1847年(弘化4年)の冬に勃発した盛岡藩での三閉伊一揆(さんぺいいっき)というのは、同藩領地内、太平洋沿岸の一帯を占める、三閉伊通と呼ばれる一帯の農民・漁民1万数千人が蜂起したもの。大方でいうと、いわゆる「日本三大一揆」の一つに数えられる。
「この山は流紋凝灰岩で出来ています。石英粗面岩の凝灰岩、大変地味が悪いのです。赤松と小さな雑木林しか生えていないでしょう。ところがそのへん麓(ふもと)の緩(ゆる)い傾斜のところには、青い立派な闊葉樹(かつようじゅ、広葉樹のこと・引用者)が一杯生えているでしょう。あすこは古い沖積土です。運ばれてきてのです。割合肥沃な土壌を作っています。」(宮沢賢治「台川」)
この辺りは、また、江戸時代後期に商工業が盛んになっていたので有名だ。
その騒動のきっかけとしては、藩が専売制を強化し,臨時に御用金を課したことに対して、彼らが我慢ならないとして立ち上がったことにある、
かれらは、この要求をまとめてから、藩の重臣のいる遠野(とおの)に強訴した。遠野には、横田城があった。
「願い上げ奉り候こと
この度仰せつけられ候御用金三千二百両、宮古通り。二千四百八十両、大槌通り。一千四百三十両、野田通り。
ほかに毎年大豆御買上げにて候にて迷惑、なおまた塩買上げにて百姓ども一同迷惑まかりおり候ところ、五か年の軒別銭仰せつけられ、やむをえざることと納め上げ奉り候。
この軒別銭があいすみ申さざるうちは御用金等いっさい仰せつけられまじく候との御沙汰にござ候ところ、近ごろにいたり一か年に三度四度ずつの御用金にごさ候。
したがっておそれ多い願い上げにござ候えども、なにとぞ御定役御年貢のほかの新税御役立過金など御免下さたく願い上げ奉り候。
おそれながら願い上げ奉り候。
弘化四年十二月
大槌通御百姓共
宮古通御百姓共
野田通御百姓共
弥六郎様
土佐様」
この年、南部藩は、領内におよそ5万2千両の新税(軒並別銭)を課し、見られる通り、そのうちの約7千両を三陸海岸地域の村々に割り当てていた。そこでこの書状は、見られる通り、この間の藩政への不信を募らせ、税の減免を訴えている。その半年に及ぶ交渉の結果、新たな課税や流通の統制の廃止など多くの要求が通り,また一揆の指導者を処罰しないことも約束させたのであったのだが。
その出で立ち姿としては、赤だすきの肩に、筵(むしろ)を立て、それには「小○」(困るの意味)と書き、のぼり旗とした。そればかりか、彼らは、竹槍や棒をたづさえての役割を与えられる部隊もあって、それなりの隊列を組んで行進していたというから、驚きだ。そして、浜通りを南下する頃には、大群衆となっていた。
まず、願いの三ヶ条には、一、南部藩主を交迭せしめること、一、三閉伊通の百姓を仙台領民とされたいこと、一、三閉伊通を幕領とされたい、若しできなければ仙台領とされたい、とある。
一、三閉伊通に罷り在り候百姓ども一統、御慈悲を以て御抱へ、露命御助け下し置かれ度く、偏へに願上げ奉り候事。
一、三閉伊通、公儀御領に仰せ付けられ下され度く、この義御成り兼ねに候はば、仙台様御領に成し下され候様、願上げ奉り候事。
右箇条、御慈悲を以て、願の通り仰付けられ下し置かれ候はば、一統重畳有りがたき仕合せと存じ奉り候、恐れながら此段願上げ奉り候。以上」
この交渉では、45人の代表を仙台藩に残し、一揆衆は村に帰る。その後も粘りづよい交渉が続けられての半年後、前記の45人衆と仙台藩と盛岡藩の度重なる交渉の結果、三十九ヶ条の要求を認めさせる。さらには一揆参加者の処罰も行わないとの「安堵状(あんどじょう)」を得て、解散する。
そのうち(1)とは、一揆に参加した三閉伊通りの農民に対する布告にて、一切の処罰は行わないので安心して帰村するように、盛岡藩の目付2名の連名捺印で約束し、さらに藩の大老である南部弥六郎の奥書を付し記名捺印してある。
(2)については、(1)と同時に一揆側が藩に対して、約定がなったうえは間違いなく帰村する旨を約束した証文であり、また(3)とあるのは、双方代表を押し立てての折衝中に、一揆側が仙台藩気仙郡代官に対し、盛岡藩はこれまで重過ぎる税を課してきた家老・用人が更迭されず、心ある重臣は未だ閉門の有様、したがって帰国してもどのような処罰が下るかわからないので、仙台藩の百姓にしてほしいと訴えたものだという。
この地方の沿岸部でとれた塩を、牛の背中にのせて内陸部に運ぶ塩売り商人であった。
1814年(文化11年)、隣村の岩泉・中里村で農民一揆が起きると、陰ながら応援したという。それが成功してからも、この辺りの農民を守る話わ行動に、自らも様々な関わっていく。
そして迎えた1847年(弘化4年)には、本人が呼び掛けに加わり、6万両という膨大な御用金取立ての達しを下した盛岡藩に対して、農民たちの先頭に立って闘う。
代官所から「オオカミを退治するから」と言って鉄砲や槍を借り受け、武器としたというから驚きだ。
大挙した農民軍に直面した南部藩家老新田小十郎(遠野南部家)は、善処することを約束し、一揆は成功裏に解散する。
しかし、弥五兵衛はその先を見越していた、同藩が約束を守らない場合に備えて次の闘いを準備していたところを、密告されたのだろうか、藩の差し向けた刺客に襲われ、囚われた弥五兵衛は打ち首にされ生涯を終える。
1857年(安政4年)、二条家の家臣と称して盛岡藩領に戻ろうとして捕縛される。新たな志をもって、雌伏していたのだろうか。
それからの約6年を牢にいれられて、1864年(元治元年)に獄死するのであったが、残されるであろう妻子に生計の道などを説いた「獄中記」を書いた、その一節には、「人間と田畑をくらぶれば、人間は三千年に一度さくうどん花(げ)なり」とあるという。
(続く)
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(続く)
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