♦️159の2『自然と人間の歴史・世界篇』陽明学(王陽明、16世紀)

2021-01-26 10:24:11 | Weblog
159の2『自然と人間の歴史・世界篇』陽明学(王陽明、16世紀)

 王陽明(おうようめい、1472~1529)は、明代の儒学者にして、思想家だ。明の高級官僚、その中で学者の子として生まれる。幼い時から、科挙合格を目指して、その頃の「官学」であった朱子学を中心に学ぶ。
 そのうちに、形式的、権威的な朱子学になじめず、一時仁侠・兵法・詩文・道教・禅宗などに耽溺したという。なにしろ、才気活発であったようだ。
 28歳で進士に及第して官僚となる。エリートへの道を目指していたのかどうなのか、35歳の時、悪宦官を批判して、皇帝の怒りをかい、貴州省の山奥の竜場に左遷された。

 とにもかくにも仕方ない。骨の折れる、厄介な仕事は、そんなになかったのではないか。山懐の場所なので静謐ないしは閑静な環境にして、思索にはもってこいの環境ではなかったか。

 ここで、北宋の程の「万物一体の仁」の思想と南宋の陸九淵の「心即理」説とに影響を受けつつ、ひたすら勉強したようた。そして、儒学の一派としての陽明学を創始するのであった。

 その学風だが、心即埋・知行合一・致良知(良知というのほ、全ての人間の中に存在するもので、是非の判断する能カ)をいうらしい。これをらを束ねて、「竜場の一悟」と号す。

 まずは、「心即埋」というのは、なんだろう。王によると、「心は即ち理なり。天下また心外の事、心外の理あらんや」とされ、私見では、心を落ち着かせて物事、事象を観察するうちに、なにかしら見えてくる、ということなのであろうか。

 次なるは、「知是行的主意、行是知的功夫、知是行之始、行是知之成。」とあるのは、書き下し文で「知は是(これ)行の主意、行は是知の功夫(くふう)、知は是行の始はじめにして、行は是知の成るなり。」と読まれている。
 今日でいうところの現代哲学「プラグラティズム」の主旨と、なにかしら類似しているのではないだろうか。

 それに、致良知というのも、ことさらのことではないようだ。ある解説によると、心の奥底にたしかめて非である時は、孔子の言葉でも是とはしない、というものであるらしく、独自な境地をいうのだろう。

 その点、朱子学は、究極には、一部のエリートしかできないが、こちらの致良知の思想は異なろう、こちらは誰にでも実行できるとも。
 ちなみに、王の論説には、こうある。

 「「大學」古本乃孔門相伝舊本耳。朱子疑其有所脱誤而改正補緝之、在某則謂其本無脱誤、悉從其舊而已矣。失在於過信孔子則有之、 非故去朱子之分章而削其伝也。夫學貴得之心、求之於心而非也、雖其言之出於孔子、不敢以為是也、而況其未及孔子者乎?求之於心而是也、雖其言之出於庸常、不敢以為非也、而況其出於孔子者乎?
且舊本之傳數千載矣、今讀其文詞、則明白而可通、論其工夫、又易簡而可人、亦何所按據而斷其此段之必在於彼、彼段之必在於此、與此之如何而缺、彼之如何而補?而遂改正補緝之、無乃重於背朱而輕於叛孔已乎?」(「伝習録」中巻:答羅整菴少宰書)

~(書き下し文)~

 「大学」古本は乃ち孔門相伝の旧本のみ。朱子は其の脱誤する所有るを疑って之を改正し、補緝す。某に在っては則ち謂えらく其の本には脱誤無しと、悉く其の旧に従いし而已矣。失は孔子を過信するに在りとは則ち之れ有り、故に朱子の分章を去って其の伝を削るに非ざる也。
夫れ学は之を心に得るを貴ぶ、之を心に於いて求めて非なるや、其の言の孔子に出ずと雖も、敢て以って是となさざる也、而して況んや其の未だ孔子に及ばざる者をや。
 之を心に於いて求めて是なるや、其の言の庸常に出づと雖も、敢て以て非と為さざるなり、而るを況んや其の未だ孔子に及ばざる者をや。
且つ、旧本は之を伝わること数千載なり、今、其の文詞を読むに、則ち明白にして通ずべし、其の工夫を論ずるは、又、易簡にして入るべし。
亦た何の按據する所か在りて其の此の段の必ずや彼に在り、彼の段の必ずや此に在ると此の如何にして欠け、彼の如何にして誤るかとを断じて、遂に之を改正・補緝せんや。
 乃ち朱に背くを重んじて、孔に叛するを軽ずること無からんや。(「伝習録」中巻:「羅整菴少宰に答える書」

 中央政界に復帰後は、主に軍事畑をあゆんていく。流賊の取り締まりや反乱の鎮圧にも携わり、兵部尚書ともなる。

 したがって、総じては、世の中に揉まれていくのをよしとしないのとは異なる、さりとて世の中を取り仕切る権威への迎合するのでもない、かくして陽明学はこれにより最底辺の人にまで広がっていく。

 参考までに、「おまけ」としての人物評という流れなのだろうか、日本の陽明学者で知られ、その大いなる学風の下におおくの弟子を輩出した佐藤一斎(1772~1859)は、(王本人との面識はもちろんないのだが)こう褒め称えている。

 「「楽は是れ心の本体なり」惟(た)だ聖人のみ之(こ)れを全うす。何を以てか之れを見る。其の色に徴(ちょう)し、四体に動く者、自然に能(よ)く申申(しんしん)如(じょ)たり、夭夭(ようよう)如たり。」(佐藤一斎「言志四録」)
 ちなみに、「楽は是れ心の本体なり」とは、王陽明の言葉だとされる。


(続く)

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