♦️203の2『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの徴税請負人(17~18世紀)

2021-01-26 20:53:41 | Weblog
203の2『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの徴税請負人(17~18世紀)

 絶対王政下では、国家が人民に課す税金を厳しく取り立てる必要があった。
 1681年、「朕(ちん)は国家なり」とも形容される権力を誇示したルイ14世の治世、フランスは、財務総監コルベールの施策により徴税機構の改革を行った。
 なにしろ当時の間接税の仕組みは複雑で、その種類は、塩税、煙草税、関税、パリへの入市税など多岐にわたっていた。これらの徴収業務を、国家に代わって行う請負人に委託するというのだ。


 そうはいっても、国家の名でもって仕事をするのであるから、それなりの信用、それに実力を備えている者の中から選んで委託契約をするのでなければならない。
 そればかりではない、その上に、請負人たる者、毎年、国家との契約に基づいて決められた税額をひとまず国庫に納めて、すなわち国民に肩代わりして前納することになっていた。

 したがって、このような容易ならざる仕事に就けるのは、才覚のみならず財力や人手をもった、いわば当時の特権階級の人間に事実上限られるのであった。
 
 それでは、このような制度の導入によって、何がどのように変わったのだろうか。国家の方は、このやり方だと、自分でこの難しい仕事を切り回す煩わしさから開放されるし、その見返りとして委託代金を支払えばよい。そういうことでは、予定していた税収をより効率的に確保できる道が開けたという。

 一方、請負人としては、定期的な収入が保証されよう。しかも、仕事の難しさは相当にあるにしても、徴収できないなどのリスクをクリアする限りにおいては、仕事の歯車は回っていく。また、国家の信用を担っているのだからと、世の中をうまく渡るのに体面も保てるし、徴税の多いほどに収入も増すという流れにて、経営も安定していったのではないだろうか。

 およそそういうことだからと、当初の請負人の数全土でわずか40人程度であったのが、その陣容で、一説には、「国家の総税収額の実に3分の1」を担っていたというから、もしそうであったとすれば、驚きだ。

 とはいえ、この商売、人口の約9割から、あれやこれやの税金を取り立てることで潤うということでは、国家の一機構に組み込まれている訳であり、一度国家が人民の矢面に立つような状況にいたると、「人民の血を吸う蛭(ひる)」と憎まれる存在となっていく。


(続く)


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(続く)


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♦️203の2『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの徴税請負人(17~18世紀)

2021-01-26 20:53:41 | Weblog
203の2『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの徴税請負人(17か世紀)

 絶対王政下では、国家が人民に課す税金を厳しく取り立てる必要があった。
 1681年、「朕(ちん)は国家なり」とも形容される権力を誇示したルイ14世の治世、フランスは、財務総監コルベールの施策により徴税機構の改革を行った。
 なにしろ当時の間接税の仕組みは複雑で、その種類は、塩税、煙草税、関税、パリへの入市税など多岐にわたっていた。これらの徴収業務を、国家に代わって行う請負人に委託するというのだ。


 そうはいっても、国家の名でもって仕事をするのであるから、それなりの信用、それに実力を備えている者の中から選んで委託契約をするのでなければならない。
 そればかりではない、その上に、請負人たる者、毎年、国家との契約に基づいて決められた税額をひとまず国庫に納めて、すなわち国民に肩代わりして前納することになっていた。

 したがって、このような容易ならざる仕事に就けるのは、才覚のみならず財力や人手をもった、いわば当時の特権階級の人間に事実上限られるのであった。
 
 それでは、このような制度の導入によって、何がどのように変わったのだろうか。国家の方は、このやり方だと、自分でこの難しい仕事を切り回す煩わしさから開放されるし、その見返りとして委託代金を支払えばよい。そういうことでは、予定していた税収をより効率的に確保できる道が開けたという。

 一方、請負人としては、定期的な収入が保証されよう。しかも、仕事の難しさは相当にあるにしても、徴収できないなどのリスクをクリアする限りにおいては、仕事の歯車は回っていく。また、国家の信用を担っているのだからと、世の中をうまく渡るのに体面も保てるし、徴税の多いほどに収入も増すという流れにて、経営も安定していったのではないだろうか。

 およそそういうことだからと、当初の請負人の数全土でわずか40人程度であったのが、その陣容で、一説には、「国家の総税収額の実に3分の1」を担っていたというから、もしそうであったとすれば、驚きだ。

 とはいえ、この商売、人口の約9割から、あれやこれやの税金を取り立てることで潤うということでは、国家の一機構に組み込まれている訳であり、一度国家が人民の矢面に立つような状況にいたると、「人民の血を吸う蛭(ひる)」と憎まれる存在となっていく。


(続く)


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(続く)


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♦️159の2『自然と人間の歴史・世界篇』陽明学(王陽明、16世紀)

2021-01-26 10:24:11 | Weblog
159の2『自然と人間の歴史・世界篇』陽明学(王陽明、16世紀)

 王陽明(おうようめい、1472~1529)は、明代の儒学者にして、思想家だ。明の高級官僚、その中で学者の子として生まれる。幼い時から、科挙合格を目指して、その頃の「官学」であった朱子学を中心に学ぶ。
 そのうちに、形式的、権威的な朱子学になじめず、一時仁侠・兵法・詩文・道教・禅宗などに耽溺したという。なにしろ、才気活発であったようだ。
 28歳で進士に及第して官僚となる。エリートへの道を目指していたのかどうなのか、35歳の時、悪宦官を批判して、皇帝の怒りをかい、貴州省の山奥の竜場に左遷された。

 とにもかくにも仕方ない。骨の折れる、厄介な仕事は、そんなになかったのではないか。山懐の場所なので静謐ないしは閑静な環境にして、思索にはもってこいの環境ではなかったか。

 ここで、北宋の程の「万物一体の仁」の思想と南宋の陸九淵の「心即理」説とに影響を受けつつ、ひたすら勉強したようた。そして、儒学の一派としての陽明学を創始するのであった。

 その学風だが、心即埋・知行合一・致良知(良知というのほ、全ての人間の中に存在するもので、是非の判断する能カ)をいうらしい。これをらを束ねて、「竜場の一悟」と号す。

 まずは、「心即埋」というのは、なんだろう。王によると、「心は即ち理なり。天下また心外の事、心外の理あらんや」とされ、私見では、心を落ち着かせて物事、事象を観察するうちに、なにかしら見えてくる、ということなのであろうか。

 次なるは、「知是行的主意、行是知的功夫、知是行之始、行是知之成。」とあるのは、書き下し文で「知は是(これ)行の主意、行は是知の功夫(くふう)、知は是行の始はじめにして、行は是知の成るなり。」と読まれている。
 今日でいうところの現代哲学「プラグラティズム」の主旨と、なにかしら類似しているのではないだろうか。

 それに、致良知というのも、ことさらのことではないようだ。ある解説によると、心の奥底にたしかめて非である時は、孔子の言葉でも是とはしない、というものであるらしく、独自な境地をいうのだろう。

 その点、朱子学は、究極には、一部のエリートしかできないが、こちらの致良知の思想は異なろう、こちらは誰にでも実行できるとも。
 ちなみに、王の論説には、こうある。

 「「大學」古本乃孔門相伝舊本耳。朱子疑其有所脱誤而改正補緝之、在某則謂其本無脱誤、悉從其舊而已矣。失在於過信孔子則有之、 非故去朱子之分章而削其伝也。夫學貴得之心、求之於心而非也、雖其言之出於孔子、不敢以為是也、而況其未及孔子者乎?求之於心而是也、雖其言之出於庸常、不敢以為非也、而況其出於孔子者乎?
且舊本之傳數千載矣、今讀其文詞、則明白而可通、論其工夫、又易簡而可人、亦何所按據而斷其此段之必在於彼、彼段之必在於此、與此之如何而缺、彼之如何而補?而遂改正補緝之、無乃重於背朱而輕於叛孔已乎?」(「伝習録」中巻:答羅整菴少宰書)

~(書き下し文)~

 「大学」古本は乃ち孔門相伝の旧本のみ。朱子は其の脱誤する所有るを疑って之を改正し、補緝す。某に在っては則ち謂えらく其の本には脱誤無しと、悉く其の旧に従いし而已矣。失は孔子を過信するに在りとは則ち之れ有り、故に朱子の分章を去って其の伝を削るに非ざる也。
夫れ学は之を心に得るを貴ぶ、之を心に於いて求めて非なるや、其の言の孔子に出ずと雖も、敢て以って是となさざる也、而して況んや其の未だ孔子に及ばざる者をや。
 之を心に於いて求めて是なるや、其の言の庸常に出づと雖も、敢て以て非と為さざるなり、而るを況んや其の未だ孔子に及ばざる者をや。
且つ、旧本は之を伝わること数千載なり、今、其の文詞を読むに、則ち明白にして通ずべし、其の工夫を論ずるは、又、易簡にして入るべし。
亦た何の按據する所か在りて其の此の段の必ずや彼に在り、彼の段の必ずや此に在ると此の如何にして欠け、彼の如何にして誤るかとを断じて、遂に之を改正・補緝せんや。
 乃ち朱に背くを重んじて、孔に叛するを軽ずること無からんや。(「伝習録」中巻:「羅整菴少宰に答える書」

 中央政界に復帰後は、主に軍事畑をあゆんていく。流賊の取り締まりや反乱の鎮圧にも携わり、兵部尚書ともなる。

 したがって、総じては、世の中に揉まれていくのをよしとしないのとは異なる、さりとて世の中を取り仕切る権威への迎合するのでもない、かくして陽明学はこれにより最底辺の人にまで広がっていく。

 参考までに、「おまけ」としての人物評という流れなのだろうか、日本の陽明学者で知られ、その大いなる学風の下におおくの弟子を輩出した佐藤一斎(1772~1859)は、(王本人との面識はもちろんないのだが)こう褒め称えている。

 「「楽は是れ心の本体なり」惟(た)だ聖人のみ之(こ)れを全うす。何を以てか之れを見る。其の色に徴(ちょう)し、四体に動く者、自然に能(よ)く申申(しんしん)如(じょ)たり、夭夭(ようよう)如たり。」(佐藤一斎「言志四録」)
 ちなみに、「楽は是れ心の本体なり」とは、王陽明の言葉だとされる。


(続く)

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