♦️360の1の10『自然と人間の歴史・世界篇』不確定性原理(ハイゼンベルク、1927)

2021-01-18 22:29:01 | Weblog

360の1の10『自然と人間の歴史・世界篇』不確定性原理(ハイゼンベルク、1927)

 量子力学といえば、ミクロの世界を取り扱う、その中から「不確定性原理」と呼ばれる式として2つある、これらについて、まずは、物理学者ハイゼンベルク(1901~1976)が発表したのが、こうある。

 

εq×ηp≧h/4π(1)

 

それからもう一つ、同時代の物理学者ケナードが導いた式が、次のとおり。

 

σq×σp≧h/4π(2)

 

 この2つの式のもたらす意味の違いとしては、まずは、ハイゼンベルクの式は、物体の位置を測ったときの正しい値からのずれ(εq)と、測定によって引き起こされる運動量の乱れ(ηp)とは、互いにトレードオフ(背反関係)の関係にある。実験器具の良し悪しには、関係がないという。
 いうなれば、位置を正確に測れば測るほど(ありていにいうと、はっきりさせるほど)、運動量の乱れは大きくなり(同じく、不確定になっていく)、両方を正確に知ることはできないのだという。

 

 次に、ケナードの式は、「物体の位置のゆらぎσqと運動量のゆらぎσpは、ある一定以上に小さくすることはできない」というのであって、こちらは量子力学による結論の一つそのものであるという。いうなれば、極微の世界での物質の振る舞いには、測定とは関係なく、曖昧さがつきまとう。位置も運動量も決まった値にはならず、ある幅でゆらいでいるという。

 なおのこと、ここでいわれるのは、ミクロの世界では、そこでの事象がどうなっているかを、一定以上の精度で測れないというのであって、古典物理学でいうところの話とは大いにことなる。

 それは、電子など粒子の位置を知るには光を当てる必要があるが、その光の影響で電子の運動量(速度)の測定誤差が大きくなるからだという。かくして、正確な位置と運動量を同時に知ることは不可能との立場なのであり、その事象の観察者にとっては、やるせなさを感じることなのであろう。

 そういう認識の空白を生じかねないことへの問題意識からか、その後の報道によると、例えば、ある「研究グループは人工的に発生させた中性子の持つ磁石の性質を2台の装置で観測する実験で、中性子の状態を精度良く測れる方法があることを突き止めた」というように、不確定性原理とは矛盾する向きの話が相次いでいるようだ。

 

 

(続く)

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♦️279の7『自然と人間の歴史・世界篇』蒸気機関車の発明(スチーブンソン、1814)

2021-01-18 21:49:17 | Weblog

279の7『自然と人間の歴史・世界篇』蒸気機関車の発明(スチーブンソン、1814)


 ジョージ・スチーブンソン(1781~1848)は、スコットランドとの境界に近いイギリス中部のニューキャッスル近郊の炭鉱町ワイラムで生まれた。父親は、炭鉱の蒸気機関車の火夫だった。当時の蒸気機関は、ロープの巻き上げなどに使われていた。

 1803年には、イギリスで初めてのレールの上を走る蒸気機関車が、トレビシックの設計によりつくられた。ある製鉄会社が、これを聞いて、10トンの貨物を積んだ貨車を何両か引いて走ったものの、時速8キロメートル位といったところか。
 その後の1812年には、ブレンキンソップが、摩擦の考えなくしてか、車輪が歯車になっている蒸気機関車を発明したものの、速度が上がらず、車輪はやっぱりなめらかな方がよろしいとの話であったようだ。


 1813年、今度は、ヘッドレーとブラケットの二人が考案した蒸気機関車が、なめらかな車輪にてレールを走るものとして登場。実用では、石炭を積んだ貨車14両を引いて、時速8キロメートルで走ることができたことから、その後の53年間にわたり、ワイラム炭鉱において石炭を運んだという。
 さて、彼の方は、22歳で憧れの機関手になり、24歳にはキリングウォース炭鉱に移る。そして、炭鉱主に認められて技師に昇格する。
 それからは、会社の期待を担ってというか、蒸気機関車の設計にとりかかる。やがて、構内での石炭運びに成功した。一説には、そのころの話として、友人に、「いまにイギリス中を驚かせることになるよ」と語っていたという。やがての1814年には、一つの蒸気機関車をつくるのに成功する。伝承によると、その機関車は、30トンの石炭を七つの貨車に積み込んで、時速6.5キロメートルという、馬よりやや劣る速度で走ったという。

 おりしも、その頃はまだ、ストックトンの港までの石炭の輸送は、馬車が使われていた。なので、コストがとても高くついた。炭鉱主たちは、運河を建設して船で石炭を運ぶプランを考えたりもしたのだが、運河の建設よりも安くつく鉄道を造る計画を立てた。
 そうこういう間に、ダーリントンというところに、炭鉱を持っているビーズという経営者が、ダーリントンの川沿いの港まで、石炭を運ぶために鉄道をしこうとしている話を聞く。
 そこで、スチーブンソンは、自分たちの蒸気機関車が使えると信じ、ビーズに働きかけたというのだが。
 それが功を奏した形で、認められ、スチーブンソンはビーズの工場に出向いて蒸気機関車づくりに精をだしていく。
 そして迎えた1825年9月27日、ストックトンとダーリントン間の鉄道の開通式が行われ、馬車と蒸気機関車との共用鉄道として開業した。かくして、スチーブンソンの設計した蒸気機関車は、彼自身の運転にて客車と、その後の27両の貨車を引っ張って進み、無事ダーリントンに着いた。
 
 なお、蒸気機関車がどのようにして動くのかということでは、石炭を燃やした熱で水をあたため水蒸気を発生させ、その力を使ってピストンを前後に往復運動させる。この運動が主連棒(しゅれんぼう)によってレールの上にのる動輪の回転運動に変えられる。
 この仕組みをもう少し細かにいうと、まずは、火室に石炭をくべて燃やす。そこで生じた熱いガスが、火室から煙管を通って煙室へと送られる。その間に、ボイラー煙管の周りにはりめぐらされた水が熱せられて蒸気になる。その蒸気は、パイプを通ってシリンダー(気筒)に入り、それが力となってピストンを動かす。
 これに関連するのが、ピストンと連携して左右に移動する弁の働きであり、いま弁が片側に動いていて、シリンダーの片側に蒸気が入り込みピストンを押すと、ピストンのもう片側の空気は排気孔(はいきこう)から放出されよう。
 次の場面では、弁は前とは逆に動き、これまた前とは反対側から蒸気が入ってピストンを押すと、同じ側にある空気を排気孔から放出するという訳だ。

 

 なお、「蒸気機関のしくみ」(例えば、ジョナサン・ラットランド著、金塚貞文訳「鉄道」ゆうがく科学館5、祐学社、1975)なり、「蒸気機関車のしくみ」(例えば、日本児童文芸家協会編「世界を驚かした10の発明」世界のノン・フィクション7、金の星社、1968)なりに、図を用いての動作原理、実際の姿に関しての丁寧な説明がなされているので、おおよそのイメージをつかむにはそちらも便利だと考える。

(続く)


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♦️223の3『自然と人間の歴史・世界篇』蒸気機関の発明(ジェームス・ワット、1776)

2021-01-18 19:13:35 | Weblog
223の3『自然と人間の歴史・世界篇』蒸気機関の発明(ジェームス・ワット、1776)

    ジェームス・ワット(1736~1819)は、スコットランド・グリノックに生まれる。1754年からは、ロンドンで機械製造の技術を学ぶ。

 1757年には、グラスゴー大学の計測機器を製作する職人として、職を得る。そのきっかけとしては、同大学に導入された天文学機器を調整したことがきっかけで教授達に腕を見込まれ、同大学の中に小さな工房を開く。

 これにあわせて、1763年からは、ニューコメンにより発明された蒸気機関の修理を経験したことから、興味を持ち、動力機関としての蒸気機関の研究に取り組む。これには、大学内にも、知人が幾人もできるなど、学問的な雰囲気も助勢したのではあるまいか。

 1765年には、シリンダーと復水器を分離させる分離凝縮器の開発に取りかかる。そのうちに、シリンダー内で温められた蒸気を別の容器に移動させることで、シリンダー内は高温を保ち、蒸気を移動させた容器は低温を保つ「分離凝縮器」を開発する。

 1712年に発明された蒸気機関では、蒸気で作動はするものの、仕事をするのは大気の圧力である。これによりシリンダ内を減圧させ真空状態を作るときには、シリンダ内部に水を噴射させるため、蒸気と共にシリンダも冷えてしまう。
 これに対し、ワットの考案したのは、ピストンが上昇した後、バルブを切り替えてシリンダーと凝結器を連通すると、蒸気が凝結器に入って凝結する、そうなると、シリンダー内へ水を噴射することなく、シリンダー内の圧力を下げることができる。
  ワットはまた、コンデンサー(復水器)と呼ばれる別室をつくる。そこにシリンダからの蒸気を導く。そうして蒸気を冷やすことで、より効率的な働きとなっている。


(続く)

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♦️140の5『自然と人間の歴史・世界篇』血液循環の発見(1628)

2021-01-18 09:23:45 | Weblog

140の5『自然と人間の歴史・世界篇』血液循環の発見(1628)


 1628年、イギリス人医師ウィリアム・ハーヴェイ(1578~1657)が、人体の血液の循環説を発見した。

 これに先立つ血液循環にまつわる学説は、ガレノス医学に始まるという。2世紀に活躍したガレノスによれは、血液は肝臓で次から次へとつくられる。そして、心臓からたえまなく送り出される。発生した血液は、全身の各部まで移動して、そこそこで栄養分なりが消費されるため、循環することはないと考えた。
 1514年生まれの、現在のベルギーのアンドレアス・ベサリウス(ヴェサリウス)は、ベルギー、ルーバン大学の解剖学教授であった時、秘密裏に人体解剖を行うことで、聖書に述べられているような「男の肋骨」は一本として欠けておらず、その肋骨から女をつくったというのは誤りであるなどの事実を発見したという。その後にイタリアのバドア大学に移り、1543年に「人体の構造について」を発表した。

 それから10年の後、今度はベサリウスの友人で、パリで研究を続けていたセルベッスが、「キリスト教の回復」を出版する。その中では、ベサリウス以上に人体の構成、内容を記したのだと伝わる。これを危険とみたキリスト教会は、セルベッスを捕らえ縛り首にし、彼の本とともに焼き殺したという。

 しかし、真理というものは、科学的に究明されなければならない。そうした彼らの志を引き継いだのが、前述のハーヴェイであった。彼は、バドア大学のファブリウスの解剖学研究室にはいり、先達の苦労を聞いて感動、そこで知見を養ううち、やがて自由な研究が可能とみられるイタリア行きを目指す。


 ハーヴェイは、血液は循環しており、一方向に流れているはずであるとの命題を立証しようと研究に没頭する。その後の1602年、故郷のイギリスに渡り、ロンドンのセント・バーソロミュー病院の医師として働きながら、研究を続ける。動物の心臓を調べ、また血液が赤いときと黒いときとの違いなどを突き詰めていく。
 そしてついに、大静脈を結束すれば、心臓には血液がなくなる。また、大動脈を結束すれば、血液は心臓に停滞し、全身に血液が流れなくなる、すなわち血液は全身を駆け巡って循環していることを立証したのであった。



(続く)

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