391『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズムへの道(ドイツ、1919~1930)
はじめに、ファシズムの語源は大層古い。もともとは、古代ローマに先立つエトルリア時代の「ファスケス」を発祥とし、斧の周りに木の棒を束ねたものを指していた。
しかして、古代ローマの共和制政治下では、護衛官はこれを担いで独裁官や執政官といった権力者の後ろを歩く習慣があったのだと。これからすると、まさに「威を借る」の類であり、「俺はこれだけの権力を手にしているのだ」ということを人民大衆に知らしめていたのであろうか。
1919年1月には、ドイツ労働者党が結成される。アドルフ・ヒトラーは、同年9月に、この小政党の内情を探るよう軍から派遣されて入党する。
1921年2月には、ヒトラーがこの政党の党首となり、1920年2月に党名変更していた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の舵取りを引き継ぐのであった。
同年、ワシントン軍縮会議が開かれる。1922年4月、イタリアのラッパロでドイツ共和国とロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国(ソヴィエト・ロシア)との条約、通称「ラッパロ条約」が結ばれた。この条約は、革命後のソヴィエト政権を外国が承認した最初の条約であり、またドイツも国際的孤立から脱出する狙いを込めた。
1922年10月24日、ナポリでムッソリーニの率いるファシスト党大会が開催され、4万人のファシストたちが ローマへの進軍を行い。かれらの狙いは、国王により強力な政府を樹立することであった。
1923年1月、フランスとベルギーが語らって、ドイツ領ルール地方へ進駐する。ドイツによる、ヴェルサイユ条約による賠償金の支払いが滞っていることをもって、占領を正当化しようと目論んだもの。
ドイツでは、経済混乱があった。1923年11月15日を期して、ドイツのレンテン銀行が不換紙幣を発行した。第一次世界大戦中から始ったドイツのインフレーションの最中であった。当時は、金準備が不足していた。そこで、土地を担保とした不換紙幣としてレンテン銀行から発行し、従来の1兆マルクを1レンテンマルクと引き換えた。これによってインフレが鎮静に向かうと、1924年からは金準備に基づくライヒスマルクに切り替えられた(詳しくは、例えば、塚本健「ナチス経済」東京大学出版会)。
ドイツでは、1923年11月、ヒトラーが、ミュンヘン一揆をおこす。かれらは、賠償金そのものの支払いに反対する。
1924年、ロンドン会議でドイツの賠償金軽減を内容とするドーズ案が承認される。
1925年には、陸軍元帥であるヒンデンブルクが右翼政党の帝国大統領統一候補になり、次いで大統領(~1934)に就任する。この時の彼は、一応、憲法への忠誠を誓った。1925年12月、ロカルノ条約が締結される。これで、西部国境の不変更と中欧の安全保障体制を目指す。
1926年9月、ドイツが国際連盟に加入する。1927年には、失業保険法がつくられる。
1928年6月、ミュラー(社会民主党)の主導下による大連合内閣が成立する。久しく野党であった社会民主党から人民党までの幅広の政権が生まれたことで、24年からの相対的安定期が続くかに思われていた。同じ1928年、パリ不戦条約が締結される。1929年6月、ヤング案の調印が行われ、先のドーズ案が修正され、ドイツの賠償支払いが新たに規定された。7月には、ヤング案に対する反対闘争にナチスが合流する。
1929年10月には、世界大恐慌が起こる。この時は、へルマン・ミュラー保革連合内閣の時代だった。
そのヨーロッパのドイツでも、生産の急落と大量失業が現実化していく。ドイツの支払う賠償金の重要な出元がアメリカからの借款(しゃっかん)であったことから、これにより経済復興に精を出し、イギリスとフランスに賠償金を支払い、それを元手にこれら2国がアメリカに借金を支払うとのサイクルがやせ細っていく。
ドイツでは、1930年3月、そのへルマン・ミュラー大連合内閣が崩壊する。同年9月の.総選挙で国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチス党、)が帝国議会選挙で躍進し、第2党となる。当時は、ブューニング内閣の時代。
また、この年には、ドイツの賠償支払いにつき、ヤング案が発効となる。
1930年になると、ロンドン軍縮会議が開催される。
(続く)
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