がん(骨肉腫)闘病記

抗がん剤治療、放射線治療、人工関節置換手術、MRSA感染、身体障害者となっての生活の記録を残します。

本日のテレビ朝日-サンデープロジェクト

2009年04月19日 | Weblog
2009年04月19日 12時23分記載

以下は番組HP(URL http://www.tv-asahi.co.jp/sunpro/ )より。

「痴漢容疑で最高裁が異例の逆転無罪判決!



3年間の冤罪が晴れた大学教授の心中は?



2年前、周防正行監督が痴漢冤罪をテーマにした映画
「それでもボクはやっていない」が、話題になった
映画の結論は、「有罪」だったが、
「それでもボクはやっていない」を上回る判決が
14日、最高裁で言い渡された

電車内で、女子高生に痴漢をした罪に問われた
防衛医科大教授に対する無罪判決だ
裁判では、1審2審とも1年10月の実刑判決が言い渡された
ところが最高裁は、痴漢事件としては初めて弁論法廷を開き
1・2審を覆す逆転無罪の判決を出した

この事件の構図は、被害者の証言だけで、他に証拠がないと
いう部分で、特別なものではなく、多くの痴漢事件と同じだ
ようやく無罪となった当のご本人は、「これで有頂天になる気分でない」
「ヤミの部分で泣いている人や家族が多くいる」と、「痴漢冤罪」は、まだあることを訴えている

大学教授から一転、被告人として濡れ衣を3年間も着させられた
教授を支えたものは何だったのか?
何故、わざわざ最高裁法廷が開かれ、新たな証拠が見つかったわけでもないのに
有罪から無罪に判断が変わったのか?
       
映画「それでもボクはやっていない」のモデルのひとりで
元裁判官でもある主任弁護人の秋山賢三さんと
無罪となった防衛医科大教授の名倉正博さんに
田原総一朗が聞く!



<<出演>>

名倉正博(防衛医科大教授)

秋山賢三(弁護士)」



現在の最高裁の構成は、



第一小法廷-・涌井紀夫(裁判官)・金築誠志(裁判官)・甲斐中辰夫(検察官出身)・桜井龍子(行政官出身)・宮川光治(弁護士出身)



第二小法廷-竹崎博允(裁判官・長官)・今井功(裁判官)・古田佑紀(検察官出身)・竹内行夫(外交官出身)・中川了滋(弁護士)



第三小法廷-堀籠幸男(裁判官)・近藤崇晴(裁判官)・藤田宙靖(学者出身)・那須弘平(弁護士)・田原睦夫(弁護士)



冒頭の逆転無罪判決を下したのは第三小法廷。個人的には、第三小法廷でなかったら有罪判決が下されていたと思う。名倉さんにとっては、第三小法廷での審理となったことが命拾いになったと思う。



本記事では、当該逆転無罪判決(参照URL http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20090414170745.pdf )における那須裁判官及び近藤裁判官の補足意見を掲載しておく。刑事裁判をどう考えるべきか、勉強になる意見である。



「裁判官那須弘平の補足意見は,次のとおりである。

1 冤罪で国民を処罰するのは国家による人権侵害の最たるものであり,これを防止することは刑事裁判における最重要課題の一つである。刑事裁判の鉄則ともいわれる「疑わしきは被告人の利益に」の原則も,有罪判断に必要とされる「合理的な疑いを超えた証明」の基準の理論も,突き詰めれば冤罪防止のためのものであると考えられる。


本件では,公訴事実に当たる痴漢犯罪をめぐり,被害を受けたとされる女性(以下「A」という。)が被告人を犯人であると指摘するもののこれを補強する客観的証拠がないに等しく,他方で被告人が冤罪を主張するもののやはりこれを補強する客観的証拠に乏しいという証拠状況の下で,1審及び原審の裁判官は有罪・無罪の選択を迫られ,当審でも裁判官の意見が二つに分かれている。意見が分かれる原因を探ると,結局は「合理的な疑いを超えた証明」の原理を具体的にどのように適用するかについての考え方の違いに行き着くように思われる。そこで,この際,この点について私の考え方を明らかにして,多数意見が支持されるべき理由を補足しておきたい。


2 痴漢事件について冤罪が争われている場合に,被害者とされる女性の公判での供述内容について「詳細かつ具体的」,「迫真的」,「不自然・不合理な点がない」などという一般的・抽象的な理由により信用性を肯定して有罪の根拠とする例は,公表された痴漢事件関係判決例をみただけでも少なくなく,非公表のものを含めれば相当数に上ることが推測できる。しかし,被害者女性の供述がそのようなものであっても,他にその供述を補強する証拠がない場合について有罪の判断をすることは,「合理的な疑いを超えた証明」に関する基準の理論との関係で,慎重な検討が必要であると考える。その理由は以下のとおりである。

ア混雑する電車内での痴漢事件の犯行は,比較的短時間のうちに行われ,行為の態様も被害者の身体の一部に手で触る等という単純かつ類型的なものであり,犯行の動機も刹那的かつ単純なもので,被害者からみて被害を受ける原因らしいものはこれといってないという点で共通している。被害者と加害者とは見ず知らずの間柄でたまたま車内で近接した場所に乗り合わせただけの関係で,犯行の間は車内での場所的移動もなくほぼ同一の姿勢を保ったまま推移する場合がほとんどである。このように,混雑した電車の中での痴漢とされる犯罪行為は,時間的にも空間的にもまた当事者間の人的関係という点から見ても,単純かつ類型的な態様のものが多く,犯行の痕跡も(加害者の指先に付着した繊維や体液等を除いては)残らないため,「触ったか否か」という単純な事実が争われる点に特徴がある。このため,普通の能力を有する者(例えば十代後半の女性等)がその気になれば,その内容が真実である場合と,虚偽,錯覚ないし誇張等を含む場合であるとにかかわらず,法廷において「具体的で詳細」な体裁を具えた供述をすることはさほど困難でもない。
その反面,弁護人が反対尋問で供述の矛盾を突き虚偽を暴き出すことも,裁判官が「詳細かつ具体的」,「迫真的」あるいは「不自然・不合理な点がない」などという一般的・抽象的な指標を用いて供述の中から虚偽,錯覚ないし誇張の存否を嗅ぎ分けることも,けっして容易なことではない。本件のような類型の痴漢犯罪被害者の公判における供述には,元々,事実誤認を生じさせる要素が少なからず潜んでいるのである。


イ被害者が公判で供述する場合には,被害事実を立証するために検察官側の証人として出廷するのが一般的であり,検察官の要請により事前に面接して尋問の内容及び方法等について詳細な打ち合わせをすることは,広く行われている。痴漢犯罪について虚偽の被害申出をしたことが明らかになれば,刑事及び民事上の責任を
追及されることにもなるのであるから(刑法172条,軽犯罪法1条16号,民法709条),被害者とされる女性が公判で被害事実を自ら覆す供述をすることはない。検察官としても,被害者の供述が犯行の存在を証明し公判を維持するための頼りの綱であるから,捜査段階での供述調書等の資料に添った矛盾のない供述が得られるように被害者との入念な打ち合わせに努める。この検察官の打ち合わせ作業自体は,法令の規定(刑事訴訟規則191条の3)に添った当然のものであって,何ら非難されるべき事柄ではないが,反面で,このような作業が念入りに行われれば行われるほど,公判での供述は外見上「詳細かつ具体的」,「迫真的」で,「不自然・不合理な点がない」ものとなるのも自然の成り行きである。これを裏返して言えば,公判での被害者の供述がそのようなものであるからといって,それだけで被害者の主張が正しいと即断することには危険が伴い,そこに事実誤認の余地が生じることになる。


ウ満員電車内の痴漢事件については上記のような特別の事情があるのであるから,冤罪が真摯に争われている場合については,たとえ被害者女性の供述が「詳細かつ具体的」,「迫真的」で,弁護人の反対尋問を経てもなお「不自然・不合理な点がない」かのように見えるときであっても,供述を補強する証拠ないし間接事実の存否に特別な注意を払う必要がある。その上で,補強する証拠等が存在しないにもかかわらず裁判官が有罪の判断に踏み切るについては,「合理的な疑いを超えた証明」の視点から問題がないかどうか,格別に厳しい点検を欠かせない。


3 以上検討したところを踏まえてAの供述を見るに,1審及び原審の各判決が示すような「詳細かつ具体的」等の一般的・抽象的性質は具えているものの,これを超えて特別に信用性を強める方向の内容を含まず,他にこれといった補強する証拠等もないことから,上記2に挙げた事実誤認の危険が潜む典型的な被害者供述であると認められる。
これに加えて,本件では,判決理由第2の5に指摘するとおり被害者の供述の信用性に積極的に疑いをいれるべき事実が複数存在する。その疑いは単なる直感による「疑わしさ」の表明(「なんとなく変だ」「おかしい」)の域にとどまらず,論理的に筋の通った明確な言葉によって表示され,事実によって裏づけられたものでもある。Aの供述はその信用性において一定の疑いを生じる余地を残したものであり,被告人が有罪であることに対する「合理的な疑い」を生じさせるものであるといわざるを得ないのである。
したがって,本件では被告人が犯罪を犯していないとまでは断定できないが,逆に被告人を有罪とすることについても「合理的な疑い」が残るという,いわばグレーゾーンの証拠状況にあると判断せざるを得ない。その意味で,本件では未だ「合理的な疑いを超えた証明」がなされておらず,「疑わしきは被告人の利益に」の原則を適用して,無罪の判断をすべきであると考える。


4 堀籠裁判官及び田原裁判官の各反対意見の見解は,その理由とするところも含めて傾聴に値するものであり,一定の説得力ももっていると考える。しかしながら,これとは逆に,多数意見が本判決理由中で指摘し,当補足意見でやや詳しく記した理由により,Aの供述の信用性にはなお疑いをいれる余地があるとする見方も成り立ち得るのであって,こちらもそれなりに合理性をもつと評価されてよいと信じる。
合議体による裁判の評議においては,このように,意見が二つ又はそれ以上に分かれて調整がつかない事態も生じうるところであって,その相違は各裁判官の歩んできた人生体験の中で培ってきたものの見方,考え方,価値観に由来する部分が多いのであるから,これを解消することも容易ではない。そこで,問題はこの相違をどう結論に結びつけるかであるが,私は,個人の裁判官における有罪の心証形成の場合と同様に,「合理的な疑いを超えた証明」の基準(及び「疑わしきは被告人の利益に」の原則)に十分配慮する必要があり,少なくとも本件のように合議体における複数の裁判官がAの供述の信用性に疑いをもち,しかもその疑いが単なる直感や感想を超えて論理的に筋の通った明確な言葉によって表示されている場合には,有罪に必要な「合理的な疑いを超えた証明」はなおなされていないものとして処理されることが望ましいと考える(これは,「疑わしきは被告人の利益に」の原則にも適合する。)。
なお,当審における事実誤認の主張に関する審査につき,当審が法律審であることを原則としていることから「原判決の認定が論理則,経験則等に照らして不合理といえるかどうかの観点から行うべきである」とする基本的立場に立つことは,堀籠裁判官指摘のとおりである。しかし,少なくとも有罪判決を破棄自判して無罪とする場合については,冤罪防止の理念を実効あらしめるという観点から,文献等に例示される典型的な論理則や経験則に限ることなく,我々が社会生活の中で体得する広い意味での経験則ないし一般的なものの見方も「論理則,経験則等」に含まれると解するのが相当である。多数意見はこのような理解の上に立って,Aの供述の信用性を判断し,その上で「合理的な疑いを超えた証明」の基準に照らし,なお「合理的な疑いが残る」として無罪の判断を示しているのであるから,この点について上記基本的立場から見てもなんら問題がないことは明らかである。



裁判官近藤崇晴の補足意見は,次のとおりである。


私は,被告人を無罪とする多数意見に与するものであり,また,多数意見の立場を敷衍する那須裁判官の補足意見に共鳴するものであるが,なお若干の補足をしておきたい。


本件は,満員電車の中でのいわゆる痴漢事件であり,被害者とされる女性Aが被告人から強制わいせつの被害を受けた旨を具体的に供述しているのに対し,被告人は終始一貫して犯行を否認している。そして,被告人の犯人性については,他に目撃証人その他の有力な証拠が存在しない。すなわち,本件においては,「被害者」の供述と被告人の供述とがいわば水掛け論になっているのであり,それぞれの供述内容をその他の証拠関係に照らして十分に検討してみてもそれぞれに疑いが残り,結局真偽不明であると考えるほかないのであれば,公訴事実は証明されていないことになる。言い換えるならば,本件公訴事実が証明されているかどうかは,Aの供述が信用できるかどうかにすべてが係っていると言うことができる。このような場合,一般的に,被害者とされる女性の供述内容が虚偽である,あるいは,勘違いや記憶違いによるものであるとしても,これが真実に反すると断定することは著しく困難なのであるから,「被害者」の供述内容が「詳細かつ具体的」,「迫真的」で「不自然・不合理な点がない」といった表面的な理由だけで,その信用性をたやすく肯定することには大きな危険が伴う。この点,那須裁判官の補足意見が指摘するとおりである。また,「被害者」の供述するところはたやすくこれを信用し,被告人の供述するところは頭から疑ってかかるというようなことがないよう,厳に自戒する必要がある。


本件においては,多数意見が指摘するように,Aの供述には幾つかの疑問点があり,その反面,被告人にこの種の犯行(公訴事実のとおりであれば,痴漢の中でもかなり悪質な部類に属する。)を行う性向・性癖があることをうかがわせるような事情は記録上見当たらないのであって,これらの諸点を総合勘案するならば,Aの供述の信用性には合理的な疑いをいれる余地があるというべきである。

もちろん,これらの諸点によっても,Aの供述が真実に反するもので被告人は本件犯行を行っていないと断定できるわけではなく,ことの真偽は不明だということである。
上告裁判所は,事後審査によって,「判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認がある」(刑訴法411条3号)かどうかを判断するのであるが,言うまでもなく,そのことは,公訴事実の真偽が不明である場合には原判決の事実認定を維持すべきであるということを意味するものではない。上告裁判所は,原判決の事実認定の当否を検討すべきであると考える場合には,記録を検討して自らの事実認定を脳裡に描きながら,原判決の事実認定が論理則,経験則等に照らして不合理といえるかどうかを検討するという思考操作をせざるを得ない。その結果,原判決の事実認定に合理的な疑いが残ると判断するのであれば,原判決には「事実の誤認」があることになり,それが「判決に影響を及ぼすべき重大な」ものであって,「原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認めるとき」は,原判決を破棄することができるのである。殊に,原判決が有罪判決であって,その有罪とした根拠である事実認定に合理的な疑いが残るのであれば,原判決を破棄することは,最終審たる最高裁判所の職責とするところであって,事後審制であることを理由にあたかも立証責任を転換したかのごとき結論を採ることは許されないと信ずるものである。」

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