新♦️360の5『自然と人間の歴史・世界篇』電信、電話の発明(1837~1876)

2021-01-15 10:31:19 | Weblog
新360の5『自然と人間の歴史・世界篇』電信、電話の発明(1837~1876)
 
 有線通信というのは、銅線を空中に張って端末に電源を繋げれば、送信機の手指の操作によって電気信号を相手に送ることが出来る。
 そのとっかかりは、1837年、アメリカのサミュエル・モールス(1791~1872)に始まる、電信機を使っての電信の原理は、長い導線の一端から電流を断続させて、他端にある電磁石の磁気を変化させることにより信号を送る仕組みのことだが、その原理としては電磁誘導(でんじゆうどう)作用といって、ヘンリーが発見した物理法則だ。
 それを知ったモールスは、ヘンリーの技術指導により電信機を発明。その機械は、文字や数字を、電流が短く流れるdot(トン)、長く流れるdash(ツー)、この二つの組み合わせで、アルファベット或いは、イロハ48文字、それに数字なとを表現するもので、この考案により、1840年に特許を得た。
 
 発明者の名をとって、「モールス信号」といわれるこの伝達方式は、1844年には、世界初の遠距離(ワシントン~ボルチモア間)電信が行われた。当初は、直接トン・ツーを打鍵していたが、キーボードからモールス符号を紙テープに穿孔して送信する自働電信機や、受信側で音響器の送信音でモールス符号を聞き分けて通信文を記録する音響電信機など、多様な改良が行われた。

 その後の1850年にドーバー海峡を結ぶ海底ケーブルが敷設され、今日に続く国際通信の基礎となっていく。

 その基礎工事でいうと、アメリカの西部劇「西部魂」(フリッツ・ラング監督、1941)でのように、電信会社の労働者、技師が銅線を鉄道網に沿って空中に張っていくのだが、なにしろ架設の距離たるや大変な長さであったことだろう。

 しかして、これに影響を受けた一人にアメリカ人のトーマス・エジソン(1847~1931)が、いた。その少年期の15歳の時のエピソードが、広く伝わる。 
 折しも南北戦争の最中、それより前の1859年に車内売り子となっていた彼は、戦争の様子を知りたがる民衆の心を先取りして、鉄道沿線の駅に電報を打ち、その様子を記したニュース記事の見出しを掲示板を貼り出してもらっておく。そこへ新聞を持った列車が到着して新聞を売れば、人々は争ってその新聞を買うはずだと考えた。
 
 このもくろみが当たって彼は、大儲けしたという。エジソンはまた、1862年のある日、マウント・クレメンス駅(ミシガン州)で、駅長の息子が線路に遊んでいたところに列車が迫ってくるのを、線路に飛び込んで、間一髪でそこ子供を助けた。そのことのお礼として、駅長が電信技術を教えたいと申し出てきたという。エジソンとしても「渡りの船」であったらしく、電信を学び、ポートヒューロンで電信局をひらく。

  そして迎えた1876 年2月14日、アメリカのアレクサンダー・グラハム・ベル(1847~1922)とエリシャ・グレイ(1835~1901)は、わずか2時間の差でもって電話の特許を申請し、本人ではなく彼の弁護士が代行して申請したベルの方が特許を取得、電話の発明者と認められたという。しかも、ベルは、その時まだ電話の完成にいたってなかった。なぜなら、彼の特許申請範囲の大半が「多重電信装置」関係にとどまっていたというから、驚きだ。
  そして迎えた3月10日、実験室にてベルの「ワトソン(トーマス・ワトソン)君、ちょっと来てください。用があります」という声が、電線を通じて聞くことができたとされている。
 その実験中、うっかりしてズボンに希硫酸をこぼしてしまったことから助手に助けを求めたということらしい。そのため、その希硫酸はグレイが申請した内容、つまり適度な電気抵抗を持つ液体に針を立て、音声信号に針の動きが連動することとの関連性があったのかもしれないと。
 
 その後も、各方面で開発競争が続く。ベルの電気振動の実験の中では、電磁石に近接して置いた鋼鉄ばねの振動が電流を誘発し、それが電線を伝わって受信側の電磁振動板を動かし音が伝わる筈だった。言い換えると、この発明では、磁性材料(鉄)の芯のまわりにコイルを巻いた電磁石に通電することによって一時的に磁力を発生させる動作原理にて、かたや送信側の振動板(送信板)が声で揺れると、電磁石に電流が流れて、受信側の電磁石が振動板(受信板)を動かす仕組みとなっている。

   1877年4月には、トマス・エジソンがベルの電話機を改良し、炭素型マイクロフォンの特許を申請した。一方、ベルと彼の最大の支援者ハバードは協力して電磁石形の電話機で大衆の前でデモンストレーションを行うなどして自信を深め、1877年7月にはリース制で電話機を顧客に提供する任意組合ベル電話会社(後のAT&T)を設立する。
  これに対して当時最大の電信会社であったWU社は、グレイの受話器やエジソンの受話器の特許を手に入れるとともに、エジソンを顧問に迎え、1877年12月にAST社を立ち上げる。こうした経緯の下に迎えた1878年2月、両社はうまみのある電話市場の争奪に突入していく。

  1878年9月、ベル社は特許権侵害をAST社に向け提訴、その中で炭素式マイクに関するエジソンの特許は無効であると主張した。あれやこれやの論点が出てきて、後世に「ダウド訴訟」と呼ばれた、この裁判は、引き続いて電話機の開発競争が進められる中で進められる。そして1879年5月にいたって、和解が成立する。

 その主な内容は、AST社はベル特許の優先権を認め、電話事業から撤退する、一方、ベル社は電信事業への参入を控える。AST社が保有する5万6千台の電話機をベル社が買い取るとともに、ベル社は電話事業から上がる利益の20%をWU社に17年にわたって支払うというもの。
  こうしてベルは、「電話機の原理的発明者」として名をはせることができた。
 
(続く)
 
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