけで、「なぜ派遣なの?」「ほかの方法はないの?」と、数多くの「?マーク」がつくから、「せめてカンパ」と思っても、なかなか手が動かない。」



→「派遣村」に対する批判をしたいのか、それを伝えるメディアの批判をしたいのか区別がつかない。もっと整理して書いた方がいい。批判がしづらい。(批判されないように敢えてまぜこぜに書いているのか。)

「なぜ派遣なの?」と問われれば、首切りの一番のターゲットになっているからだと答えたい。「ほかの方法はないの?」と問われれば、不存在の証明は出来ないので、あるだろうとしか言えない。他の方法があることは、現に行われている方法を否定する根拠にはならない。

カンパは強制ではないので、したくなければしなければいい。



「その大きな原因は、派遣労働者に「同情を強いる」過剰報道だろう。

いわゆる「派遣切り」報道にはじまり、テレビや新聞では「気の毒、タイヘン」を繰りかえしている。」



→この記事の筆者は、この記事を「派遣村」批判かメディア批判に分けた方が良かった。まぜこぜになっているので、ただでさえわかりづらい文章が余計にわかりづらくなっている。



「しかも「ここまで個人情報を」と思うくらい、具体的で個別の事情まで踏みこむ映像や記事も目につく。」



→個人情報については、本人が同意しているのならば問題ない。本人の同意の有無はメディアに確認してもらいたい。



「あえて意地悪にいうが、下請けのプロダクションが撮ってきた映像を、暖房が効いた部屋で編集しているテレビ局関係者には、「気の毒、タイヘン」こそ「おいしいネタ」なのだろう。それに刺激され、新聞社では編集長が「もっと悲惨な例を探してこい」と記者に檄をとばしているかもしれない。」



→そういうこともあるかもしれない。メディア批判はメディア批判としてやってもらえば結構である。



「しかし、自然災害ならば地域も限定された災害だが、不況は派遣労働者だけでなく誰もが影響を受ける長期の災害(?)である。つまり、テレビ局関係者の「おいしいネタ」は「明日は我が身」の不安をかきたて、「備え」や「自己防衛」に向かわせる結果しか残さない。」



→そんなことはない。労働法制の在り方、決算公表タームも含めた資本市場の在り方、セーフティネットの在り方等、様々な議論を呼び起こす。そしてそれらの議論は、今後の我が国社会のあるべき姿を考えるうえで、必要不可欠であり、また、有益である。

この記事の筆者は視野が狭すぎる。



「そこに「派遣村」である。誤解を恐れずいうが「なぜ、派遣だけ」という声も、厳然としてある。地域の自営業が集まった忘年会で(盛りあがりませんでした)、「派遣の人はいいよね、助けてくれるもの」という声があがった。さすがに、皆さんオトナなので「そうはいっても、食べて寝れるから、まだ恵まれてるよね」で終わったが、「緊急融資」を申し込んでも2~3カ月待たされる中小零細企業のホンネに近いだろう。」



→「厳然と」などと大袈裟な言い方をしなくても、「なぜ、派遣だけ」という声があることはわかっている。そのような声にはこう答えたい。「派遣村と銘打ってやっているが、派遣切りにあった人だけを受け入れているわけではない。それは、派遣村にやってくる人達の身元調査をしてから受け入れているわけではないことから明らかである。仕事が無い・住居がない・お金が無いという人達を広く受け入れている。自営業の人がホームレスになったとしても、「派遣村」は受け入れる。「お宅は自営業者だった人間だから帰れ。」などと無慈悲なことは言わない。そんな無慈悲なことを言う人間は、寒風吹きすさぶ年末年始に無償で炊き出しなどしない。」と。


「派遣村」というネーミングにこだわるこの記事の筆者の言い分は、私にはイチャモンにしか聞こえない。



私も個人事業をしていたので中小零細企業の人達の気持ちはわかる。私も個人事業主だった頃は、サラリーマンは有給休暇があっていいなと思ったし、県の制度融資を受けたこともあるので、中小零細企業の融資にどれだけの手間隙がかかるかもわかる。

しかしそれでも、派遣切りにあった人達を見捨てておけばいいとは思わない。



「派遣の人はいいよね、助けてくれるもの」と本気で思うのなら、事業をたたんで派遣社員になったらいい。

オトナなら、職を失った人に対して嫌味ったらしいことを言うな。



「なにも中小零細企業だけではない。DINAMOND onlieのアンケート でも「失業不安あり」が70%にも及んでいる。別に煽るわけではないが、まさに「明日は我が身」であり、だから「備え」や「自己防衛」が気になってしまう。

 困っている人たちに「手をさしのべよう」とする思いは誰にも共通している。とはいっても、ことさら「派遣村」とされると、「備えは?自己防衛は?」という素朴な疑問を納得させるのは「悩ましい」。」



→備え・自己防衛ということについて言えば、自助・共助・公助のバランスをどう考えるかによって、おのおの結論が変わってくることと思うが、私には「派遣村」を批判する人達には、自助を過度に強調している傾向があるように見える。

現下の状況は、自助の精神で解決できるような甘い状況ではないように私には思える。



「感情を排していえば「派遣は雇用の調整弁」である。いまになって「問題あり」と大騒ぎしているが、派遣法の改正当時、激しい反対運動が起きたり、国会で強行採決されたりした記憶はない(あくまでも記憶で厳密に調べていません)。それよりも「多様な雇用」とか「自由な働き方」とプラス面が強調された印象がある。」



→もっと言うと、派遣は人間を部品・資材と同等に扱う人身売買である。こんなものは即刻全面的に廃止したらいい。

派遣法の改正当時の状況は、この記事の筆者が言うようなものであった。(政党として反対したのは、共産党だけ。反対運動を展開したのも全労連くらい。)

しかし、それがなんだと言うのだろう。今、現実に問題が起きているのであれば、1999年当時の状況云々ではなく、現状を改善させればいいではないか。過ちを改めるに憚る事勿れ、である。



「同時に「国際競争力の向上」や「終身雇用の終焉」も謳われていた。人件費の重荷をなくし、設備投資や開発競争に重点を置く経営が、賞賛されていた時代でもある。」



→それが、現時点では誤り若しくは問題が多いと批判されている。



「それが不況となって「調整弁」を機能させると、マスコミから一斉に「派遣切り」の集中砲火である。なにも企業を弁護するつもりはないが、「そんなこといわれても」となるのも理解できなくはない。」



→メディア批判はメディア批判としてやってもらうとして、私としては、「過ちを改めるに憚る事勿れ」と繰り返したい。



「まして「株主に配当しているのに」とか「内部留保があるのに」の非難である。経営者としては「だったら、配当や設備投資や開発もしないまま、雇用を守るだけが企業の勤めか」と反論もしたくなるだろう(バランスの問題はありますが)。個人的には「雇用を守って、ひっそりと」という企業も悪くはないと思うが、市場原理が競争である限り、経営者としては失格の発想に違いない。」



→本人も言っている通り、バランスの問題である。配当を1年か2年見合わせる、内部留保をいくらか取り崩すという経営判断はあってもいい。

市場原理だけでは社会が立ち行かなくなることは、リーマンショック以降の世界が雄弁に物語っている。



「しかも忘れてならないのは、「調整弁」である派遣を「自由な働き方」として受け入れた事実である。定かな記憶ではないが、「一生ひとつの会社にしばられるより」とか「好きなときに好きな仕事」のような論調が蔓延していたような印象が残っている。」



→この記事の筆者の特徴なのだが、確たる根拠は持たずに印象だけで物を書く。よくこんな文章が日経BPnetに載るな、というのが率直な感想である。



「あえて冷酷にいえば、「自由」で「好きなときに」と引き換えに、「調整弁」というリスクを負わされているのが派遣なのだ。

 しかも、その「自由」で「好きなときに」さえも、人件費抑制の時代的な風潮と、一部のコズルイ経営者による収奪につぐ収奪で危うい。いまや「自由」のリスクは重く大きいものになっている。

 

 だからといって、派遣としての生きかたを否定しない。きわめて重く大きいリスクへの覚悟さえあれば、それも立派な職業選択だろう。」



→要するに、、自分で派遣を選んだのだから自分で責任を負え、と言いたいのだろう。

確かに、自分で派遣という雇用形態を選んだのならば、自分で責任を負ってもらうのもいいだろう。

であれば、派遣先企業に、労働者が就労する前に自由に正社員と派遣社員のどちらかを選べるるよう、法律で(当然重い罰則付きで)義務付けてもらいたい。

派遣社員が「自分で」「自由に」派遣形態を選んだわけではないことがすぐに証明されるだろう。



「その意味で、マスコミの「派遣切り」非難や「気の毒、タイヘン」は納得できない。さらに「派遣村」という発想も「これってアリ?」になってしまう。」



→前提が間違っている。



「たしかに「雇用の調整弁」であるからには、まっさきにシワ寄せが集中している。しかし、そのリスクを覚悟したうえで「自由」を選択した「誇り高き」派遣ならば「派遣を選んだからには、その覚悟はしている」となるだろう(ちょっと理屈こねてます)。」



→労働者に正社員になるか派遣社員になるかの選択肢が与えられていると本気で思っているのだろうか。思っているとすれば、かなりおめでたい。



「もちろん、「誇り高き」派遣は極少数で、「なんとなく派遣」「これしかない派遣」が多いのかもしれない。また、「自分で選んだのだから」と切りすてるのは、あくまでも反対である。「手をさしのべよう」とする困っている人たちには制限などない。」



→またまた「かもしれない」である。そしてまたまた賛成なんだか、反対なんだかわからない。こうなるともう付ける薬が無い。書くのをやめたら、と思う。



「しかし、派遣が必然的に持っている「危うさ」を見落として、ひたすら悲劇の主人公にしてしまうのには、かなりの抵抗が残ってしまう。」



→それはメディア批判としてやってもらいたい。



「とはいえ「動機は不純でもいい」という言葉もあるし(この言葉好きです)、仕事を失い住む場所もない人たちに、食事と暖かい寝床をもたらしたのは事実である。また、数多くのボランティアが参加し、カンパも集まったという。困っている人たちに「手をさしのべよう」の結果としては成功だろう。」



→ここでまた肯定である。この人はどうしたいのだろう。



「しかし、2日か3日のニュースで「厚労省の講堂を開放」と報告しているリーダーらしき方を見ていて、「これでいいのかなぁ?」と心配になってしまった。案の定とはいわないが、「厚労省の講堂」の次は「東京都が用意した体育館」である。

 たしかに、食事と寝床という意義はあっただろう。また、政治家としての資質を疑うような発言まで飛びだし(参照 派遣村:「本当に働こうとしている人か」と坂本総務政務官 毎日jp 1月5日 :取り消したようですが)、政府や閣僚の鈍感ささえ浮き彫りにしてしまった。」



→意義があったのならいいではないか。何を言いたいのか。



「しかし、どうして「派遣村」で「厚労省の講堂」なのか、正直なところ疑問が残ったままである。細かいことにこだわるわけではないが、実際には派遣以外の人たちも受け入れたらしいので、それなら「困っている人たち向け」としてもいいし、厚労省と交渉する前に「テント求めます」とマスコミを通して募る方法もあっただろう。」



→労働法制が厚生労働省の所管だから。



「そこには、取りくんだ方々には申し訳ないが、派遣や厚労省との交渉にこだわる「政治的な意図」があったのでは――そう誤解されても仕方がないような気がする。」



→政治的意思は当然ある。なぜなら、ボランティア・有志で全ての職を失った人・住む所を失った人・お金のない人を救うことはできないし、それは政治・行政がやるべきことだから。それを求めるのは当然。

誤解じゃなくて、記事の筆者の理解が足りない。



「個人的には「政治的な意図」もアリだとは思う。しかし、「炊き出し」や「宿泊場所」提供の原点は、「手をさしのべよう」という善意である。ただ、善意は無限としても、その実行には限界がある。だから、「できる範囲で」をひろげる共感と支援が持つ意味は大きい。」



→だから、広げようと努力してるじゃない。



「けっして、交渉して場所を獲得するのを批判するわけではない。しかし、「炊き出し」や「宿泊場所」提供と場所の獲得は意味的に異なる。「手をさしのべる」ことに共感しても、場所の獲得には「そこまでは」という意見もあるかもしれない。」



→意味的に異なることはない。同一線上にある。そしてまたまたまた「かもしれない」である。はっきり言うのは批判されそうで怖いの?



「しかも、不況が直撃しているのは派遣だけではない。失業の不安を持つ多くの人たちもいれば、明日の運転資金に悩む中小零細企業の人たちもいる。それでも、仕事を失い、住む場所もない人たちへ「(自分たちは)まだ恵まれている」と、「手をさしのべる」ことに共感した人たちがいたことを忘れてはならないだろう。」



→「しかも」でつながる文章か?結局何を言いたい?



「あえていうが、「従業員の給与を払った後はなにも残らない自営業者」も「給与カットされたり、リストラされかけている正社員」も困っている人たちなのだ。「派遣村」とすると「とにかく派遣だけを」と勘違いされかねない。」



→村のネーミングにそこまでこだわる理由がさっぱりわからない。何か適当な名前でも付けてくれよ、そんなに気に入らないなら。勘違いしているのはお宅ぐらいだよ。

「あえていうが」って言うほどたいしたこと言ってないから。



「政府に「セフティネットの実現」や「宿泊場所」を要求するのと、困っている人たちに「手をさしのべよう」の「炊き出し」や「宿泊場所」提供は、あきらかに違う。」



→認識が完全に間違ってる。すべて同一線上にある。



「なんといっても、「手をさしのべよう」への幅広い純粋な共感と支援が欠かせない。それを忘れては、誤解による非難を呼ぶ心配もある。そうならないためにも、成果だけでなく、幅広い共感と支援という視点で、客観的に「年越し派遣村」を考える必要がある。」



→「年越し派遣村」を考える前に、自分の思考回路・文章能力を客観的に考えた方がい

派遣切りを巡るあれこれーご参考

2009年01月11日 | Weblog
2009年01月10日 21時17分記載

URL http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090106/122485/?P=1



記事タイトル:これでよかったのか「年越し派遣村」



つきつめると「これってアリ?」と「悩ましさ」がぬぐえない
 どことなく「悩ましさ」がつきまとってしまう。

 年末から大きく伝えられている「年越し派遣村」のことである。報道によれば「(厚生労働省は)廃校になった中央区の小学校体育館など都内4施設の利用を提示(毎日jp 1月4日) 」し「当面12日までで、食事も都などが手配(同)」するという。

 たしかに「それはそれでよし」なのかもしれない。

 そうはいっても、素朴に「12日以降はどうするの?」と考えてしまう。さらに「ほかの失業した人たちは?困っている人たちは?」の思いも残る。しかも「派遣村」というネーミングには抵抗感めいたものがぬぐいきれない。

 つきつめていくと「これってアリ?」という疑問が大きくなってしまう。

 だからといって「炊き出し」や「宿泊場所」提供を否定しているわけではない。仕事を失い、住む場所もない人たちに「手をさしのべよう」とするのは、自然な発想である。もし、街頭で支援を呼びかけられたら、それなりに応じる気持ちもないわけではない。

 また、パフォーマンス大好きの麻生さんが一度も足を運ぶことなく、「安心 活力」なんて書初めを披露している姿を見て、失礼ながら「なぁに考えてるんだかぁ」となる効果を、「年越し派遣村」はもたらしたような気もする。

 それでも「これってアリ?」と「悩ましさ」はなくならない。



考えてみれば、そもそも年末年始の「炊き出し」や「宿泊場所」提供は各地で取りくまれている(「年末年始」と「炊き出し」で検索してみてください)。地域のボランティア主催のものから労働組合や行政など、立場に違いがあっても、困っている人たちに「手をさしのべよう」という発想は変わらない。

 にもかわらず、「派遣村」だけが注目を集め、「用意したテントが足りなくなった(YOMIURI ONLINE 1月3日) 」から「厚労省の講堂」そして「東京都が用意した体育館」というのには、どうしても「これってアリ?」になってしまう。

 もちろん反対はしない。それによってに500人前後の人たちが暖かく眠れたのだから、それなりの意義があったのは事実である。

 でも、多くの「炊き出し」や「宿泊場所」提供が、さまざまな制約のなかで「できる範囲で」努力しているのと比べると、やはり「悩ましさ」が残ってしまう。けっして役人の味方をするわけではないが、体育館の確保にしても電話一本でできるわけではないし、暖房を入れるにも、それなりの予算措置も必要だろう。

 たしかに、政府や役人は、あまりにも無策すぎる。しかし「想定より集まったので、体育館提供して」では、「手をさしのべよう」の範疇ではなくなってしまう。そこに「これってアリ?」と「悩ましさ」がある。

どこか「納得」できない「派遣村」というネーミング
 もっとも、震災や台風などの自然災害に対する「炊き出し」や「テント村」には、「体育館や講堂も」となる。自然災害の被災者に対する手厚い援助には「これってアリ?」にはならないし、まして「備えがないからだ」とか「自分でなんとかしろ」と思うのは、ごく限られた少数だろう。



ところが、派遣労働者とすると、どこかが違う。「非正規労働者救済の低利融資と住宅提供」についてYahoo!ニュースのネットアンケート結果 をみても、割り引いて考えるとしても、ほぼ過半数以上が「まったくよくない」「あまりよくない」となっている。推測すれば、「年越し派遣村」への「無条件で支持」は、圧倒的多数ではないような気もしないでもない。

 それを「弱者きりすて」とか「思いやりのない」とする論調は、あまりにも単純で間違いだろう。困っている人たちに「手をさしのべよう」とする考え方には、誰もが反対はしない。個人的にも「なにもできないからカンパくらい」となる。

 しかし「悩ましさ」がつきまとうのは、どこか「納得」できないからだ。「派遣村」とされただけで、「なぜ派遣なの?」「ほかの方法はないの?」と、数多くの「?マーク」がつくから、「せめてカンパ」と思っても、なかなか手が動かない。

 その大きな原因は、派遣労働者に「同情を強いる」過剰報道だろう。

 いわゆる「派遣切り」報道にはじまり、テレビや新聞では「気の毒、タイヘン」を繰りかえしている。しかも「ここまで個人情報を」と思うくらい、具体的で個別の事情まで踏みこむ映像や記事も目につく。

 あえて意地悪にいうが、下請けのプロダクションが撮ってきた映像を、暖房が効いた部屋で編集しているテレビ局関係者には、「気の毒、タイヘン」こそ「おいしいネタ」なのだろう。それに刺激され、新聞社では編集長が「もっと悲惨な例を探してこい」と記者に檄をとばしているかもしれない。

 しかし、自然災害ならば地域も限定された災害だが、不況は派遣労働者だけでなく誰もが影響を受ける長期の災害(?)である。つまり、テレビ局関係者の「おいしいネタ」は「明日は我が身」の不安をかきたて、「備え」や「自己防衛」に向かわせる結果しか残さない。

 そこに「派遣村」である。誤解を恐れずいうが「なぜ、派遣だけ」という声も、厳然としてある。地域の自営業が集まった忘年会で(盛りあがりませんでした)、「派遣の人はいいよね、助けてくれるもの」という声があがった。さすがに、皆さんオトナなので「そうはいっても、食べて寝れるから、まだ恵まれてるよね」で終わったが、「緊急融資」を申し込んでも2~3カ月待たされる中小零細企業のホンネに近いだろう。



なにも中小零細企業だけではない。DINAMOND onlieのアンケート でも「失業不安あり」が70%にも及んでいる。別に煽るわけではないが、まさに「明日は我が身」であり、だから「備え」や「自己防衛」が気になってしまう。

 困っている人たちに「手をさしのべよう」とする思いは誰にも共通している。とはいっても、ことさら「派遣村」とされると、「備えは?自己防衛は?」という素朴な疑問を納得させるのは「悩ましい」。

派遣はリスクのある「自由」の選択だったはず
 感情を排していえば「派遣は雇用の調整弁」である。いまになって「問題あり」と大騒ぎしているが、派遣法の改正当時、激しい反対運動が起きたり、国会で強行採決されたりした記憶はない(あくまでも記憶で厳密に調べていません)。それよりも「多様な雇用」とか「自由な働き方」とプラス面が強調された印象がある。

 同時に「国際競争力の向上」や「終身雇用の終焉」も謳われていた。人件費の重荷をなくし、設備投資や開発競争に重点を置く経営が、賞賛されていた時代でもある。

 それが不況となって「調整弁」を機能させると、マスコミから一斉に「派遣切り」の集中砲火である。なにも企業を弁護するつもりはないが、「そんなこといわれても」となるのも理解できなくはない。

 まして「株主に配当しているのに」とか「内部留保があるのに」の非難である。経営者としては「だったら、配当や設備投資や開発もしないまま、雇用を守るだけが企業の勤めか」と反論もしたくなるだろう(バランスの問題はありますが)。個人的には「雇用を守って、ひっそりと」という企業も悪くはないと思うが、市場原理が競争である限り、経営者としては失格の発想に違いない。



しかも忘れてならないのは、「調整弁」である派遣を「自由な働き方」として受け入れた事実である。定かな記憶ではないが、「一生ひとつの会社にしばられるより」とか「好きなときに好きな仕事」のような論調が蔓延していたような印象が残っている。

 あえて冷酷にいえば、「自由」で「好きなときに」と引き換えに、「調整弁」というリスクを負わされているのが派遣なのだ。

 しかも、その「自由」で「好きなときに」さえも、人件費抑制の時代的な風潮と、一部のコズルイ経営者による収奪につぐ収奪で危うい。いまや「自由」のリスクは重く大きいものになっている。

 だからといって、派遣としての生きかたを否定しない。きわめて重く大きいリスクへの覚悟さえあれば、それも立派な職業選択だろう。

 その意味で、マスコミの「派遣切り」非難や「気の毒、タイヘン」は納得できない。さらに「派遣村」という発想も「これってアリ?」になってしまう。

 たしかに「雇用の調整弁」であるからには、まっさきにシワ寄せが集中している。しかし、そのリスクを覚悟したうえで「自由」を選択した「誇り高き」派遣ならば「派遣を選んだからには、その覚悟はしている」となるだろう(ちょっと理屈こねてます)。

 もちろん、「誇り高き」派遣は極少数で、「なんとなく派遣」「これしかない派遣」が多いのかもしれない。また、「自分で選んだのだから」と切りすてるのは、あくまでも反対である。「手をさしのべよう」とする困っている人たちには制限などない。

 しかし、派遣が必然的に持っている「危うさ」を見落として、ひたすら悲劇の主人公にしてしまうのには、かなりの抵抗が残ってしまう。



客観的に困っている人たちに「手をさしのべよう」の原点を
 とはいえ「動機は不純でもいい」という言葉もあるし(この言葉好きです)、仕事を失い住む場所もない人たちに、食事と暖かい寝床をもたらしたのは事実である。また、数多くのボランティアが参加し、カンパも集まったという。困っている人たちに「手をさしのべよう」の結果としては成功だろう。

 しかし、2日か3日のニュースで「厚労省の講堂を開放」と報告しているリーダーらしき方を見ていて、「これでいいのかなぁ?」と心配になってしまった。案の定とはいわないが、「厚労省の講堂」の次は「東京都が用意した体育館」である。

 たしかに、食事と寝床という意義はあっただろう。また、政治家としての資質を疑うような発言まで飛びだし(参照 派遣村:「本当に働こうとしている人か」と坂本総務政務官 毎日jp 1月5日 :取り消したようですが)、政府や閣僚の鈍感ささえ浮き彫りにしてしまった。

 しかし、どうして「派遣村」で「厚労省の講堂」なのか、正直なところ疑問が残ったままである。細かいことにこだわるわけではないが、実際には派遣以外の人たちも受け入れたらしいので、それなら「困っている人たち向け」としてもいいし、厚労省と交渉する前に「テント求めます」とマスコミを通して募る方法もあっただろう。

 そこには、取りくんだ方々には申し訳ないが、派遣や厚労省との交渉にこだわる「政治的な意図」があったのでは――そう誤解されても仕方がないような気がする。

 個人的には「政治的な意図」もアリだとは思う。しかし、「炊き出し」や「宿泊場所」提供の原点は、「手をさしのべよう」という善意である。ただ、善意は無限としても、その実行には限界がある。だから、「できる範囲で」をひろげる共感と支援が持つ意味は大きい。

 けっして、交渉して場所を獲得するのを批判するわけではない。しかし、「炊き出し」や「宿泊場所」提供と場所の獲得は意味的に異なる。「手をさしのべる」ことに共感しても、場所の獲得には「そこまでは」という意見もあるかもしれない。



しかも、不況が直撃しているのは派遣だけではない。失業の不安を持つ多くの人たちもいれば、明日の運転資金に悩む中小零細企業の人たちもいる。それでも、仕事を失い、住む場所もない人たちへ「(自分たちは)まだ恵まれている」と、「手をさしのべる」ことに共感した人たちがいたことを忘れてはならないだろう。

 あえていうが、「従業員の給与を払った後はなにも残らない自営業者」も「給与カットされたり、リストラされかけている正社員」も困っている人たちなのだ。「派遣村」とすると「とにかく派遣だけを」と勘違いされかねない。

 政府に「セフティネットの実現」や「宿泊場所」を要求するのと、困っている人たちに「手をさしのべよう」の「炊き出し」や「宿泊場所」提供は、あきらかに違う。

 なんといっても、「手をさしのべよう」への幅広い純粋な共感と支援が欠かせない。それを忘れては、誤解による非難を呼ぶ心配もある。そうならないためにも、成果だけでなく、幅広い共感と支援という視点で、客観的に「年越し派遣村」を考える必要がある。」



早川 玄+X(エックス)
世田谷区・目黒区で、NPO法人や勉強会などの現場で、子どもに関わる活動をつづけるそれぞれのX(エックス)と、「帰ってきた顰蹙の魔王」のペンネームでコラムを連載中の早川玄の協同執筆。

代表質問 対決だけでなく協調も必要だ(1月7日付・読売社説)

2009年01月07日 | Weblog
2009年01月07日 21時07分

URL http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20090106-OYT1T00815.htm



「衆参ねじれ国会で、与野党が対決するばかりでは、日本政治はまたも機能不全に陥る。未曽有の経済危機の下、そんな事態は回避すべきだ。

 2008年度第2次補正予算案に関する各党の代表質問が始まった。民主党の鳩山幹事長は、2兆円の定額給付金を「究極の大愚策」と批判し、補正予算案からの削除を要求した。

 麻生首相は、定額給付金は「景気後退下での家計への緊急支援であり、消費を増やす経済効果もある」と正面から反論した。

 定額給付金の景気刺激効果が限定的なのは否めない。ただ、鳩山幹事長が「浪費の最たるもの」と主張するなら、より「有効な使い道」を建設的な対案の形で具体的に明示する必要がある。

 民主など野党3党が衆院に提出した予算修正案は、定額給付金を削除するだけで、代わりの経済対策を盛り込んだものではない。

 結局、渡辺喜美・元行政改革相ら、定額給付金に批判的な自民党議員に採決時の“造反”を促し、与党を揺さぶる政局的思惑によるものと見られても仕方がない。

 政府・与党も、野党が反対する予算関連法案は衆院で再可決するという強硬路線一辺倒では、法案成立が大幅に遅れてしまう。

 その場合、日本経済や国民生活に悪影響が出かねない。ガソリン税の暫定税率維持などをめぐり、与野党が激突した昨年の通常国会の二の舞いである。

 現在の経済危機の深刻さを踏まえれば、与野党は国会対応での協調を探るべきではないか。

 雇用情勢の悪化について、鳩山幹事長は「麻生内閣による人災、政治災害だ」などと非難した。さらに、野党が共同提出した雇用対策の緊急決議案に賛成するよう麻生首相に求めた。

 決議案は、「国民の雇用と住まいの確保」と「生活保護の弾力的運用」を求めるだけの内容だ。

 国会に今求められているのは、政治的パフォーマンスではない。実効性のある雇用政策を迅速に立法することだ。新たな雇用創出、失業者の再就職支援、内定取り消し対策など、取り組むべき課題は多く、いずれも急を要する。

 日雇い派遣を原則禁止する労働者派遣法改正案に関し、野党内では、製造業への派遣自体を禁止する修正案も検討されている。

 派遣労働者の雇用・待遇に加えて、日本企業の国際競争力確保にも目配りが必要だ。与野党が知恵を出し合い、より良い合意をまとめる努力が重要となろう。(2009年1月7日01時50分 読売新聞)」



相変わらず政府・与党に優しい会社だね。



「現在の経済危機の深刻さを踏まえれば、与野党は国会対応での協調を探るべきではないか。」

探るべきではないね。現在の経済危機の深刻さを踏まえれば、解散・総選挙を行って、国民から信託を受けた正当な政権が強力なリーダーシップをもって危機打開に当たるべき。たらい回しの政権が打開できるような危機ではないよ。麻生に出来ると思う?



早く選挙やろうよ。



献血のお願い

2009年01月05日 | Weblog
2009年01月05日 22時51分記載

これまでにも何度かお願いしてきましたが、またお願いさせてもらいたいと思います。



冬場は血液が不足してしまいます。

健康上の問題がない方には、是非献血をして頂けたらと思います。



私はもう献血は出来ず、お願いするばかりで心苦しいのですが、献血しても構わないという方がいらっしゃいましたら、是非お願い致します。



派遣村、まじめに働こうという人なのか?と坂本総務政務官

2009年01月05日 | Weblog
2009年01月05日(月)記載

URL http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090105-OYT1T00628.htm?from=top



「坂本哲志総務政務官(自民、衆院当選2回)は5日、総務省の仕事始め式のあいさつで、東京・日比谷公園の「年越し派遣村」について、「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているのかな、という気もした」と述べた。

 坂本氏はさらに、「『(厚生労働省の)講堂を開けろ』『もっといろんな人が出てこい』(と要求される)。学生紛争の時に『学内を開放しろ』『学長よ出てこい』(と学生が要求した)。そういう戦術、戦略がかいま見える気がした」と語った。

 年越し派遣村には、失業と同時に住まいをなくした派遣労働者ら約500人が集まった。

 坂本氏の発言には、野党などから批判が出ることが予想される。(2009年1月5日20時52分 読売新聞)」



どの点を捉えてまじめに働かないように見えたのかな?

その点を改めたらまたトヨタや日産や本田がまた雇ってくれるのかな?



坂本哲志総務政務官、更迭されるんじゃないかな。


昨日はばあばの誕生日

2009年01月04日 | Weblog
2009年01月04日 14時23分記載

昨日はばあば(私の母)がめでたく還暦を迎えたということで、姉夫婦と子供達3人(母にとっては孫、私にとっては姪と甥)がお祝いにやってきた。



姉や私は赤いちゃんちゃんこをプレゼントすると言ったのだが、「絶対に着ない!」と気だけは若い母が断固反対したため(母は私どころではない頑固者。全然人の言うことを聞かない。この辺を少しだけ私は受け継いでいる)、ケーキ等で普通に誕生日のお祝いをした。



母は、息子(私)が病気になってしまったことは残念なことだったが、トータルで見ればいい人生だったと言っていた。私もそう思う。私の病気で大変な苦労をかけてしまったし、その他にも大変なことはあったが、子を2人もうけ、孫3人にも恵まれた母の人生は幸せなものであると思う。うまくいくとひ孫も見られる。それ以上の幸せはなかなかないと思う。



昨日は、懸案だった私と甥っ子(11歳)とのオセロ対決が実現。さんざん強いと聞かされていたにいに(私)は全力で対戦。大人気ないくらいに圧勝。ちょっと申し訳ない感じになってしまった。(というか、そのくらいの甥っ子に負ける姉や姉の嫁ぎ先メンバーは大丈夫か?)



オセロでは、ばあばと下の姪っ子(9歳)も対戦。姪っ子勝利!大丈夫かばあば?



さらには、姉から、甥っ子に将棋を教えてあげて欲しいと言われていたので、甥っ子に将棋のルールを教え、4局ほど対戦。甥っ子は将棋を気に入ったようで、塾の先生や学校の先生と対戦すると言っていた。



昨日私にとって1番面白かったのは、下の姪っ子がDSでマリオカカートをやっている姿で、右にボタンがあるのか、右曲がりのコースなのか、どんどん右に傾いていってしまう。1回転してしまうのではないかと思うくらい右にどんどん傾いていってしまう。もの凄い真剣な顔をして右に傾きながらマリオカートで遊んでいる姪っ子の姿が愛らしくとてもかわいかった。



そうこうしているうちに、夜11時になってしまったため、上の姪っ子(16歳)を除く姉一家は急遽うちに泊まっていくことになった。(上の姪っ子はバーゲンが大好きで、夕方くらいにルミネに買い物に行ってそのまま帰ってしまった。ちなみに、姪っ子はうちに来る前にもバーゲンに寄ってきており、バーゲン→うち→バーゲンというスケジュールで動いている。この年からこんなにバーゲン大好きで大丈夫か?)



そして今日の昼前に姉一家は帰っていった。



とても楽しい1日だった。