新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月23日 墓参の日に

2016-12-24 09:02:24 | コラム
亡父の墓参で染井墓地に行き、地蔵通りで北京語を聞く:

今年は一寸事情があって祥月命日よりも1日早い昨23日に家内と共に出かけた。ここ新宿区百人町から巣鴨まで行く交通手段は色々とあるが、往路は先ずバスで、シルバーパス利用で、高田馬場まで行ってから山手線で巣鴨までの経路を選んだ。その理由は高田馬場駅には新大久保駅にはないエスカレーターもエレベーターもあるからだという高齢者の選択であるし、手術後の家内の足腰のことも考慮のうちだ。

さて巣鴨である。駅舎の中の人の数が異常に多いのに違和感があったが、恐らく年末の買い物客のせいだろうと語り合って染井墓地に向かった。駅の直ぐ近くに三菱養和会の巣鴨スポーツセンターがあり、嘗てサッカーの試合に出た経験がある人工芝のグラウンドがある。一度目が何時のことだったか記憶は定かではないが、相手は昭和21年の国体の決勝戦で我が湘南中学が退けた神戸一中(現神戸高)のOBテイームだった。

この時は、私如きが出る幕ではなく、2年上の昭和23年の国体の決勝戦で敗れた当時のマネージャーだったOさんに「後の親睦会等の手伝いに来い、但し念のために道具も持参せよ」と言われて気楽に出かけて行ったのだった。ところが、いざとなってみれば人数が揃っておらず、私如きまでが駆り出されてしまった。当時の神戸一中側には今となってはその存在を知る者がどれだけいるか不明だが、言わば当節の流行言葉にすれば「レジェンド」の慶応大学OBのCF(センターフォワード)二宮洋一氏が健在だった。

自分がどのポジションで出されたのかの記憶はないが、負けたように覚えている。確か一度だけ二宮氏に当たりに行ったと思うが、綺麗にかわされたのは覚えている。あの当時の養和会の人工芝は滑りやすくて難儀したが、二宮氏は全く何事もなかったようにこなしておられたのは流石だと感心してみていた。何時のことだったか記憶はないと言ったが、道具を持っていたということは藤沢の四十雀に参加していたことを示すので、1976年よりも後のことだったのだろう。

その養和会の言わば隣りに昔からラグビーの強豪校で有名だった本郷中学(現在は高校)がある。ここのグラウンドも数年前に人工芝に変わっていた。このように学校のグラウンドが人工芝に変わっていく傾向が顕著で、大学は言うに及ばず高校でも泥のグラウンドが減っていくようだ。我が家から山手線等の線路を隔てたところにある海城学園のグラウンドもつい先頃人工芝に変わっていた。私も2005年まで藤沢の人工芝のフットサル場で何年か遊んでいたが、どうにもあの科学の結晶のフィールドには馴染めかったし、滑って手をつくと掌が火傷のようになるのも好ましくなかった。

考えてみれば、23日の天皇誕生日に墓参に来たのが初めてだった為か、24日と異なって墓参の人の数が多いのが印象的だった。その現象が休日か年末の為かは解らないのだった。因みに、父が亡くなったのは昭和12年12月24日で数え年の45歳。我が一家で最初の交通事故の被害者だった。被害に遭ったのは現在の東京都千代田区だったか。

墓参を終えてから恒例の巣鴨地蔵通りに向かった。ここも矢張り年末のせいか意外なほどの人出だった。中でも印象的だったのはドンキホーテも及ばないだろうと思わせるほど店内に商品が堆く所狭しと積み上げられた安売りのドラッグストアの中で、無言でぶつかって通行する連中が北京語だったことだ。

彼らは最早爆買いどころか、ネットででも知ったのだろうか、集団でここ巣鴨まで買い漁りに来ていたのだった。現に、地蔵通りにも何組かの北京語グループが歩いているのを見かけた。家内と共に恐れ入ったことだと半ば呆れていた次第。4月以来来ていなかった地蔵通り商店街もかなり近代化?され、必ずしも高齢者を狙っているとは思えないような喫茶店やレストランが増えていたのも印象的だった。当方が贔屓にしている洋品店・マルジにも中国人が数名いた。ここに来てまで大久保通りでもないのに、中国語を聞かされるとは予想していなかった。

この商店街で買うものはと言えば、もう何十年も続けている巣鴨駅に近いところにある煎餅屋・雷神堂の6袋で¥500の煎餅だ。昨日もそれを買い終えて、都営地下鉄三田線で春日に行き、更に大江戸線で新宿西口まで乗り継ぎ、そこから更にKBバスで大久保駅前まで乗って戻り、再び中国語を中心にアジアの諸国とイスラム教圏内の国の言葉が飛び交う百人町に帰ってきたのだった。これで合計約4時間を費やす結構くたびれた半日だった。