新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月29日 その2 黒崎愛海さんの失踪に思うこと

2016-12-29 13:19:36 | コラム
世界は何処に行っても危険だと思うこと:

フランスに留学中と聞く黒崎愛海さん(ナルミと読むそうだ)の失踪が報じられている。それにつけても思うことは「外国は日本ではなく、我が国のような安全というか諸外国とは比較にならない治安の良さは絶対に期待してはならない」という冷厳な事実だ。黒崎さんが現在では何処でどうしておられるのかは不明だが、何とか無事でおられることを祈るだけだ。

私は一般的な日本人よりも海外を歩き回ってきたと思う。アメリカだけでも22年半の在職中に60回近く出張して最長25日は滞在していた。訪れた国の数はそれほど多くはないが、それでも20ヶ国に及んでいた。それほど(旅)馴れていても、片時と雖も安心して街中を動き回ったことはなく、常にさりげなく四方八方に気を配っていた。それは大袈裟ではないかと言う向きもあるだろうが、馴れれば馴れるほど油断しがちだし、現にチャンと?自分で運転が出来なくても自動車事故の被害者にもなっていたではないか。

それ以外にも何時何処でどんな悪者に出遭うかなどはとても予想も予期も出来るものではなく、気が付けば駐在員などが絶対にご案内してはならないと聞かされているという場所に迷い込んだりするものだ。ニューヨークなどでは「信号で止まってキョロキョロとでもしていれば、そういう怖い連中に『カモ来る』と思われるから注意せよ」と警告されたものだった。我が国にそんな場所があるかと言うこと。

私が論じたいのはそういう刑事問題ではなく、海外における女性に迫る危険のことだ。その危険性は我が国に生まれ育った方には到底簡単に認識出来ない性質であると思う。簡単に言えば「街中の女性の一人歩きは絶対禁物」の大原則は、その街、その国がどれほど安全のように見えても、何が何でも守るべき絶対条件だと思う。これを最低線と心得て外国の街を歩くことだ。では集団で行動すればよいかと言うことでもないような気さえする。

1997年にバリ島のデンパサール空港の到着ロビーで見た風景は印象的だった。如何にもインドネシア的美青年が出て来る日本人女性と覚しき人全てに声をかけていたのだった。私はこの光景を所謂ナンパだと思って見ていた。幸いに不成功のようだった。事ほどさように我が国の若き女性は狙われやすいのだ。その美しさもあるが、彼らはその警戒心の欠如を狙っているのだ。

ご存じだとは思うが「世界で最も幸せなのは日本人女性と結婚し、アメリカの家に暮らし、中華料理を食べること」との言い習わしがあるほど、我が国の女性は彼らにとっては垂涎の的なのである。解るような気もするが・・・。

更に言い方を変えれば、欧米人の間には「女性と見れば口説かないのは非礼である」のが常識であるとさえ思われているのだ。世界の何処でも、我が国以外では、悪者どもは常にその機会を狙っていると思って警戒していても良いだろう。

それだけではない、我が国では未だに海外旅行でも現金を持ち歩く方が多いのは「カモ」と見なされる大きな原因だろう。それ以外でも他人の目のあるところで、平気で現金を見せてしまう方が多い。これなどは絶対にしてはならないことだし、ホテルでのチェックインの際にクレデイットカードは裏を見せてフロントデスクの上に置くのも常識に近いのだ。その道のプロはナンバーを一目見れば覚えてしまい、偽造出来るとさえ言われている。

上記のような「べからず」集の裏側を見て頂けば、我が国が如何に安全で治安が良いかが解って頂けると思う。2010年にカリフォルニア州で出会った東京駐在中の日系人の若き銀行マンは「日本は最高である。治安が絶対的に良く、女性連れで深夜歩き回っても何らの危険がなく、勿論女性の一人歩きも何ら問題がなく、人は親切で、何処で何を食べても先ず失望することはない。転勤などしたくない」と絶賛していたのだった。


安倍総理のPearl harbor訪問に思う

2016-12-29 08:18:52 | コラム
戦争中は言わば思考停止状態だったと思います:

今朝の産経で田久保忠衛氏が「小学校3年で戦争開始で中学1年で終戦の詔勅を聞いた」と書いておられましたが、私と全く同じ年譜です。でも、私は戦争の時代を体験しましたが、小学校の児童であり、当然ながら直接の戦争体験ではありません。子供心の記憶があります。

昭和16年12月8日に「西太平洋上で戦闘状態に入れり」との放送をラジオで聞いて、偶々いた隣の叔母の家の台所で「やった、やった」と一同小躍りした光景を未だに明確に覚えております。それからの戦争の経過は子供心にも狂気としか思えない事が多々ありました。大本営発表を疑うようなことが出来る訳がありませんでしたが、段々状況が不利になってきたのか程度は解りました。

その上に中学校に入った昭和20年の4月前後のあの連日連夜の空襲では最早13歳でも何がどうなっているかは見えてきました。そこに「本土決戦」になることを前提で「竹槍の訓練」が始まったことには「これは如何に何でも無理があるのではないか」と感じましたが、逆らうことも何もした者はいなかったという記憶しかありません。そういうことが出来る雰囲気ではなかったのです。

何れにせよ、「鬼畜米英」を相手に戦うのであれば「欲しがりません勝つまでは」等々の標語が飛び交い、中学1年生が動員されて辻堂海岸の防風林で松の木の根を掘って「そこから松根油(ショウコンユ)を作って戦闘機の燃料にするから頑張れ」と命令されたのには、陳腐な表現で済みませんが「???」でした。農村動員もお国の為だと言われれば、喜んで出かけました。帰りにお百姓さんから土産に貰えた野菜が貴重品でした。

今でも我が国ではスポーツ界でも何かと言えば「一丸となって」と言いますが、当時は「一億打って一丸となって」だったと記憶します。一丸となって鬼畜米英と戦おうとの精神の下に本当に団結していたと思っております。対戦相手のアメリカも当時言われた「物量の豊富さと強さ」を駆使して国を挙げて攻め立ててきましたし、遂には原子爆弾にまで依存しました。思考停止状態にあった我々、で悪ければ私、はそのことが何を意味するかを把握出来ませんでした。

私が病弱で一時的のつもりで鵠沼に転地療養していた間に、主だった家財を残してきた小石川区の家は4月13日の空襲で焼失しました。群馬県出身の家内の郷のお寺も戦災に遭ってます。私は誰を、何を恨むと言うよりも、狂気の戦争の間のことでは何を言っても仕方がないと諦めていました。それが何と戦争が終わった27年後に偶然の積み重ねで、そのアメリカの会社に転進してしまったのです。全てを凝縮して言えば「生活の為の手段」だったというのが結論であり、正当化の理屈になりましょうか。

と、ここまで申し上げましたが、私はオバマ大統領の広島訪問と今回の安倍総理の“Pearl harbor”(何で真珠港でなくて真珠湾と訳したのでしょうか?先人の英語の知識は素晴らしいと思います)訪問については、何か言おうと思っておりません(「コメントしません」というような日本語擬きを使いません)。「あの頃を体験せず、あの戦争がどんなことだったかを知らない人の方が多くなってしまった時代です」というのが感想です。