299の4『自然と人間の歴史・世界篇』伝染病との闘い(破傷風、ジフテリアなど)
19世紀も残りの約10年にさしかかっていた頃、この方面での世界最先端の研究で知られるドイツのコッホ研究所では、破傷風菌の共生培養説が取り上げられていた。
その場で研究に携わっていた北里柴三郎は、「コッホの4原則」にこだわり、「もし共生培養説により破傷風菌を決められるのなら、純粋培養で微生物を分離できなくても病原菌を特定できることになり、コッホの4原則は誤りだということになる」とし、話を聞いていたコッホ所長も「そう考えるなら、そのことを実験で証明したらどうか」と北里に指示したという。
19世紀も残りの約10年にさしかかっていた頃、この方面での世界最先端の研究で知られるドイツのコッホ研究所では、破傷風菌の共生培養説が取り上げられていた。
その場で研究に携わっていた北里柴三郎は、「コッホの4原則」にこだわり、「もし共生培養説により破傷風菌を決められるのなら、純粋培養で微生物を分離できなくても病原菌を特定できることになり、コッホの4原則は誤りだということになる」とし、話を聞いていたコッホ所長も「そう考えるなら、そのことを実験で証明したらどうか」と北里に指示したという。
そこでのコッホの4原則とは、「 ある一定の病気には、一定の微生物が見出されること」「 その微生物を分離できること」「 分離した微生物を、感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こさせうること」「その病巣部から、同じ微生物が分離されるこ」をいうとのこと。
北里は、破傷風患者のウミを、水素ガスの中で培養するという方法で、ネズミへ接種して得た材料を用い、ペトリ皿で培養を試みてしてみた。しかし寒天平板上には雑菌のみが増殖したようであった。
そこで今度は、寒天が固まる前に材料を入れて混合し、試験管高層培地(試験管を垂直に立てて入れた培地)として培養した。すると試験管の口に近い部分に雑菌が見られるとともに、試験管の底の方には破傷風菌とおぼしきものが沈殿しているのが認められたという、北里は後者に着目した。
そこでさらに工夫が必要と考えての北里は、その試験管を加熱して寒天を溶かし、再び培養を試みる。すると試験管の口に近い部分に増殖していた雑菌は消え、破傷風菌らしき細菌のみが熱に負けない強い芽胞で生き残る形で試験管の底の方に増殖していたという。
こうして1889年に破傷風菌はなんとか発見された訳だが、今度はこれの毒素の中和抗体をつくらないといけないと、研究を続ける。そして迎えた1890年、北里らは、破傷風菌を殺した培養液を注射したネズミの血液中に、破傷風の毒素の働きに抗い、無毒化しうる「抗毒素」がつくられていることを発見する。
こうして1889年に破傷風菌はなんとか発見された訳だが、今度はこれの毒素の中和抗体をつくらないといけないと、研究を続ける。そして迎えた1890年、北里らは、破傷風菌を殺した培養液を注射したネズミの血液中に、破傷風の毒素の働きに抗い、無毒化しうる「抗毒素」がつくられていることを発見する。
なお、この毒素は、後に「テタノスプスミン」と呼ばれる、もう少し詳しくは、例えば、「中原英臣(なかはらひでおみ)・佐川峻(さがわたかし)「脳ー最後の秘境への案内」株式会社グラフ社、1997を推奨したい。
そこで、かかる抗毒素を含んだ血清(毒素を無毒、弱毒化したもの)を少量ずつ人に注射すると、破傷風を治すのに成功した。体内でその抗体が作られ、病気の治療や予防が可能になったということで、「血清療法」と呼ばれる。
また、こうしてできた血清療法は、破傷風菌にとどまらず、ジフテリアにも応用できることがわかり、北里は、同じ研究室にいて、ともにジフテリアの純粋培養に成功したエミール・フォン・ベーリングと連名の論文「動物におけるジフテリアと破傷風の血清療法について」を発表する。
この一連の功績により、北里は、一躍国際的な研究者としての名声を博すことになる。はたして、その破傷風の血清療法では、ベーリングが北里の研究を知り、すぐさまというか、北里に先んじてジフテリアの毒素を使って、北里とほぼ同様の実験を行い、ジフテリアの治療法を見つけた、その業績が評価され、1901年に第一回のノーベル医学賞がベーリング一人に与えられたのだが、北里はそのことを不満に思うような人ではなかったようだ。
(続く)
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