♦️259の4『自然と人間の歴史・日本篇』幕末・維新の群像(大村益次郎、河合継之助、高橋景保など)

2021-01-23 22:30:18 | Weblog
259の4『自然と人間の歴史・日本篇』幕末・維新の群像(大村益次郎、河合継之助、高橋景保など)

 くりかえすが、德川慶喜(とくがわよしのふ)は、新政府に対する恭順の姿勢を表し、上野寛永寺に蟄居した。
 そこで、おそらくはこれに幾分かは不満を持ちながらも、慶喜を守ろうとする幕臣の一部らが寄せ集まって、上野にこもる、これを彰義隊という。
  幕府により江戸市中取締の任を受けて治安維持をおこなうものの、新政府軍は潰す機会を狙っていたのだろう。いざこいが絶えなかった。
 
 そういうことだから、慶喜が許されて上野から水戸へ移る。そこで、均衡が破れ、双方の間で戦いがおきるのだが、新政府軍は攻めあぐねる中、早期の決着をめざして、大村益次郎(村田蔵六、おおむらますじろう、1824~1869)を呼ぶ。


 その大村は、元はといえば町医の家に生まれる。やがて、妻の実家の村田家を継ぐ。18歳の時、防府(ほうふ、現在の山口県防府市)のシーボルトの弟子にして蘭法医の梅田幽斎(1809~?)の門下生となり、ここで医学と蘭学を学ぶ。
1846年(弘化3年)になると、大坂の緒方洪庵(1810~1863)に蘭学を学ぶ。洪庵の適塾では塾頭までなる。

 1853年(嘉永6年)には、長州藩とも親和的な付き合いのある宇和島藩に出仕し、蘭学の教授を担う、一説には、軍政改革に参画していたようだ。その後講武所教授として幕府に出仕するも、1860年(万延元年)には、萩藩の雇士となる。

 第2次長州征討には石州口軍事参謀として活躍し、休戦後は藩の軍制改革を担う。1869年(明治2年)には、その有能さを認められ、兵部大輔として兵制の近代化に着手していた。

 要は、幕府の長州征伐のおりに、石州口で幕府軍をやぶるのに大功があったのが、江戸へと向かう新政府軍になくてはならない存在視された。その人物が、戦略的な思考にたけた大村に他ならない。

 かくて、大村は倒幕軍の総司令官となり、彼の指揮する新政府軍が上野の山に立てこもる彰義隊に総攻撃を開始し、わずか1日で彰義隊は壊滅した。
 その時活躍したのが、山を死守する旧幕府軍に対して、本郷の高台からアームストロング砲などであった、すなわちこれは、早々の近代戦なのであったろう。

 かくて、銃火に勝る新政府軍の前に敗退し、江戸幕府の実質的支配がここに終わる。 

 そんな「ばく進」中のように外からは見えていたであろう大村は、1869年(明治2年)、京都本屋町で凶徒の襲撃にあい、負傷し、大阪に送られる、大阪仮病院で足を切断するも、敗血症を併発し、力尽きた。
 その大村は、死にのぞんて適塾にいた頃を思い出してのことだろう、恩師の緒方洪庵のそばに葬ってほしいと遺言したという。その気持ちをくんでか、彼の切断した足は洪庵の墓(現在の大阪市北区東寺町の竜海禅寺)のそばに埋められ、その場所には現在、「大村兵部卿埋腿骨之地」と刻んだ石碑がたっているという。


(続く)

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♦️299の4『自然と人間の歴史・世界篇』伝染病との闘い(破傷風、ジフテリアなど)

2021-01-23 21:02:49 | Weblog
299の4『自然と人間の歴史・世界篇』伝染病との闘い(破傷風、ジフテリアなど)

 19世紀も残りの約10年にさしかかっていた頃、この方面での世界最先端の研究で知られるドイツのコッホ研究所では、破傷風菌の共生培養説が取り上げられていた。
 その場で研究に携わっていた北里柴三郎は、「コッホの4原則」にこだわり、「もし共生培養説により破傷風菌を決められるのなら、純粋培養で微生物を分離できなくても病原菌を特定できることになり、コッホの4原則は誤りだということになる」とし、話を聞いていたコッホ所長も「そう考えるなら、そのことを実験で証明したらどうか」と北里に指示したという。
 そこでのコッホの4原則とは、「 ある一定の病気には、一定の微生物が見出されること」「 その微生物を分離できること」「 分離した微生物を、感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こさせうること」「その病巣部から、同じ微生物が分離されるこ」をいうとのこと。
 北里は、破傷風患者のウミを、水素ガスの中で培養するという方法で、ネズミへ接種して得た材料を用い、ペトリ皿で培養を試みてしてみた。しかし寒天平板上には雑菌のみが増殖したようであった。

 そこで今度は、寒天が固まる前に材料を入れて混合し、試験管高層培地(試験管を垂直に立てて入れた培地)として培養した。すると試験管の口に近い部分に雑菌が見られるとともに、試験管の底の方には破傷風菌とおぼしきものが沈殿しているのが認められたという、北里は後者に着目した。
 
 そこでさらに工夫が必要と考えての北里は、その試験管を加熱して寒天を溶かし、再び培養を試みる。すると試験管の口に近い部分に増殖していた雑菌は消え、破傷風菌らしき細菌のみが熱に負けない強い芽胞で生き残る形で試験管の底の方に増殖していたという。

 こうして1889年に破傷風菌はなんとか発見された訳だが、今度はこれの毒素の中和抗体をつくらないといけないと、研究を続ける。そして迎えた1890年、北里らは、破傷風菌を殺した培養液を注射したネズミの血液中に、破傷風の毒素の働きに抗い、無毒化しうる「抗毒素」がつくられていることを発見する。

 なお、この毒素は、後に「テタノスプスミン」と呼ばれる、もう少し詳しくは、例えば、「中原英臣(なかはらひでおみ)・佐川峻(さがわたかし)「脳ー最後の秘境への案内」株式会社グラフ社、1997を推奨したい。
 
 そこで、かかる抗毒素を含んだ血清(毒素を無毒、弱毒化したもの)を少量ずつ人に注射すると、破傷風を治すのに成功した。体内でその抗体が作られ、病気の治療や予防が可能になったということで、「血清療法」と呼ばれる。

 また、こうしてできた血清療法は、破傷風菌にとどまらず、ジフテリアにも応用できることがわかり、北里は、同じ研究室にいて、ともにジフテリアの純粋培養に成功したエミール・フォン・ベーリングと連名の論文「動物におけるジフテリアと破傷風の血清療法について」を発表する。

 この一連の功績により、北里は、一躍国際的な研究者としての名声を博すことになる。はたして、その破傷風の血清療法では、ベーリングが北里の研究を知り、すぐさまというか、北里に先んじてジフテリアの毒素を使って、北里とほぼ同様の実験を行い、ジフテリアの治療法を見つけた、その業績が評価され、1901年に第一回のノーベル医学賞がベーリング一人に与えられたのだが、北里はそのことを不満に思うような人ではなかったようだ。

(続く)


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