♦️66の3『自然と人間の歴史・世界篇』古代ギリシアの自然観(デモクリトス、アリストテレスなど)

2021-01-22 16:46:08 | Weblog
66の3『自然と人間の歴史・世界篇』古代ギリシアの自然観(デモクリトス、アリストテレスなど)

 古代ギリシアにおいては、自然に出来上がりについての議論が、あれこれと、たたかわされていたらしい。
 その中でも際立つ自然哲学者がいて、その名をデモクリトス(紀元前470年頃~?)という。彼は、トラキア地方(現在のバルカン半島南東部)のアブデラの生まれ。市民の家の出身であったのではないだろうか、自然哲学者で原子論を創始したレウキッポスを師として原子論を学ぶ。彼はまた、「スペルマタ」を説いたアナクサゴラスの弟子でもあったと伝わる。

 その人生については、大方謎に包まれているようだ。それでも、一説には、財産を使いはたして故郷の兄弟に扶養された時期があったものの、やがてその著作の公開朗読や弁論などにより収入を得るに至った、ともいう。また彼は、その博識のために民衆からは「知恵(ソフィア)」と呼ばれ、「知恵ある者(ソフィスト)」の先鞭をつけられた一人でもあったようだ。

 彼が関わった最も有名な話としては、自然が何によって構成されるかを巡る議論ではないだろうか。デモクリトスは、こう述べている。

 「魂は、それを構成する原子から成り立つが、それら原子は小さく球形をなし、きわめて動きやすく、魂を構成する原子群塊は他のすべての原子群塊よりもはるかに動きやすい。」(広川洋一「ソクラテス以前の哲学者」講談社学術文庫、1997)

 これにあるように、物質だけでなく、魂すらも原子から構成されているというのか、かれの物質観だ。その上で、すべての原子は、等質で、世界の多様性は、原子の形態と配列と位置から生まれる。これは原子と空虚の二元論、あるいは空虚を無視すれば原子一元論といってもよい。
 とはいえ、アトム(古代ギリシア語ていうatom)とは、これ以上分割できないものを意味する。しかし、デモクリトスが生きた頃の古代ギリシア前半期の物質観は、原子論は、自然の観察というよりは、直感と想像力によるもので、いわば、大方は意識の中でつくられたのであろう。


 これにつき、自然の四元素を説くアリストテレスは、こう紹介している。

 「レウキッポスとその仲間のデモクリトスとは、「充実体」(アトム)と「空虚」とがすべての構成要素であると主張し、前者を「有るもの」(存在)だといい、後者を「有らぬもの」(非存在)だといった。
 すなわちこれらのうちの充実し凝固しているもの「固体すなわち原子」は有るものであり、空虚で希薄なものは有らぬものだとしている(だから彼は「有らぬものは有るものに劣らず有る」ともいっている、というのは空虚の有るは物体(充実体)の有るに劣らず、との意てある)、そしてこれらをすべての事物の質料としての原因できあるとしている。」(アリストテレス「形而上学」)

 また、タレスは、万物の根源(アルケー)は水であるとした。そのうちに、アルケーは空気である、火である、土であるとの単独説がそれぞれ別に唱えられるのだが。
 その後には、エンペドクレスが、アルケーというのは、火・空気(風)と水それに土の四から成るとの、いわゆる四元素説を唱える。

 さらに、アリストテレスは、この説を継承した上で、かかる四種のリゾーマタ(物質)は「湿・乾」、「熱・冷」の四つの性質うち、いずれか一つずつの組み合わせにより、「地・水・空気・火」のどの元素になるか決まるという(「形而上学」)。
 具体的には、湿と熱 から 空気が、湿と冷 から 水が、乾と熱 から 火が、乾と冷 から地がつくられるとした。
 そして、この自然四元素説が、それからヨーロッパの中世を経て、近世に至るまでの社会において、抗い難い権威をもって重きをなし続けていく。

 そのアリストテレス(紀元前384~322)だが、トラキア地方のスタゲイロスの生まれ。
 紀元前367年には、アテナイに行き、プラトンの設立したアカデメイアに入門し、プラトンが死ぬまでの約20年間、アカデメイアに学ぶ。
 プラトン亡き後には、アテナイを去る。それからかなり経っての紀元前347年には、マケドニア王フィリッポス2世に招聘され、アレクサンドロス3世の家庭教師を務める。
 紀元前335年にアテナイに戻る。「リュケイオン」という学園を設立したと伝わる。
 紀元前323年にアレクサンドロス大王が死去すると、反マケドニア気運が盛り上がり国家不敬罪で訴えられアテナイを去り、母の故郷エウボイア島へ行き、そこで没.

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
♠️第二部

 デモクリトスが原子の存在を予見してからの、やがて原子の発見へ至るごく大まかなプロセスとしては、こうある、
 1789年には、フランスのラヴォアジエが、「可燃性気体」と酸素とが化合して水が生成し、またこの水にしても、赤熱した鉄に水滴をたらしてその水を酸素と水素に分解し、かつ、両者の質量の和が元の重さに等しいことを定量実験で実証した。そのことで、水は酸素と水素の化合物であること、したがって水は元素ではないことが明らかとなる。
 1800年には、イギリスの化学者ドルトンが、 原子論を化学の分野に適用する。19世紀末には、イギリスのクルックスが、 陰極線管を発明して、電子の各種現象を説明する。
 1897年には、イギリスのJ.トムソンが、 陰極線管の実験を通じ、電子の存在を確認する。
 1909年には、イギリスのラザフォードが、原子核の存在を確認する。
 1913年には、デンマークの物理学者ニールス・ボーアらが、原子の惑星仮説を提起する。ちなみに、彼の水素原子核模型でいうと、真ん中に原子核兵があり、電子はその周りを決められた半径1922年、ボーアはまた、原子核の形について説明を試みる。
 1923年には、フランスのルイ・ド・ブロイは、電子の波動性を提案する。
 1926年には、オーストラリアのシュレーディンガーが、原子の電子軌道を数学的に解明してみせた。
 1927年には、ドイツのハイゼンベルクが、自身の提起した「不確定性原理」を通じた電子軌道の安定性をいう。いうなれば、例えば、電子が、半径1オングストローム程度の球の中の、どの部分に頻繁に存在し、どのあたりには少なく漂っているかは、判明しているというのだ。
 1965年には、アメリカのファインマンが、量子エレクトロニクス力学を提唱する。1990年には、アメリカのコンビューター会社のIBMが、  原子を見ることができる顕微鏡を制作し、原子を粒子単位で撮影することに初めて成功する。

(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆