新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月10日 その2 君たちは相手を甘く見て良いほど強いかったのかな

2016-12-10 17:08:12 | コラム
サッカークラブW杯の鹿島対オークランド戦:

これは12月8日に横浜で行われた試合だったが、感想が今日までずれ込んだのには理由があった。それは、昨日は朝から中学(何度も断ってきたが旧制である)から高校までのクラス会に出席する為に遙か藤沢まで行っていたので、落ち着いて書いている時間の余裕がなかったということ。情けないことに高齢の為に、新宿から1時間も電車に乗っているのが苦痛になってきたので、体力を温存してして出かけねばならなかったのである。

さて、試合の方は鹿島が勝って当然と閃いたので気楽に見ていられたが、何とももたついた勝ち方にはウンザリさせられた。あの体たらくでは鹿島は本当は強くないのか、あるいは一度金崎に反旗を翻されてしまったことがあったと聞いている石井監督の先取起用が不適切だったのか、あるいは相手が何度出てきても一度も日本勢に勝てていないオークランド(ラグビーでは世界最強のニュージーランドの国のクラブ)を甘く見ていたのか何れかなのだったらしい。

しかし、仮令そうだったとしても、鹿島が浦和に勝ってJリーグを制覇してから僅か4日しか経っていなかったにせよ、あの前半の試合振りは全く頂けなかった。守るも攻めるも中途半端でこれという形がある訳でもない相手に、我が国のサッカーの悪弊である後陣でバックス同士が無駄としか思えない横パスの交換に時間を費やしているだけでも退屈なのに、その間に前線にいる連中が動いて相手の裏を取ることもせず、空走りをする訳でもなく、ボーッと突っ立っていただけなのだから救いがなかった。

そのまま0対0で前半を終わって、後半に入るや解説の木村和司だったかが「要注意」と警告した右からのコーナーキックから韓国人選手の前を明けてしまった為に、彼にヘデイングで綺麗に決められて失点してしまったのは醜態だった。そこから先は鹿島がどうやって2点以上取るかだけが試合の興味となった。そこで問題にしたいのが監督の選手起用だ。金崎は完全にエース格であるにも拘わらず足首の故障とかで外していたのは腑に落ちなかった。だから前半が形が整わなかったと言えるだろう。

しかし、後半になって先ず出してきたのが、シーズン中は好調とは言えなかったと聞く赤崎だった。金崎を出してきたのはその後で、しかもやや老化したかの感は否めないがあの中では上手い方であるゲームメーカーの小笠原と替えてしまった。結果的にはこの交替で入れた順番に点を取って無事2対1で勝ったのだった。鹿島の動きは特に金崎を入れた後からは生き生きとしてきたのだから、あの出し惜しみとも思える使い方は納得出来なかった。次の試合に備えて温存したなどとは言われたくない。

故に「甘く見ていていたのか」と言いたくもなるし、金崎の動きには故障の形跡が感じられなかったのも気に入らなかった。あれならば最初から出して、もしも無理が来たならば、それこそ赤崎とでも替えれば良かったのではなかったのかなどと言いたくなってしまう。何れにもせよ、あの程度の相手にあれほど手こずるのは情けなかった。次に何処と当たるのかなどまで注意していないが、あの様なサッカーをやっているのでは甚だ心許ないと感じた。そういう理由は何時も同じで、動きながらのパス回しが出来ず、受け手の動きを止めるパスばかり出すし、パスが足下に入るまでジッと待っているだけのサッカーでは、一寸手厳しい(足厳しいか?)相手が来れば潰されてばかりになるだろう。

基本技で気になったことを挙げておこう。それは確か赤崎だったと記憶するが、我々が中学で初めて教えられた蹴球では「左サイドから来たパスを右サイドにいる者がシュートする時は(どんなに無理だと思っても)左足で蹴ること」が現代の進歩したサッカーではほとんどの場合に無視されて、わざわざ左足の前を通過させてから器用にに右足で蹴るのだ。そして、多くの場合正確に合わせられず大きくゴールから外れてしまうものだ。この試合でも、赤崎だったかが、チャンスだったにも拘わらず右で蹴って外したことがあった。そして彼は1点目も左斜め前から来たパスを右足で蹴って見事に決めていた。入ったから良かった。昔の常識が通じない時代になっているのだ。

あの様な間延びのしたサッカーを見せられると、私の持論のようになっている「寄せ集めで容易に息が合わせられない代表テイームよりも、(故・篠竹幹夫監督の表現を借りれば)長い間同じ釜の飯を食ってきた単独テイームの方が優れているのではないか」が崩れてしまいそうで不安だった。奮起せよ、鹿島アントラーズ。選手起用に遺憾なきようにせよ、石井監督。君らは相手を甘く見て良いほど強くないのだ。


内野に芝生がない

2016-12-10 09:11:55 | コラム
アメリカでは何故内野には芝生があるのかな:

戦前から我が国には「職業野球」があったし「六大学野球」の人気も高かったという具合で、「野球」は外来スポーツの中でも花形だった。そして、戦後には”baseballが入ってきたし、「職業野球」も「プロ野球」に変わってしまった。何時の頃かは記憶もないが、アメリカ大リーグ(MLB)の試合の片鱗も映画やニュースなどで模様も見られるようになってきたし、1949年10月にはオドウール監督率いる「サンフランシスコ・シールズ」なるマイナーリーグのテイームもやってきて本場の野球を見せてくれた。

戦前に後楽園球場で職業野球を見ていた記憶では確か内野には芝生はなかったし、ボールカウントもストライクから先になっていたのだったし、アメリカでもそのようになっているものだとばかり思っていた。ところがである、アメリカの野球場では内野にも芝生が敷き詰められ、内野と外野の境目のような所だけ抜けているのだった。だが、当時の子供心の解釈では「アメリカは豊かな国だから、全面芝生にする余裕があるのだろう」となっていたし、その違いが気にはならなかった。

私は1972年にアメリカの会社に転進したが、1978年辺りまではMLBの野球を見る機会はなかった。そこで解ったことは野球の質が違うということよりも、実に華麗で洗練された上手い野球をやっているものだという次元の違いだった。ボールを先にするボールカウントの違いも確認出来た。全面芝生もあらためて確認したが、観戦したシアトルのKing Domeはドーム球場だったこともあり、確か人工芝(商標の”Astro Turf”が普通名詞のように使われていたが)だった。

そこに今になって検索してみると、1987年だったのは意外に遅かったが、MLBから最初の「助っ人」とやらのボブ・ホーナー(James Robert Horner)がスワローズにやってきて大活躍した。だが、1年後には「もうこれ以上something like baseballをやるのはイヤだ」と言ってMLBに帰って行った。長い話を短くすれば、ここに日本の「野球」と”baseball”の違いが凝縮されていると思う。それは単に内野に芝生がないことは「ツースリー」などのようなカウントの仕方だけではないという意味だ。

長い導入部だったが、ここに採り上げたいことは2020オリンピックにおける野球の予選を「復興」の為に福島県の野球場を使うべく、IFの会長や関係者が視察したところ、スタンドの収容可能人員の少なさに加えて「内野に芝生がないこと」も指摘されて決定に至らなかったと報じられた。私は地方まで行って野球を見るほど熱心ではないが、NPBなどの地方興行を見ていると、甲子園同様に芝生は外野だけのことが多い。その点をアメリカン・イングリッシュではなかった英語を話す会長さんまでが指摘されたとは”baseball”の世界では「全面芝生」が当たり前だと、あらためて確認出来てしまった。

私が知る限りでは、我が国では芝生は何か特別な存在で、公共の場などには屡々「芝生に入らないで」との注意の掲示を見ることがある。何故なのだろう。踏み荒らされると芝生の管理と維持が出来なくなると言いたいのかなと解釈している。だが、アメリカに行ってみれば野球よりも遙かに芝生を荒らすフットボール場だって全面芝生だ。ゴルフ場だって打つ度にデイヴォット(divot)が飛び散っているが、誰も荒らしていると批判しないではないか。

私はこれなどな「芝生」に対する文化の違いの表れかと思っている。JOCか野球の関係者か知らないが、あの視察の場で「取り敢えず早速内野を芝生化します」くらいが言えなかったのかと思っている。芝生の維持管理が負担だというのならば、人工芝にすれば済むと思う。それは本戦の競技場になるはずの横浜スタジアムは人工芝だから言うのだ。IFが人工芝を問題にしたとは聞いていない気がする。何で今回のオリンピックの準備段階ではこれほど引っかかる案件が続出するのだろう。森さんにでも伺ってみるか。