昨日の続きです。
出雲の考古学と出雲国風土記から
この本は、平成15年に「古代出雲学講座」(第3回)の講義内容を
収録したものです。
その中からです。
四 出雲古代史から日本古代史へ
最近、地中から文字史料がいっぱい出まして、文字資料の研究が進んでいます。
大切なのは文字が中国、朝鮮から伝わる前から、われわれの先祖は書いていたという事実です。
文字が伝来したから書いたのではなく、それ以前から当然書いていたのです。
荒神谷遺跡で見つかった銅剣にみられる「×」ですが、これも書いたものです。
漢字が伝わる以前からわれわれの先祖は「字のようなもの」を書いています。
文字があるから古くのではなくすでに書いているわけです。
どうしてもわれわれは漢字に惑わされていますが、文字を「書く」行為は歴史的にみて、のちのことなのです。
よく水田跡から人間の足跡などがみつかっていますが、
私の幼いころは、地面に釘で字を書いたり絵を描いたりしていました。
書く行為は日常茶飯事にどこでもやっていることでした。
ですから、足跡がみつかっているのですから、今から千五百年、千六百年前の人がイタズラで描いた絵とか、
文字がいきなり発掘で出る可能性もあると思われます。
加茂岩倉の銅鐸からも「×」が出てきています。
シンポジウムで先生方が集まって、バツだとか、バッテンだとか、ペケだとか言っていますが、
古代人はあれをバツとも、ペケとも言っていません。
あれを「アヤ」と古代人は読んでいました。× (アヤ)を繰り返していくと綾織が出来ますが、
そのあや(綾)なのです。封じ込めるという意味です。
「あや」という言葉が頭に付く日本語には「怪しい」「危うい」「あやかる」「操る」
「奇に」「過ち」「謝る」「あやす」「あやめる」等々があります。
「人をあやめる」も「子供をあやす」もともに「あや」を冠する。これほど怖い、怪しい言葉はないのです。
祭礼で子供の額に「犬」とか「×」の字を書く民俗事例がありますが、そのマークを民俗事例でこの印を「あやっこ」と言います。
古い事例として、島根県の神庭荒神谷遺跡の「×」でいたと思われ、
「○」は「まろ」とか「わ」と読み、「△」は「うろこ」などと古代の人は呼んでいたようです。
古代の人たちは、祭礼に詞は神さまと通ずる手段として理解していたのですね。
言い方を変えれば「言霊」です。
墨書土器と文字の普及
「古代の人たちはどの程度文字が書けたのか? 読めたのか?」という質問をよく受ける。
奈良時代、都の周辺に住む人たちは、文字を正確に書けるというだけで写経生などに採用され、
現金収入の道が開けた。「人夫」(労働者)の賃金が一日に九文からI〇文であったのに対し、
写経生は一日七枚仕上げると、三五文を得ることができた。
ただし、誤字五字につき一文、脱字一字につき一文、一行脱行すると二〇文も給与から引かれるという厳しさも伴った。
こうした古代における文字の普及とその習熟度を推測する資料として、
かつては「正倉院文書」など、かなり限られた伝世資料に頼らざるをえなかった。
しかし、近年では大量に発見される墨書土器によって、状況が変わってきた。
墨書土器は1~2字のものが圧倒的であり、容易には文字内容を決めかねることから、
水簡・漆紙文書に比べると、その本格的な研究は立ち遅れている。
しかし、研究の停滞にもかかわらず、古代の集落遺跡から出土する墨書土器は、
ことさらに文字普及のバロメーターとしてとらえられてきた。はたしてそれは正しいのだろうか。
こうした研究状況に鑑みて、かつて私は、特定の集落遺跡出土の墨書土器の分析や
墨書土器の字形(土器に記された文字のできあがりの形のこと)などから、
その本質に迫ろうと試みた。
集落遺跡出土の墨書土器は、東日本各地の出上皇が圧倒的に多いため、
その分析対象として東日本を中心に実施しか。
その結果、墨書土器の文字はその種類がきわめて限定され、
かつ東日本各地の遺跡で共通していること、そして共通文字の使用のみならず、
墨書土器の字形も各地で類似しており、しかも本来の文字が変形したまま広く分布していることを確認した。
このことから、当時の東日本各地の村落における文字の使用は、
土器の所有をそれらの文字・記号で表示しか可能性もあるが、
むしろ村落内の神仏に対する祭祀・儀礼行為などの際に、
土器に一定の字形なかば記号として意識された文字を記したものであることがわかった。
つまり、墨書土器は必ずしも、文字普及の直接的なバロメーターにはなりえないのである。
なお、最近では西日本各地の出上例も飛躍的に増加しており、東日本とほぼ同一傾向である。
写経生が厚遇されていたり、漢字の練習の方法があったり、五世紀後半から八世紀にかけて
文化が花開いたのですね。
その頂点に書3筆の一人「空海」(774-835年)がいます。
遣隋使の小野妹子は、607年に遣隋使として派遣され200年の時代を経て
空海が生まれていることに凄さを感じざるを得ません。
その当時の時代について勉強しています。
それが白川学館で学んでいることに繫がることに驚いています。
「言霊」は単なるスピリチャルな面だけでないことを
出雲国風土記や古墳の遺跡から知りました。
1歩踏み込んだ所に自分がいることを感じています。
先日のお作法確認会での皆さんの話を自分のごとくに
理解するのにびっくりしています。
今日は写真が無くて文章だけでごめんなさい。
ありがとうございました。