331の2『自然と人間の歴史・日本篇』日本からの国際連盟脱退(1933)
せっかく設立された国際連盟後なのだが、1930年代に入ってからは、しだいに有名無実の状態へと変化していく。中でも、ファシズムに傾いた日本、ドイツ、イタリアが脱退する。さらにソ連も除名されるなどして有名無実となっていく。
これらのうちドイツは、1926年に際連盟への加盟を認められていたものの、1933年10月にのヒトラー政権は、軍縮会議に組みせずに、再軍備を目指した独自の道を歩むべく、脱退してしまう。また、イタリアは、1937年にエチオピアへ進攻したのを同連盟に咎められたのを契機に、これまた脱退を通告するのであった。
さらに、1933年の日本の国際連盟脱退については、「満州事変」絡みのものであったことが、判明している。
「本年二月二十四日臨時総会の採択せる報告書は、帝国か東洋の平和を確保せんとする外何等意図なきの精神を顧みさると同時に、事実の認定及之に基く論断に於て甚しき誤謬に陥り、就中九月十八日事件当時及其の後に於ける日本軍の行動を以て自衛権の発動に非すと臆断し、又同事件前の緊張及事件後に於ける事態の悪化か支那側の全責任に属するを看過し、為に東洋の政局に新なる紛糾の因をつくれる一方、満州国成立の真相を無視し、且同国を承認せる帝国の立場を否認し、東洋に於ける事態安定の基礎を破壊せんとするものなり。(中略)
帝国政府は平和維持の方策殊に東洋平和確立の根本方針に付、連盟と全然其の所信を異にすることを確認せり。 仍て帝国政府は此の上連盟と協力するの余地なきを信し、連盟規約第一条第三項に基き帝国か国際連盟より、脱退することを通告するものなり」(「日本外交年表並主要文書」)
これに至るのは、日本にとっては、すでに織り込み済みの外交であったのだろう、そのことでは、「英雄気どりで一人合点の人物だった。その意味で、尻をまくって連盟からとびだす立役者としては、うってつけであった」(大内力「ファシズムへの道」中央公論社、1967、「日本の歴史」24)とも評される松岡洋石(まつおかようすけ)が日本代表として国際連盟において鳴り物入りかのように振る舞うのは、自然の成り行きであったのだろう。大内は、その場での成り行きの発端につき、こんなふうな情景を紹介している。
「松岡はジュネーヴに到達するといきなり、日本は満州国承認と矛盾するいかなる案ものむ気はないし、日本の威信にかかわるときは連盟を脱退すると宣言した。開会まえにこういう乱暴な宣言をしたのだから、会議が、うまくいかないことは、はじめからわかっていた。
しかしイギリスを、はじめ多くの国は、日本をなだめようとして百方手をつくした。紛争解決案の作成にあたった委員会は、リットン報告をもとに、満州の状態を満州事変以前に戻すことはできないが、現制度をも承認するものではないという決議案をつくり、これもすぐ日本に満州国承認取消しを求めるものではかく、漠然とこの問題にたいする連盟の意志表示を、するという趣旨のものだと説明された。
しかし、日本は、いっさいの妥協に応じないというかたくに態度をとった。」(同)
かくして、これの手続き面では、同年3月24日の国際連盟総会において、中国の国民政府の統治権を承認し、日本軍の撤退を求める報告案に対して、賛成42、反対1、棄権1で可決したのであった。これに反対票を投じた日本代表が、案の定、同議場から退場する。日本側に一切の反省はなく、3月27日には国際連盟脱退に関する「詔書」を発表し、連盟に脱退を通告するという体(てい)たらくであった。
(続く)
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258の3『自然と人間の歴史・日本篇』戊辰戦争(北越の戦い、会津の戦い、五稜郭の戦いなど、1868~1869)
世の中が大きく移りつつある話の中、北越地方長岡を中心に領していた譜代の長岡藩は、もはや幕府べったりではいかない、それでいて新政府方にもつかないという、微妙な立ち位置にいた。
この藩の幕末を重臣として担っていた河井継之助(かわいつぎのすけ)らは、それまでの藩政改革を踏まえて、大政奉還から王政復古の大号令そして鳥羽・伏見(とばふしみ)の戦いでの旧幕府軍の敗北という激動する時代に対処するために、軍制改革と禄高改正に取り組み、「国力」を伸ばしていた。
世の中が大きく移りつつある話の中、北越地方長岡を中心に領していた譜代の長岡藩は、もはや幕府べったりではいかない、それでいて新政府方にもつかないという、微妙な立ち位置にいた。
この藩の幕末を重臣として担っていた河井継之助(かわいつぎのすけ)らは、それまでの藩政改革を踏まえて、大政奉還から王政復古の大号令そして鳥羽・伏見(とばふしみ)の戦いでの旧幕府軍の敗北という激動する時代に対処するために、軍制改革と禄高改正に取り組み、「国力」を伸ばしていた。
その蓄えた力をもって、当時はまだ誰も思い付かなかったような、今日でいう「武装中立」の道に長岡藩を誘導するのであった。しかし、それがうまく運ぶためには、薩摩、長州といった徳川幕府に既に見切りをつけていた新政府勢力との、未来を見据えた戦略的な妥協が必要であったろう。
とはいえ、長岡藩は、新政府側の自己中心的、なにより幕府勢力を武力で倒そうとする姿勢を前面に出すのに急な態度を、それでは列強につけ入る隙を与えるとし、真っ向から非難を加えたのは文理的では正しいとしても、いかにも惜しい、
すなわち、同藩は、そのことにより、中立を掲げながら事実上新政府側から譲歩を引き出す道(それが同藩がとりあえず生き残ることのできる唯一のものと考えられる)を閉ざしてしまった。
やがて長岡で行われた新政府軍との話し合いでは、早々決裂した。それには、新政府側の一部からの「陰謀」も某か仕組まれてあったのかもしれない。ために、長岡藩は結果として奥羽列藩同盟に入らざるをえず、会津藩などと連絡して新政府軍と戦うのであった。だが、すでに政局が改まっての戦いに勝利の展望などあろうはずもなく、幕末史に残る激戦を経て、惨澹たる敗北となる。
とはいえ、長岡藩は、新政府側の自己中心的、なにより幕府勢力を武力で倒そうとする姿勢を前面に出すのに急な態度を、それでは列強につけ入る隙を与えるとし、真っ向から非難を加えたのは文理的では正しいとしても、いかにも惜しい、
すなわち、同藩は、そのことにより、中立を掲げながら事実上新政府側から譲歩を引き出す道(それが同藩がとりあえず生き残ることのできる唯一のものと考えられる)を閉ざしてしまった。
やがて長岡で行われた新政府軍との話し合いでは、早々決裂した。それには、新政府側の一部からの「陰謀」も某か仕組まれてあったのかもしれない。ために、長岡藩は結果として奥羽列藩同盟に入らざるをえず、会津藩などと連絡して新政府軍と戦うのであった。だが、すでに政局が改まっての戦いに勝利の展望などあろうはずもなく、幕末史に残る激戦を経て、惨澹たる敗北となる。
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それからの新政府軍は、その後も戦いを繰り返しながら北上していき、白河城と二本松城を落とし、次なる攻撃目標たる会津へと向かう。 しかして、会津藩というのは、いうまでもなく旧幕府軍の中でも最大級の兵力であり、彼らは居城である若松城を守るべく、国境付近で新政府軍を食い止め、頑強な防衛戦を展開する。
しかし、新政府軍は補充があり、しだいに会津軍を押していく。国境の母成峠(ぼなりとうげ)を8月21日に破ると、23日に若松城へと向かう。
しかし、新政府軍は補充があり、しだいに会津軍を押していく。国境の母成峠(ぼなりとうげ)を8月21日に破ると、23日に若松城へと向かう。
それからは、かなり急な展開になっていく。中でも、長州閥の板垣退助が率いる新政府軍主力は、幕末までの同士の遺恨を引きずっていたのではあるまいか、甲賀口(こうがぐち)から城郭内に侵入するものの、一旦退却する。今度は、作戦を包囲戦に切り替えて攻撃する。援軍が続々と駆け付ける中、9月14日に総攻撃を仕掛ける。
その後も包囲が続くうち、孤立無援状態の若松城内では生活物資が困窮していく。次々と倒れる者が現れるようになったとか。一説には、耐えきれずに、多くの婦女子が自害したという。それというのも、籠城の足手まといにはならないようにというのであったのだとか、城内では凄惨な光景が繰り広げられたようだ。
それでも、会津勢は降伏しない。新政府軍は追い打ちをかけるように、連日連夜若松城に砲撃を加える。そしての22日の早朝、若松城の大手門には「降参」と書かれた大きな白旗が下げられるに至る。もう、踏ん張りがきかなくなった訳だ。
なお、落城し煙を吐いていたであろう城を外側を眺めた若侍たちが落胆して、もはやなすすべなしとしたのであろうか、集団して自害するに至ったのが伝わっており、なんとか生き長らえて次なる時代に生きてほしかったと、残念至極の思いを新たにするのである。
その後も包囲が続くうち、孤立無援状態の若松城内では生活物資が困窮していく。次々と倒れる者が現れるようになったとか。一説には、耐えきれずに、多くの婦女子が自害したという。それというのも、籠城の足手まといにはならないようにというのであったのだとか、城内では凄惨な光景が繰り広げられたようだ。
それでも、会津勢は降伏しない。新政府軍は追い打ちをかけるように、連日連夜若松城に砲撃を加える。そしての22日の早朝、若松城の大手門には「降参」と書かれた大きな白旗が下げられるに至る。もう、踏ん張りがきかなくなった訳だ。
なお、落城し煙を吐いていたであろう城を外側を眺めた若侍たちが落胆して、もはやなすすべなしとしたのであろうか、集団して自害するに至ったのが伝わっており、なんとか生き長らえて次なる時代に生きてほしかったと、残念至極の思いを新たにするのである。
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さても、新政府に抵抗した旧幕府軍の戦いは、海を隔てた北海道の箱館(はこだて、現在の函館市)においても行われた。旧幕府海軍副総裁榎本武揚 (えのもとたけあき) らは、1868年に旧幕府軍艦8隻を率いて、それまで停泊していた品川沖を脱走する。
北進して、新政府が手をこまねいて手薄のままであった箱館および五稜郭を攻略すると、その付近の蝦夷地 (えぞち)を平定する。そして、この地に新たな国を打ち立てようとの構えを示す。
北進して、新政府が手をこまねいて手薄のままであった箱館および五稜郭を攻略すると、その付近の蝦夷地 (えぞち)を平定する。そして、この地に新たな国を打ち立てようとの構えを示す。
一方、本州制圧を済ませた新政府軍は、彼らを追いかけ、これまた海をわたる形となる。こうした状況の中、1969年4月には、新政府側が最新鋭の甲鉄艦を含む8隻の艦隊が現地に向かう、そしての翌月、新政府軍が海から、五稜郭を取り囲む陣地から攻撃を行う。何度もの押し返し、その激戦の末、新政府軍は五稜郭の旧幕府軍を制圧するのに成功、榎本らは降伏する。この戦いの平定により、ほぼ1年半を要した戊辰戦争は終わりをつげた。
(続く)
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(続く)
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