♦️391『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズムへの道(ドイツ、1919~1930)

2021-01-12 21:54:59 | Weblog

391『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズムへの道(ドイツ、1919~1930)

 はじめに、ファシズムの語源は大層古い。もともとは、古代ローマに先立つエトルリア時代の「ファスケス」を発祥とし、斧の周りに木の棒を束ねたものを指していた。

 しかして、古代ローマの共和制政治下では、護衛官はこれを担いで独裁官や執政官といった権力者の後ろを歩く習慣があったのだと。これからすると、まさに「威を借る」の類であり、「俺はこれだけの権力を手にしているのだ」ということを人民大衆に知らしめていたのであろうか。
 

 1919年1月には、ドイツ労働者党が結成される。アドルフ・ヒトラーは、同年9月に、この小政党の内情を探るよう軍から派遣されて入党する。

 1921年2月には、ヒトラーがこの政党の党首となり、1920年2月に党名変更していた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の舵取りを引き継ぐのであった。

 同年、ワシントン軍縮会議が開かれる。1922年4月、イタリアのラッパロでドイツ共和国とロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国(ソヴィエト・ロシア)との条約、通称「ラッパロ条約」が結ばれた。この条約は、革命後のソヴィエト政権を外国が承認した最初の条約であり、またドイツも国際的孤立から脱出する狙いを込めた。

 1922年10月24日、ナポリでムッソリーニの率いるファシスト党大会が開催され、4万人のファシストたちが ローマへの進軍を行い。かれらの狙いは、国王により強力な政府を樹立することであった。

 1923年1月、フランスとベルギーが語らって、ドイツ領ルール地方へ進駐する。ドイツによる、ヴェルサイユ条約による賠償金の支払いが滞っていることをもって、占領を正当化しようと目論んだもの。


 ドイツでは、経済混乱があった。1923年11月15日を期して、ドイツのレンテン銀行が不換紙幣を発行した。第一次世界大戦中から始ったドイツのインフレーションの最中であった。当時は、金準備が不足していた。そこで、土地を担保とした不換紙幣としてレンテン銀行から発行し、従来の1兆マルクを1レンテンマルクと引き換えた。これによってインフレが鎮静に向かうと、1924年からは金準備に基づくライヒスマルクに切り替えられた(詳しくは、例えば、塚本健「ナチス経済」東京大学出版会)。


 ドイツでは、1923年11月、ヒトラーが、ミュンヘン一揆をおこす。かれらは、賠償金そのものの支払いに反対する。

 1924年、ロンドン会議でドイツの賠償金軽減を内容とするドーズ案が承認される。

 1925年には、陸軍元帥であるヒンデンブルクが右翼政党の帝国大統領統一候補になり、次いで大統領(~1934)に就任する。この時の彼は、一応、憲法への忠誠を誓った。1925年12月、ロカルノ条約が締結される。これで、西部国境の不変更と中欧の安全保障体制を目指す。

 1926年9月、ドイツが国際連盟に加入する。1927年には、失業保険法がつくられる。

 1928年6月、ミュラー(社会民主党)の主導下による大連合内閣が成立する。久しく野党であった社会民主党から人民党までの幅広の政権が生まれたことで、24年からの相対的安定期が続くかに思われていた。同じ1928年、パリ不戦条約が締結される。1929年6月、ヤング案の調印が行われ、先のドーズ案が修正され、ドイツの賠償支払いが新たに規定された。7月には、ヤング案に対する反対闘争にナチスが合流する。


 1929年10月には、世界大恐慌が起こる。この時は、へルマン・ミュラー保革連合内閣の時代だった。

 そのヨーロッパのドイツでも、生産の急落と大量失業が現実化していく。ドイツの支払う賠償金の重要な出元がアメリカからの借款(しゃっかん)であったことから、これにより経済復興に精を出し、イギリスとフランスに賠償金を支払い、それを元手にこれら2国がアメリカに借金を支払うとのサイクルがやせ細っていく。

 ドイツでは、1930年3月、そのへルマン・ミュラー大連合内閣が崩壊する。同年9月の.総選挙で国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチス党、)が帝国議会選挙で躍進し、第2党となる。当時は、ブューニング内閣の時代。

 また、この年には、ドイツの賠償支払いにつき、ヤング案が発効となる。

1930年になると、ロンドン軍縮会議が開催される。

(続く)

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♦️392『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズムへの道(ドイツ、1931~)

2021-01-12 20:54:35 | Weblog

392『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズムへの道(ドイツ、1931~)

 

 1931年4月には、ヒンデンブルクが二度目のドイツ大統領職に就く。1931年10月、ナチスを含めた右翼が国民戦線を結成する。

 1932月4月には、ナチス突撃隊とナチス親衛隊に禁止令が出される。6月には、同禁止令が解除される、この間にもナチス党の力が伸びてきた、その反映であろう。7月には、パーベン内閣が、プロイセン邦政府閣僚を罷免する。同月、帝国議会選挙で、ついにナチスが国会の第一党(得票率37.3%)となる。

 さらに12月には、シュライヒャー、パーベン、ヒンデンブルグが会談し、シュライヒャー内閣が発足する。

 国際的には、1932年7月、スイスのローザンヌで開催されたローザンヌ会議において、ドイツが支払う賠償金は最終的に30億金マルクまで減額される。
 

 1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命する。ヒンデンブルクが、右翼保守派「カマニラ」の圧力に屈した形であった。

 1933年2月27日夜には、ドイツの国会議事堂が放火されて全焼した。当時のドイツに留学していた美濃部亮吉(みのべりようきち、元東京都知事)は、こんな述懐をしている。

 「ナチスと共産党との衝突はあまや最高潮にたっしたかにみえた。こうしてベルリンが5日後に選挙をひかえて何ごとがおこるかわからない不安にとざされていた2月27日の夜ラジオを聞いていた私は、突如として国会議事堂が放火によって炎上しつつあるというアナウンサーの声にびっくりさせられてしまった。
 オランダ共産党員ルッペなる者が放火犯人であり、現場において捕らえられたことがつづいて放送せられた。
 外相ゲーリングは、この放火がやがておこらんとするドイツ共産党の暴力行為の烽火であると公表した。その夜ベルリンは騒然としてまったく××前夜のごとき有様を呈した次第であった。
 議会の炎上は、共産党の弾圧にこの上ない好都合な口実をあたえるものであった。議会放火の主犯者として徹底的な圧迫をうけることとなった。ナチスは電光石火的にあらゆる共産党指導者を逮捕し、いっさいの選挙準備すなわち集会もビラまきも禁止し、その組織を全部破壊してしまった。共産党はまったく手も足もでない有様となった。
 同じような圧迫は、議会放火に関連があるという口実のもとに社会民主党の上にも加えられた。」(美濃部亮吉「独裁下のドイツ経済」)


 これにもあるように、権力を奪取して日の浅いナチス政府は初動捜査もなんのその、ヒトラーはこれを「共産主義者による叛乱の始まり」と大々的に訴え、2月28日には[国民と国家を防衛するための大統領緊急令]を公布させた。これには、憲法に定める基本的人権の停止、州権への介入を定めていた。


 こうした中で、プロイセン州だけでも、二週間で8000名以上の共産党員が拘束された。政府はその後ドイツにいたブルガリア共産党指導者ディミトロフら四名の共産主義者を逮捕し、先に逮捕していたオランダ人の共産主義者ファン・デア・ルッペルッペとともに裁判にかけた。 ナチスのゲーリングまで証人に立った裁判でも、共産党の関与は認められず、ディミトロフらはナチスのなりふり構わぬ犯罪人仕立て上げであることを強く主張し、結局4人は無罪になり、 ルッペのみが新法を遡及適用されて処刑された。


 そして迎えた1933年の3月24日、ナチス政権は、国民及び帝国の危機克服法(困窮除去法、全権委任法とも呼ばれる)で帝国憲法(ワイマール憲法)を停止することを可能とする条項を設けるに至る。その前日、「補助警察」となったナチス突撃隊員が多数国会議場に入り、議員を威圧する中での採決であった。これに反対票を投じたのは、社会民主党のみであったと伝わるのだが。
 そこで同法の内容だが、第1条には、「帝国の法律は、帝国憲法において定められた手続きによる以外にも、帝国政府によって議決することが可能である。予算・国債募集についても同様で議会の賛成をへずに決定しうる」となっていた。

  また第2条は、「帝国政府により議決された帝国の法律は、帝国議会及び帝国参議院の制度そのものを対象としないかぎり、帝国憲法に違反することが可能である。帝国大統領の権利はこれにより変更を加えられない」といい、共和制を盛り込んだワイマール憲法はここに丸裸(無力)にされた形だ。

 さらに第3条は、「政府によって決定される法律は首相が起案し、議会の承認を要しない」とし、続く第4条にて、「外国との諸条約は本法の有効期間中は、議会の承認を要しない」ということになっている。さらに第5条では、「この法律の有効期間は1937年3月31日までである」と定める。


 続いての10月には、国際連盟・軍縮会議から脱退する。

 1934年、ドイツとポーランドが不可侵条約に調印する。1934年8月、ヒンデンブルク大統領が没すると、ヒトラーは総統と首相を兼務することになり、ここに独裁が成立する。ここに「独裁」とは何を意味するのであろうか。他ならぬヒトラー自身が、こう記している。


 「国家は下は市町村の最小の細胞から上は全国家の再興指導にいたるまで、人物本位の原理をその組織の基礎におかねばならぬ。そこにはもはや多数決は存在せず、ただ数名の責任者が存在するののみである。ゆえに「相談」という言葉はその本来の意味に帰るであろう。なるほど各責任者の側には数名の相談役がいるが、最後の決定はただ一人の人物がこれを行うのである。」(Derselbe,a.a.O.S.501)(具島兼三郎「ファシズム」岩波新書、1949より引用)

(続く)

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♦️903の1『自然と人間の歴史・世界篇』溶ける氷河(アレックス氷河など)

2021-01-12 08:06:18 | Weblog

903の1『自然と人間の歴史・世界篇』溶ける氷河(アレックス氷河など)

   2018年の夏、例えば、アルプス山脈最大の規模を誇る、スイス南部バレー州にあるアレッチ氷河の融解が話題になっている。アルプス山脈(スイス・アルプス)の北部、ベルナー・アルプスに属するこの地で、今年夏の欧州は記録的な猛暑のため、7月下旬に、平年より約1か月早く降雪が止まった。そのため、氷河の後退が進んでいるという。

   この氷河は、2001年に国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録された、極北を除く欧州では最大だ。この氷河の浸食作用によって削り取られた山々の肌は、氷河地形の典型だとされる。1970年代には、その長さが約24キロメートルあった。ところが、2014年には、約22キロメートルに縮小した。同地点で撮影された写真が公にされており、なるほど、同氷河の末端近くでは、岩肌の露出が見てとれる。

 最大クラスのものでこうなのであって、アルプス一帯にある中小の氷河にも融解がひろがっているという、この数千年間では前代未聞の出来事になっている。

 
 そこでもしこのような融解が続く中、そのことにより増えた水が海に大量に流れ出すことになると、話は地球全体のものとなっていくのだろう。
 なぜなら、陸上にあった氷がそこを外れていくのだから、例えば北極海で浮かんでいる氷が溶けるのとは異なる(注)、そしてまた、一旦水となりかわれば、そこからの温度上昇の程度によっては、海水面上昇をもたらしうるものとなるのだろうから。 
 いずれにしても、このような氷河の融解がこれ以上の話になっていく可能性はかなり大きく、これまで以上の対策がとられる話になっていくのかもしれない。

(注)

 いま氷が海水に浮かんでいることにしよう。これは、氷は海水より比重が小さい、つまり軽いことによる。

体積(V)の氷の比重をX)とすると、その重量(G)はこうなる。

 

 G = X・V   ・・・ (1)

 

 この氷がとけて水となってのその重量(G)は、質量不変の法則から変化しない。ついては、とけた水の体積を(Vw)、その水の比重を(Xw)とすると、その重量はこうなる。

 

 G = Xw・Vw  ・・・ (2)

 

 アルキメデスの原理によれば、水中の物体は、その物体が水に入る時おしのけた水の重量だけ軽くなる。

 

 そこでいま、氷の水没している部分の体積を(Vu)としよう、すると、氷に働く浮力(F)は次の式で求まる。

 

 F = Xw・Vu  ・・・ (3)

 

 かかる状態は、力のつり合いがとれている訳なのて、の法則より、次の式の、ように、氷の重量=氷に働く浮力となっているはずだ。

 

 G = F   ・・・ (4)

 

(2)(3)式を(4)式に代入すると、(5)式が成立する。

 

 Vw = Vu  ・・・ (5)

 

 つまりは、氷がおしのけた水の体積はとけた氷の体積に等しい。

よって、海面に浮かぶ氷がとけても海面上昇はなく、これをもって、例えば北極海の氷が溶けても海面上昇には至らない。

 

 一方、氷床のあるところでは、溶け出したら海面上昇につながりうる話であると述べたが、その形成時期としては、いつ頃のことだったのだろうか。いま最終氷期(さいしゅうひょうき、Last glacial period)というのは、およそ7万年前に始まって1万年前に終了した一番新しい氷期をいう。
 それが、この直近の氷河期が終わった頃の日本列島での気温は、今より2、3℃高くなっていた。およそ6000年前、日本では「縄文海進」と呼ばれている時期、海面は今より5メートル位は高かったのでは、ないかと考えられている。ちなみに現在、海抜5メートル付近には、横須賀の夏島遺跡など多くの貝塚遺跡が明らかとなっている。

 

 それが今日では、例えば、グリーンランドの事例で、こんな研究結果が紹介されている。


 「北極圏にあるグリーンランドで、2019年に解けた氷床の量が、過去最高の5320億トンに上ったとする研究成果を、ドイツや米国などの国際研究チームがまとめた。地球の平均海面が1.5ミリ・メートル上昇する量だという。
 チームは人工衛星による観測と気候モデルを組み合わせ、融解した氷床の量を推定した。19年に解けた量は、降雪によって増加した氷の1.8倍に上り、これまで最高だった12年の4640億トンを上回った。
 また、1948年以降で解けた氷床の量が多い上位5年は、いずれもこの10年間に集中していた。チームは、北極圏で急速に温暖化が進んでいる結果だとして、警鐘を鳴らしている。」(「読売新聞」電子版、2020年8月22日付け)

 

 ちなみに、いま1気圧の環境を考えよう。ここでの海水の比重(1.02程度)は真水の比重(1)よりわずかに大きいが、これを無視した上での話としよう。

 なお、かかる1気圧のもとでの水の密度(Y)は 、(1)氷(0度):0.91671g/立方センチメートル (2)水(0度):0.999840g/立方センチメートル (3)水(3.98度):0.999973g/立法センチメートルでこれが最大値であり、1番重い。

 これだと、0から3.98度までの水は、温度が上昇するにつれて体積が縮小していたのが、それ以後の温度上昇により熱膨張していく。

 次に、海洋の平均水深を(D)と見立て、海水の熱膨張は海面上昇の一つの要因となりうると仮定しよう。すると、各温度において海水温が1度上昇した時の、予想される海面上昇率(H)は、次のようになろう。

H(t+1時点)=(Y(t))/(Y(t+1)-1)D

 Y(t))は、温度tにおける水の温度

 (Y(t+1)は、温度t+1における水の密度

 

🔺🔺🔺

 これらには、別の議論もある。それによると、確かに、この間の地球は「氷期」という流れになって、1万年以上も続いているのだが、産業革命からは徐々に、小規模ではあるものの気温の上昇が現時点では認められる。

 けれども、この先の気候かどうなるのかの確かなことは、まだわからない。だから、より厳しい寒冷な氷河期への転換が起こってくる可能性もありうるという、上記の地球温暖化学説が描くシナリオと逆をゆく学説も出てきていることに、留意すべきだろう。その一つには、こう、ある。

 「1、地球の平均気温は長期にわたって変動を繰り返してきた。中世温暖期(~10世紀)から小氷河期(16~18世紀)を経て、現在は再び中世温暖期とほぼ同じ気温に戻った。300年前から上昇してきた気温は18年前から頭打ちになっている。
2、気候変動と太陽活動との間に強い相関があることは古くから知られていたが、最近、これは太陽磁場が地表に到達する宇宙線量を左右しているためであるという認識が得られた。すなわち太陽磁場が弱くなると宇宙線量が増え、これが低層雲を作ることで気温を下げることになる。現在、太陽は長期にわたる活動期を終了したので、今後は活動が弱まるにつれて気温の低下をもたらすものと予測される。
3、今後の数十年間は、太陽活動の低下による寒冷化の一部は二酸化炭素の増加による温暖化によって打ち消されるが、全体として気温は頭打ちから低下に向かい、大きな寒冷化が頻発するものと予想される。
4、大気中の二酸化炭素は植物の成育を促すプラスの効果はあっても、人間の環境にとって如何なる意味でもマイナス要因にはならない。

 存在する二酸化炭素を減らすこと自体に意味はないのであって、二酸化炭素排出削減は炭素資源を子孫に残すためにこそ意味がある。
5、炭素資源に替わるエネルギー源の開発は緊急の問題である。将来のエネルギーシステムとして可能性があるのは、水と太陽光から水素を作って水素を2次エネルギー媒体として使う水素エネルギーシステムと、藻類バイオマスエネルギーである。とくに藻類エネルギー開発には国家プロジェクトとしてただちに取り組むべきである。」(深井有(ふかいゆう)「地球はもう温暖化していない」平凡社、2015)


(続く)

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