がん(骨肉腫)闘病記

抗がん剤治療、放射線治療、人工関節置換手術、MRSA感染、身体障害者となっての生活の記録を残します。

派遣切りを巡るあれこれ

2009年01月11日 | Weblog
日経BPnetのサイトを見てみると、派遣切り関連の記事がいくつかアップされ、それらが多くのアクセスを集めている。以下に、記事のタイトルと筆者を挙げてみる。

1.派遣首切り問題の根っこにあるもの(田原総一朗) http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090107/122829/

2.これでよかったのか「年越し派遣村」(早川 玄+X(エックス)) http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090106/122485/

3.続「派遣切り批判をあえて批判する」(財部誠一) http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20081225/121762/

4.派遣切り批判をあえて批判する(財部誠一) http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20081212/119407/

5.派遣切りと2009年問題、日本のものづくりの軋轢(林 志行) http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20081218/120560/

4の記事については、村野瀬玲奈の秘書課広報室( http://muranoserena.blog91.fc2.com/ )というブログで、当該ブログの管理人である村野瀬さんが、1月3日のエントリー「一方的派遣切りを正当化する論の特徴」で冷静に、論理的に反論されているので、一読をお勧めする。

私としては、一番気に掛かった2の記事を批判したいと思う。~以下、2の記事への批判~

「どことなく「悩ましさ」がつきまとってしまう。

 年末から大きく伝えられている「年越し派遣村」のことである。報道によれば「(厚生労働省は)廃校になった中央区の小学校体育館など都内4施設の利用を提示(毎日jp 1月4日) 」し「当面12日までで、食事も都などが手配(同)」するという。

 たしかに「それはそれでよし」なのかもしれない。

 そうはいっても、素朴に「12日以降はどうするの?」と考えてしまう。さらに「ほかの失業した人たちは?困っている人たちは?」の思いも残る。しかも「派遣村」というネーミングには抵抗感めいたものがぬぐいきれない。」



→曖昧で、感覚的な表現のオンパレードである。「どことなく」「なのかもしれない。」「抵抗感めいたもの」。自分の考えをまとめてから公表してもらいたい。

また、「12日以降はどうするの?」「ほかの失業した人たちは?困っている人たちは?」ともある。

それでは、この記事の筆者は、12日以降も責任を持てなければ最初から支援などするなと言うのであろうか。すべての失業者を救う義務がボランティア・有志にあるとでも言うのであろうか。「困っている」とは具体的にはどういう状態を指すのか。さっぱり理解できない。



「つきつめていくと「これってアリ?」という疑問が大きくなってしまう。」



→何をどう突き詰めたのかさっぱりわからない。



「だからといって「炊き出し」や「宿泊場所」提供を否定しているわけではない。仕事を失い、住む場所もない人たちに「手をさしのべよう」とするのは、自然な発想である。もし、街頭で支援を呼びかけられたら、それなりに応じる気持ちもないわけではない。」



→同じことの繰り返しになってしまうが、この記事の筆者は、肯定したいのか否定したいのか、論旨が定まらない。

応じる気持ちがないならないで「ない」と言い、あるならあるで「ある」と言ってもらいたい。「ないわけではない」とは結局どうしたいのか。



「また、パフォーマンス大好きの麻生さんが一度も足を運ぶことなく、「安心 活力」なんて書初めを披露している姿を見て、失礼ながら「なぁに考えてるんだかぁ」となる効果を、「年越し派遣村」はもたらしたような気もする。」



→また「ような気もする」である。自分の気持ちを整理してから記事にしてもらいたい。



「それでも「これってアリ?」と「悩ましさ」はなくならない。」



→直前に「年越し派遣村」の存在を肯定するかのような記述をしながら、また悩んでしまう。記事を公表する前に悩みを整理しておいてくれ。(これが、日経BPnetで公表される記事でなければ、ここまでは言わない。単なる一個人が運営しているブログではなく、相当数の人が見る、それなりのメディアに載る記事だからここまで言っている。)



「考えてみれば、そもそも年末年始の「炊き出し」や「宿泊場所」提供は各地で取りくまれている(「年末年始」と「炊き出し」で検索してみてください)。地域のボランティア主催のものから労働組合や行政など、立場に違いがあっても、困っている人たちに「手をさしのべよう」という発想は変わらない。

 にもかわらず、「派遣村」だけが注目を集め、「用意したテントが足りなくなった(YOMIURI ONLINE 1月3日) 」から「厚労省の講堂」そして「東京都が用意した体育館」というのには、どうしても「これってアリ?」になってしまう。

 もちろん反対はしない。それによってに500人前後の人たちが暖かく眠れたのだから、それなりの意義があったのは事実である。」



→「派遣村」だけが注目を集め、「用意したテントが足りなくなった」から「厚労省の講堂」そして「東京都が用意した体育館」というのには、どうしても「これってアリ?」になってしまうと疑問を投げかけた直後に、「もちろん反対はしない。それによってに500人前後の人たちが暖かく眠れたのだから、それなりの意義があったのは事実である」と言ってしまう。支離滅裂である。



「でも、多くの「炊き出し」や「宿泊場所」提供が、さまざまな制約のなかで「できる範囲で」努力しているのと比べると、やはり「悩ましさ」が残ってしまう。けっして役人の味方をするわけではないが、体育館の確保にしても電話一本でできるわけではないし、暖房を入れるにも、それなりの予算措置も必要だろう。」



→そしてまた直後に「でも」である。この記事の筆者は何がしたいのだろう。



「たしかに、政府や役人は、あまりにも無策すぎる。しかし「想定より集まったので、体育館提供して」では、「手をさしのべよう」の範疇ではなくなってしまう。そこに「これってアリ?」と「悩ましさ」がある。」



→政府や役人があまりにも無策であることは、この記事の筆者も認めている。その無策な政府や役人に策を授けてやることに何の問題があるのかわからない。



「もっとも、震災や台風などの自然災害に対する「炊き出し」や「テント村」には、「体育館や講堂も」となる。自然災害の被災者に対する手厚い援助には「これってアリ?」にはならないし、まして「備えがないからだ」とか「自分でなんとかしろ」と思うのは、ごく限られた少数だろう。

 ところが、派遣労働者とすると、どこかが違う。「非正規労働者救済の低利融資と住宅提供」についてYahoo!ニュースのネットアンケート結果 をみても、割り引いて考えるとしても、ほぼ過半数以上が「まったくよくない」「あまりよくない」となっている。推測すれば、「年越し派遣村」への「無条件で支持」は、圧倒的多数ではないような気もしないでもない。」



→自然災害の被災者と派遣切りにあった派遣労働者のどこがどう違うのか明確に述べてもらいたい。「どこかが違う」では伝わらない。

また、ネット上のアンケートは同一人が複数回回答することが可能なので、信用するのは危険である。

そしてまた「圧倒的多数ではないような気もしないでもない」である。はっきり言おうよ!



「それを「弱者きりすて」とか「思いやりのない」とする論調は、あまりにも単純で間違いだろう。困っている人たちに「手をさしのべよう」とする考え方には、誰もが反対はしない。個人的にも「なにもできないからカンパくらい」となる。

 しかし「悩ましさ」がつきまとうのは、どこか「納得」できないからだ。「派遣村」とされただけで、「なぜ派遣なの?」「ほかの方法はないの?」と、数多くの「?マーク」がつくから、「せめてカンパ」と思っても、なかなか手が動かない。」



→「派遣村」に対する批判をしたいのか、それを伝えるメディアの批判をしたいのか区別がつかない。もっと整理して書いた方がいい。批判がしづらい。(批判されないように敢えてまぜこぜに書いているのか。)

「なぜ派遣なの?」と問われれば、首切りの一番のターゲットになっているからだと答えたい。「ほかの方法はないの?」と問われれば、不存在の証明は出来ないので、あるだろうとしか言えない。他の方法があることは、現に行われている方法を否定する根拠にはならない。

カンパは強制ではないので、したくなければしなければいい。



「その大きな原因は、派遣労働者に「同情を強いる」過剰報道だろう。

いわゆる「派遣切り」報道にはじまり、テレビや新聞では「気の毒、タイヘン」を繰りかえしている。」



→この記事の筆者は、この記事を「派遣村」批判かメディア批判に分けた方が良かった。まぜこぜになっているので、ただでさえわかりづらい文章が余計にわかりづらくなっている。



「しかも「ここまで個人情報を」と思うくらい、具体的で個別の事情まで踏みこむ映像や記事も目につく。」



→個人情報については、本人が同意しているのならば問題ない。本人の同意の有無はメディアに確認してもらいたい。



「あえて意地悪にいうが、下請けのプロダクションが撮ってきた映像を、暖房が効いた部屋で編集しているテレビ局関係者には、「気の毒、タイヘン」こそ「おいしいネタ」なのだろう。それに刺激され、新聞社では編集長が「もっと悲惨な例を探してこい」と記者に檄をとばしているかもしれない。」



→そういうこともあるかもしれない。メディア批判はメディア批判としてやってもらえば結構である。



「しかし、自然災害ならば地域も限定された災害だが、不況は派遣労働者だけでなく誰もが影響を受ける長期の災害(?)である。つまり、テレビ局関係者の「おいしいネタ」は「明日は我が身」の不安をかきたて、「備え」や「自己防衛」に向かわせる結果しか残さない。」



→そんなことはない。労働法制の在り方、決算公表タームも含めた資本市場の在り方、セーフティネットの在り方等、様々な議論を呼び起こす。そしてそれらの議論は、今後の我が国社会のあるべき姿を考えるうえで、必要不可欠であり、また、有益である。

この記事の筆者は視野が狭すぎる。



「そこに「派遣村」である。誤解を恐れずいうが「なぜ、派遣だけ」という声も、厳然としてある。地域の自営業が集まった忘年会で(盛りあがりませんでした)、「派遣の人はいいよね、助けてくれるもの」という声があがった。さすがに、皆さんオトナなので「そうはいっても、食べて寝れるから、まだ恵まれてるよね」で終わったが、「緊急融資」を申し込んでも2~3カ月待たされる中小零細企業のホンネに近いだろう。」



→「厳然と」などと大袈裟な言い方をしなくても、「なぜ、派遣だけ」という声があることはわかっている。そのような声にはこう答えたい。「派遣村と銘打ってやっているが、派遣切りにあった人だけを受け入れているわけではない。それは、派遣村にやってくる人達の身元調査をしてから受け入れているわけではないことから明らかである。仕事が無い・住居がない・お金が無いという人達を広く受け入れている。自営業の人がホームレスになったとしても、「派遣村」は受け入れる。「お宅は自営業者だった人間だから帰れ。」などと無慈悲なことは言わない。そんな無慈悲なことを言う人間は、寒風吹きすさぶ年末年始に無償で炊き出しなどしない。」と。


「派遣村」というネーミングにこだわるこの記事の筆者の言い分は、私にはイチャモンにしか聞こえない。



私も個人事業をしていたので中小零細企業の人達の気持ちはわかる。私も個人事業主だった頃は、サラリーマンは有給休暇があっていいなと思ったし、県の制度融資を受けたこともあるので、中小零細企業の融資にどれだけの手間隙がかかるかもわかる。

しかしそれでも、派遣切りにあった人達を見捨てておけばいいとは思わない。



「派遣の人はいいよね、助けてくれるもの」と本気で思うのなら、事業をたたんで派遣社員になったらいい。

オトナなら、職を失った人に対して嫌味ったらしいことを言うな。



「なにも中小零細企業だけではない。DINAMOND onlieのアンケート でも「失業不安あり」が70%にも及んでいる。別に煽るわけではないが、まさに「明日は我が身」であり、だから「備え」や「自己防衛」が気になってしまう。

 困っている人たちに「手をさしのべよう」とする思いは誰にも共通している。とはいっても、ことさら「派遣村」とされると、「備えは?自己防衛は?」という素朴な疑問を納得させるのは「悩ましい」。」



→備え・自己防衛ということについて言えば、自助・共助・公助のバランスをどう考えるかによって、おのおの結論が変わってくることと思うが、私には「派遣村」を批判する人達には、自助を過度に強調している傾向があるように見える。

現下の状況は、自助の精神で解決できるような甘い状況ではないように私には思える。



「感情を排していえば「派遣は雇用の調整弁」である。いまになって「問題あり」と大騒ぎしているが、派遣法の改正当時、激しい反対運動が起きたり、国会で強行採決されたりした記憶はない(あくまでも記憶で厳密に調べていません)。それよりも「多様な雇用」とか「自由な働き方」とプラス面が強調された印象がある。」



→もっと言うと、派遣は人間を部品・資材と同等に扱う人身売買である。こんなものは即刻全面的に廃止したらいい。

派遣法の改正当時の状況は、この記事の筆者が言うようなものであった。(政党として反対したのは、共産党だけ。反対運動を展開したのも全労連くらい。)

しかし、それがなんだと言うのだろう。今、現実に問題が起きているのであれば、1999年当時の状況云々ではなく、現状を改善させればいいではないか。過ちを改めるに憚る事勿れ、である。



「同時に「国際競争力の向上」や「終身雇用の終焉」も謳われていた。人件費の重荷をなくし、設備投資や開発競争に重点を置く経営が、賞賛されていた時代でもある。」



→それが、現時点では誤り若しくは問題が多いと批判されている。



「それが不況となって「調整弁」を機能させると、マスコミから一斉に「派遣切り」の集中砲火である。なにも企業を弁護するつもりはないが、「そんなこといわれても」となるのも理解できなくはない。」



→メディア批判はメディア批判としてやってもらうとして、私としては、「過ちを改めるに憚る事勿れ」と繰り返したい。



「まして「株主に配当しているのに」とか「内部留保があるのに」の非難である。経営者としては「だったら、配当や設備投資や開発もしないまま、雇用を守るだけが企業の勤めか」と反論もしたくなるだろう(バランスの問題はありますが)。個人的には「雇用を守って、ひっそりと」という企業も悪くはないと思うが、市場原理が競争である限り、経営者としては失格の発想に違いない。」



→本人も言っている通り、バランスの問題である。配当を1年か2年見合わせる、内部留保をいくらか取り崩すという経営判断はあってもいい。

市場原理だけでは社会が立ち行かなくなることは、リーマンショック以降の世界が雄弁に物語っている。



「しかも忘れてならないのは、「調整弁」である派遣を「自由な働き方」として受け入れた事実である。定かな記憶ではないが、「一生ひとつの会社にしばられるより」とか「好きなときに好きな仕事」のような論調が蔓延していたような印象が残っている。」



→この記事の筆者の特徴なのだが、確たる根拠は持たずに印象だけで物を書く。よくこんな文章が日経BPnetに載るな、というのが率直な感想である。



「あえて冷酷にいえば、「自由」で「好きなときに」と引き換えに、「調整弁」というリスクを負わされているのが派遣なのだ。

 しかも、その「自由」で「好きなときに」さえも、人件費抑制の時代的な風潮と、一部のコズルイ経営者による収奪につぐ収奪で危うい。いまや「自由」のリスクは重く大きいものになっている。

 

 だからといって、派遣としての生きかたを否定しない。きわめて重く大きいリスクへの覚悟さえあれば、それも立派な職業選択だろう。」



→要するに、、自分で派遣を選んだのだから自分で責任を負え、と言いたいのだろう。

確かに、自分で派遣という雇用形態を選んだのならば、自分で責任を負ってもらうのもいいだろう。

であれば、派遣先企業に、労働者が就労する前に自由に正社員と派遣社員のどちらかを選べるるよう、法律で(当然重い罰則付きで)義務付けてもらいたい。

派遣社員が「自分で」「自由に」派遣形態を選んだわけではないことがすぐに証明されるだろう。



「その意味で、マスコミの「派遣切り」非難や「気の毒、タイヘン」は納得できない。さらに「派遣村」という発想も「これってアリ?」になってしまう。」



→前提が間違っている。



「たしかに「雇用の調整弁」であるからには、まっさきにシワ寄せが集中している。しかし、そのリスクを覚悟したうえで「自由」を選択した「誇り高き」派遣ならば「派遣を選んだからには、その覚悟はしている」となるだろう(ちょっと理屈こねてます)。」



→労働者に正社員になるか派遣社員になるかの選択肢が与えられていると本気で思っているのだろうか。思っているとすれば、かなりおめでたい。



「もちろん、「誇り高き」派遣は極少数で、「なんとなく派遣」「これしかない派遣」が多いのかもしれない。また、「自分で選んだのだから」と切りすてるのは、あくまでも反対である。「手をさしのべよう」とする困っている人たちには制限などない。」



→またまた「かもしれない」である。そしてまたまた賛成なんだか、反対なんだかわからない。こうなるともう付ける薬が無い。書くのをやめたら、と思う。



「しかし、派遣が必然的に持っている「危うさ」を見落として、ひたすら悲劇の主人公にしてしまうのには、かなりの抵抗が残ってしまう。」



→それはメディア批判としてやってもらいたい。



「とはいえ「動機は不純でもいい」という言葉もあるし(この言葉好きです)、仕事を失い住む場所もない人たちに、食事と暖かい寝床をもたらしたのは事実である。また、数多くのボランティアが参加し、カンパも集まったという。困っている人たちに「手をさしのべよう」の結果としては成功だろう。」



→ここでまた肯定である。この人はどうしたいのだろう。



「しかし、2日か3日のニュースで「厚労省の講堂を開放」と報告しているリーダーらしき方を見ていて、「これでいいのかなぁ?」と心配になってしまった。案の定とはいわないが、「厚労省の講堂」の次は「東京都が用意した体育館」である。

 たしかに、食事と寝床という意義はあっただろう。また、政治家としての資質を疑うような発言まで飛びだし(参照 派遣村:「本当に働こうとしている人か」と坂本総務政務官 毎日jp 1月5日 :取り消したようですが)、政府や閣僚の鈍感ささえ浮き彫りにしてしまった。」



→意義があったのならいいではないか。何を言いたいのか。



「しかし、どうして「派遣村」で「厚労省の講堂」なのか、正直なところ疑問が残ったままである。細かいことにこだわるわけではないが、実際には派遣以外の人たちも受け入れたらしいので、それなら「困っている人たち向け」としてもいいし、厚労省と交渉する前に「テント求めます」とマスコミを通して募る方法もあっただろう。」



→労働法制が厚生労働省の所管だから。



「そこには、取りくんだ方々には申し訳ないが、派遣や厚労省との交渉にこだわる「政治的な意図」があったのでは――そう誤解されても仕方がないような気がする。」



→政治的意思は当然ある。なぜなら、ボランティア・有志で全ての職を失った人・住む所を失った人・お金のない人を救うことはできないし、それは政治・行政がやるべきことだから。それを求めるのは当然。

誤解じゃなくて、記事の筆者の理解が足りない。



「個人的には「政治的な意図」もアリだとは思う。しかし、「炊き出し」や「宿泊場所」提供の原点は、「手をさしのべよう」という善意である。ただ、善意は無限としても、その実行には限界がある。だから、「できる範囲で」をひろげる共感と支援が持つ意味は大きい。」



→だから、広げようと努力してるじゃない。



「けっして、交渉して場所を獲得するのを批判するわけではない。しかし、「炊き出し」や「宿泊場所」提供と場所の獲得は意味的に異なる。「手をさしのべる」ことに共感しても、場所の獲得には「そこまでは」という意見もあるかもしれない。」



→意味的に異なることはない。同一線上にある。そしてまたまたまた「かもしれない」である。はっきり言うのは批判されそうで怖いの?



「しかも、不況が直撃しているのは派遣だけではない。失業の不安を持つ多くの人たちもいれば、明日の運転資金に悩む中小零細企業の人たちもいる。それでも、仕事を失い、住む場所もない人たちへ「(自分たちは)まだ恵まれている」と、「手をさしのべる」ことに共感した人たちがいたことを忘れてはならないだろう。」



→「しかも」でつながる文章か?結局何を言いたい?



「あえていうが、「従業員の給与を払った後はなにも残らない自営業者」も「給与カットされたり、リストラされかけている正社員」も困っている人たちなのだ。「派遣村」とすると「とにかく派遣だけを」と勘違いされかねない。」



→村のネーミングにそこまでこだわる理由がさっぱりわからない。何か適当な名前でも付けてくれよ、そんなに気に入らないなら。勘違いしているのはお宅ぐらいだよ。

「あえていうが」って言うほどたいしたこと言ってないから。



「政府に「セフティネットの実現」や「宿泊場所」を要求するのと、困っている人たちに「手をさしのべよう」の「炊き出し」や「宿泊場所」提供は、あきらかに違う。」



→認識が完全に間違ってる。すべて同一線上にある。



「なんといっても、「手をさしのべよう」への幅広い純粋な共感と支援が欠かせない。それを忘れては、誤解による非難を呼ぶ心配もある。そうならないためにも、成果だけでなく、幅広い共感と支援という視点で、客観的に「年越し派遣村」を考える必要がある。」



→「年越し派遣村」を考える前に、自分の思考回路・文章能力を客観的に考えた方がい

派遣切りを巡るあれこれーご参考

2009年01月11日 | Weblog
2009年01月10日 21時17分記載

URL http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090106/122485/?P=1



記事タイトル:これでよかったのか「年越し派遣村」



つきつめると「これってアリ?」と「悩ましさ」がぬぐえない
 どことなく「悩ましさ」がつきまとってしまう。

 年末から大きく伝えられている「年越し派遣村」のことである。報道によれば「(厚生労働省は)廃校になった中央区の小学校体育館など都内4施設の利用を提示(毎日jp 1月4日) 」し「当面12日までで、食事も都などが手配(同)」するという。

 たしかに「それはそれでよし」なのかもしれない。

 そうはいっても、素朴に「12日以降はどうするの?」と考えてしまう。さらに「ほかの失業した人たちは?困っている人たちは?」の思いも残る。しかも「派遣村」というネーミングには抵抗感めいたものがぬぐいきれない。

 つきつめていくと「これってアリ?」という疑問が大きくなってしまう。

 だからといって「炊き出し」や「宿泊場所」提供を否定しているわけではない。仕事を失い、住む場所もない人たちに「手をさしのべよう」とするのは、自然な発想である。もし、街頭で支援を呼びかけられたら、それなりに応じる気持ちもないわけではない。

 また、パフォーマンス大好きの麻生さんが一度も足を運ぶことなく、「安心 活力」なんて書初めを披露している姿を見て、失礼ながら「なぁに考えてるんだかぁ」となる効果を、「年越し派遣村」はもたらしたような気もする。

 それでも「これってアリ?」と「悩ましさ」はなくならない。



考えてみれば、そもそも年末年始の「炊き出し」や「宿泊場所」提供は各地で取りくまれている(「年末年始」と「炊き出し」で検索してみてください)。地域のボランティア主催のものから労働組合や行政など、立場に違いがあっても、困っている人たちに「手をさしのべよう」という発想は変わらない。

 にもかわらず、「派遣村」だけが注目を集め、「用意したテントが足りなくなった(YOMIURI ONLINE 1月3日) 」から「厚労省の講堂」そして「東京都が用意した体育館」というのには、どうしても「これってアリ?」になってしまう。

 もちろん反対はしない。それによってに500人前後の人たちが暖かく眠れたのだから、それなりの意義があったのは事実である。

 でも、多くの「炊き出し」や「宿泊場所」提供が、さまざまな制約のなかで「できる範囲で」努力しているのと比べると、やはり「悩ましさ」が残ってしまう。けっして役人の味方をするわけではないが、体育館の確保にしても電話一本でできるわけではないし、暖房を入れるにも、それなりの予算措置も必要だろう。

 たしかに、政府や役人は、あまりにも無策すぎる。しかし「想定より集まったので、体育館提供して」では、「手をさしのべよう」の範疇ではなくなってしまう。そこに「これってアリ?」と「悩ましさ」がある。

どこか「納得」できない「派遣村」というネーミング
 もっとも、震災や台風などの自然災害に対する「炊き出し」や「テント村」には、「体育館や講堂も」となる。自然災害の被災者に対する手厚い援助には「これってアリ?」にはならないし、まして「備えがないからだ」とか「自分でなんとかしろ」と思うのは、ごく限られた少数だろう。



ところが、派遣労働者とすると、どこかが違う。「非正規労働者救済の低利融資と住宅提供」についてYahoo!ニュースのネットアンケート結果 をみても、割り引いて考えるとしても、ほぼ過半数以上が「まったくよくない」「あまりよくない」となっている。推測すれば、「年越し派遣村」への「無条件で支持」は、圧倒的多数ではないような気もしないでもない。

 それを「弱者きりすて」とか「思いやりのない」とする論調は、あまりにも単純で間違いだろう。困っている人たちに「手をさしのべよう」とする考え方には、誰もが反対はしない。個人的にも「なにもできないからカンパくらい」となる。

 しかし「悩ましさ」がつきまとうのは、どこか「納得」できないからだ。「派遣村」とされただけで、「なぜ派遣なの?」「ほかの方法はないの?」と、数多くの「?マーク」がつくから、「せめてカンパ」と思っても、なかなか手が動かない。

 その大きな原因は、派遣労働者に「同情を強いる」過剰報道だろう。

 いわゆる「派遣切り」報道にはじまり、テレビや新聞では「気の毒、タイヘン」を繰りかえしている。しかも「ここまで個人情報を」と思うくらい、具体的で個別の事情まで踏みこむ映像や記事も目につく。

 あえて意地悪にいうが、下請けのプロダクションが撮ってきた映像を、暖房が効いた部屋で編集しているテレビ局関係者には、「気の毒、タイヘン」こそ「おいしいネタ」なのだろう。それに刺激され、新聞社では編集長が「もっと悲惨な例を探してこい」と記者に檄をとばしているかもしれない。

 しかし、自然災害ならば地域も限定された災害だが、不況は派遣労働者だけでなく誰もが影響を受ける長期の災害(?)である。つまり、テレビ局関係者の「おいしいネタ」は「明日は我が身」の不安をかきたて、「備え」や「自己防衛」に向かわせる結果しか残さない。

 そこに「派遣村」である。誤解を恐れずいうが「なぜ、派遣だけ」という声も、厳然としてある。地域の自営業が集まった忘年会で(盛りあがりませんでした)、「派遣の人はいいよね、助けてくれるもの」という声があがった。さすがに、皆さんオトナなので「そうはいっても、食べて寝れるから、まだ恵まれてるよね」で終わったが、「緊急融資」を申し込んでも2~3カ月待たされる中小零細企業のホンネに近いだろう。



なにも中小零細企業だけではない。DINAMOND onlieのアンケート でも「失業不安あり」が70%にも及んでいる。別に煽るわけではないが、まさに「明日は我が身」であり、だから「備え」や「自己防衛」が気になってしまう。

 困っている人たちに「手をさしのべよう」とする思いは誰にも共通している。とはいっても、ことさら「派遣村」とされると、「備えは?自己防衛は?」という素朴な疑問を納得させるのは「悩ましい」。

派遣はリスクのある「自由」の選択だったはず
 感情を排していえば「派遣は雇用の調整弁」である。いまになって「問題あり」と大騒ぎしているが、派遣法の改正当時、激しい反対運動が起きたり、国会で強行採決されたりした記憶はない(あくまでも記憶で厳密に調べていません)。それよりも「多様な雇用」とか「自由な働き方」とプラス面が強調された印象がある。

 同時に「国際競争力の向上」や「終身雇用の終焉」も謳われていた。人件費の重荷をなくし、設備投資や開発競争に重点を置く経営が、賞賛されていた時代でもある。

 それが不況となって「調整弁」を機能させると、マスコミから一斉に「派遣切り」の集中砲火である。なにも企業を弁護するつもりはないが、「そんなこといわれても」となるのも理解できなくはない。

 まして「株主に配当しているのに」とか「内部留保があるのに」の非難である。経営者としては「だったら、配当や設備投資や開発もしないまま、雇用を守るだけが企業の勤めか」と反論もしたくなるだろう(バランスの問題はありますが)。個人的には「雇用を守って、ひっそりと」という企業も悪くはないと思うが、市場原理が競争である限り、経営者としては失格の発想に違いない。



しかも忘れてならないのは、「調整弁」である派遣を「自由な働き方」として受け入れた事実である。定かな記憶ではないが、「一生ひとつの会社にしばられるより」とか「好きなときに好きな仕事」のような論調が蔓延していたような印象が残っている。

 あえて冷酷にいえば、「自由」で「好きなときに」と引き換えに、「調整弁」というリスクを負わされているのが派遣なのだ。

 しかも、その「自由」で「好きなときに」さえも、人件費抑制の時代的な風潮と、一部のコズルイ経営者による収奪につぐ収奪で危うい。いまや「自由」のリスクは重く大きいものになっている。

 だからといって、派遣としての生きかたを否定しない。きわめて重く大きいリスクへの覚悟さえあれば、それも立派な職業選択だろう。

 その意味で、マスコミの「派遣切り」非難や「気の毒、タイヘン」は納得できない。さらに「派遣村」という発想も「これってアリ?」になってしまう。

 たしかに「雇用の調整弁」であるからには、まっさきにシワ寄せが集中している。しかし、そのリスクを覚悟したうえで「自由」を選択した「誇り高き」派遣ならば「派遣を選んだからには、その覚悟はしている」となるだろう(ちょっと理屈こねてます)。

 もちろん、「誇り高き」派遣は極少数で、「なんとなく派遣」「これしかない派遣」が多いのかもしれない。また、「自分で選んだのだから」と切りすてるのは、あくまでも反対である。「手をさしのべよう」とする困っている人たちには制限などない。

 しかし、派遣が必然的に持っている「危うさ」を見落として、ひたすら悲劇の主人公にしてしまうのには、かなりの抵抗が残ってしまう。



客観的に困っている人たちに「手をさしのべよう」の原点を
 とはいえ「動機は不純でもいい」という言葉もあるし(この言葉好きです)、仕事を失い住む場所もない人たちに、食事と暖かい寝床をもたらしたのは事実である。また、数多くのボランティアが参加し、カンパも集まったという。困っている人たちに「手をさしのべよう」の結果としては成功だろう。

 しかし、2日か3日のニュースで「厚労省の講堂を開放」と報告しているリーダーらしき方を見ていて、「これでいいのかなぁ?」と心配になってしまった。案の定とはいわないが、「厚労省の講堂」の次は「東京都が用意した体育館」である。

 たしかに、食事と寝床という意義はあっただろう。また、政治家としての資質を疑うような発言まで飛びだし(参照 派遣村:「本当に働こうとしている人か」と坂本総務政務官 毎日jp 1月5日 :取り消したようですが)、政府や閣僚の鈍感ささえ浮き彫りにしてしまった。

 しかし、どうして「派遣村」で「厚労省の講堂」なのか、正直なところ疑問が残ったままである。細かいことにこだわるわけではないが、実際には派遣以外の人たちも受け入れたらしいので、それなら「困っている人たち向け」としてもいいし、厚労省と交渉する前に「テント求めます」とマスコミを通して募る方法もあっただろう。

 そこには、取りくんだ方々には申し訳ないが、派遣や厚労省との交渉にこだわる「政治的な意図」があったのでは――そう誤解されても仕方がないような気がする。

 個人的には「政治的な意図」もアリだとは思う。しかし、「炊き出し」や「宿泊場所」提供の原点は、「手をさしのべよう」という善意である。ただ、善意は無限としても、その実行には限界がある。だから、「できる範囲で」をひろげる共感と支援が持つ意味は大きい。

 けっして、交渉して場所を獲得するのを批判するわけではない。しかし、「炊き出し」や「宿泊場所」提供と場所の獲得は意味的に異なる。「手をさしのべる」ことに共感しても、場所の獲得には「そこまでは」という意見もあるかもしれない。



しかも、不況が直撃しているのは派遣だけではない。失業の不安を持つ多くの人たちもいれば、明日の運転資金に悩む中小零細企業の人たちもいる。それでも、仕事を失い、住む場所もない人たちへ「(自分たちは)まだ恵まれている」と、「手をさしのべる」ことに共感した人たちがいたことを忘れてはならないだろう。

 あえていうが、「従業員の給与を払った後はなにも残らない自営業者」も「給与カットされたり、リストラされかけている正社員」も困っている人たちなのだ。「派遣村」とすると「とにかく派遣だけを」と勘違いされかねない。

 政府に「セフティネットの実現」や「宿泊場所」を要求するのと、困っている人たちに「手をさしのべよう」の「炊き出し」や「宿泊場所」提供は、あきらかに違う。

 なんといっても、「手をさしのべよう」への幅広い純粋な共感と支援が欠かせない。それを忘れては、誤解による非難を呼ぶ心配もある。そうならないためにも、成果だけでなく、幅広い共感と支援という視点で、客観的に「年越し派遣村」を考える必要がある。」



早川 玄+X(エックス)
世田谷区・目黒区で、NPO法人や勉強会などの現場で、子どもに関わる活動をつづけるそれぞれのX(エックス)と、「帰ってきた顰蹙の魔王」のペンネームでコラムを連載中の早川玄の協同執筆。