○251の3『自然と人間の歴史・日本篇』盛岡藩・三閉伊一揆(1847~1853)

2021-01-01 18:20:42 | Weblog
251の3『自然と人間の歴史・日本篇』盛岡藩・三閉伊一揆(1847~1853)

 1847年(弘化4年)の冬に勃発した盛岡藩での三閉伊一揆(さんぺいいっき)というのは、同藩領地内、太平洋沿岸の一帯を占める、三閉伊通と呼ばれる一帯の農民・漁民1万数千人が蜂起したもの。大方でいうと、いわゆる「日本三大一揆」の一つに数えられる。
 
 ちなみに、これより後に、今日の岩手県花巻町の郊外に生まれた宮沢賢治(1896~1933)は、この辺り、北上山地の準平原台地(その大方は酸性土壌)を耕作することの難しさを、こう表現している。

 「この山は流紋凝灰岩で出来ています。石英粗面岩の凝灰岩、大変地味が悪いのです。赤松と小さな雑木林しか生えていないでしょう。ところがそのへん麓(ふもと)の緩(ゆる)い傾斜のところには、青い立派な闊葉樹(かつようじゅ、広葉樹のこと・引用者)が一杯生えているでしょう。あすこは古い沖積土です。運ばれてきてのです。割合肥沃な土壌を作っています。」(宮沢賢治「台川」)

 この辺りは、また、江戸時代後期に商工業が盛んになっていたので有名だ。
 その騒動のきっかけとしては、藩が専売制を強化し,臨時に御用金を課したことに対して、彼らが我慢ならないとして立ち上がったことにある、 
 かれらは、この要求をまとめてから、藩の重臣のいる遠野(とおの)に強訴した。遠野には、横田城があった。

 「願い上げ奉り候こと
この度仰せつけられ候御用金三千二百両、宮古通り。二千四百八十両、大槌通り。一千四百三十両、野田通り。
 ほかに毎年大豆御買上げにて候にて迷惑、なおまた塩買上げにて百姓ども一同迷惑まかりおり候ところ、五か年の軒別銭仰せつけられ、やむをえざることと納め上げ奉り候。
 この軒別銭があいすみ申さざるうちは御用金等いっさい仰せつけられまじく候との御沙汰にござ候ところ、近ごろにいたり一か年に三度四度ずつの御用金にごさ候。
 したがっておそれ多い願い上げにござ候えども、なにとぞ御定役御年貢のほかの新税御役立過金など御免下さたく願い上げ奉り候。
おそれながら願い上げ奉り候。
弘化四年十二月
大槌通御百姓共
宮古通御百姓共
野田通御百姓共

弥六郎様
土佐様」

 この年、南部藩は、領内におよそ5万2千両の新税(軒並別銭)を課し、見られる通り、そのうちの約7千両を三陸海岸地域の村々に割り当てていた。そこでこの書状は、見られる通り、この間の藩政への不信を募らせ、税の減免を訴えている。その半年に及ぶ交渉の結果、新たな課税や流通の統制の廃止など多くの要求が通り,また一揆の指導者を処罰しないことも約束させたのであったのだが。
 
 
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 1853年(嘉永6年)、今度は、田野畑村の畠山太助、喜蔵らを指導者とし、再び一揆が起る。
 
 今度の一揆の立ち上げは、沿岸北部・田野畑村でもって押し出し、亡き佐々木弥五兵衛を慕う畠山喜蔵、畠山多助(太助)、三上倉治らを頭領として、普代・野田村方面へ向かうという、一旦北上する道を選んだ。
 その出で立ち姿としては、赤だすきの肩に、筵(むしろ)を立て、それには「小○」(困るの意味)と書き、のぼり旗とした。そればかりか、彼らは、竹槍や棒をたづさえての役割を与えられる部隊もあって、それなりの隊列を組んで行進していたというから、驚きだ。そして、浜通りを南下する頃には、大群衆となっていた。
 
 さらに、大槌方面では、三浦命助の率いる一揆軍と合流し、やがての一揆衆は1万6千人とも言われ、釜石から藩境を越え、政治的三ヶ条と具体的な四十九ヶ条の要求を仙台藩に訴える。

 まず、願いの三ヶ条には、一、南部藩主を交迭せしめること、一、三閉伊通の百姓を仙台領民とされたいこと、一、三閉伊通を幕領とされたい、若しできなければ仙台領とされたい、とある。

 その原文としては、こうある。
 
「一、御隠居遊ばされ候甲斐守様、御入口なさせられ度、偏に願上げ候事。
一、三閉伊通に罷り在り候百姓ども一統、御慈悲を以て御抱へ、露命御助け下し置かれ度く、偏へに願上げ奉り候事。
一、三閉伊通、公儀御領に仰せ付けられ下され度く、この義御成り兼ねに候はば、仙台様御領に成し下され候様、願上げ奉り候事。
 右箇条、御慈悲を以て、願の通り仰付けられ下し置かれ候はば、一統重畳有りがたき仕合せと存じ奉り候、恐れながら此段願上げ奉り候。以上」

 このような思いきった、しかも越訴になったのには、水稲生産力の弱い地帯に、この不利を克服するようにおこった新産業に、これをも押しつぶすように重税をかける盛岡藩政への著しい不信があろう。

 この交渉では、45人の代表を仙台藩に残し、一揆衆は村に帰る。その後も粘りづよい交渉が続けられての半年後、前記の45人衆と仙台藩と盛岡藩の度重なる交渉の結果、三十九ヶ条の要求を認めさせる。さらには一揆参加者の処罰も行わないとの「安堵状(あんどじょう)」を得て、解散する。
 
 なお参考までに、本一揆での双方及び一揆参加者内部の関係を見知るものとして、(1)「南部弥六郎奥書黒印状」、(2)「奉差上一札之事写」、(3))「乍恐奉申上候口上書之御事写」、(4)契約書(「嘉永6年6月25日」付け)などの文書が現代に伝わる。
 そのうち(1)とは、一揆に参加した三閉伊通りの農民に対する布告にて、一切の処罰は行わないので安心して帰村するように、盛岡藩の目付2名の連名捺印で約束し、さらに藩の大老である南部弥六郎の奥書を付し記名捺印してある。
 (2)については、(1)と同時に一揆側が藩に対して、約定がなったうえは間違いなく帰村する旨を約束した証文であり、また(3)とあるのは、双方代表を押し立てての折衝中に、一揆側が仙台藩気仙郡代官に対し、盛岡藩はこれまで重過ぎる税を課してきた家老・用人が更迭されず、心ある重臣は未だ閉門の有様、したがって帰国してもどのような処罰が下るかわからないので、仙台藩の百姓にしてほしいと訴えたものだという。
 さらに(4)は、一揆参加の面々が仙台範の仲介を受け入れて、代表45人を残し、帰国するにさいし、仲間うち後者に出した契約書であって、万一の時の家族の暮らし向きについて約している。ちなみにその文言は、次のようであった。
 いわく、「契約書 浜三閉伊通村々のため、身命相捨て候事も図り難く、若し右様の節は、一か年につき金十両ずつ十か年の間、その子孫の養育料として、村より取立て其当人に相渡すべく候事。嘉永六年六月二十五日、盟助殿、太助殿、喜蔵殿。三閉伊惣百姓中」と。
 
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 参考までに、一揆の指導者の一端について、数多き人物中から少し紹介しておこう。
 
 まずは、前篇の一揆から一人を取り上げると、佐々木弥五兵衛(ささきやごべい、1787?~1848)は、浜岩泉の切牛村(現在の田野畑村島)の生まれたとされるが、どのような親の下に生まれ、どのような少年時代までを過ごしたのか、正確にはわからないという。
 この地方の沿岸部でとれた塩を、牛の背中にのせて内陸部に運ぶ塩売り商人であった。
 1814年(文化11年)、隣村の岩泉・中里村で農民一揆が起きると、陰ながら応援したという。それが成功してからも、この辺りの農民を守る話わ行動に、自らも様々な関わっていく。
 そして迎えた1847年(弘化4年)には、本人が呼び掛けに加わり、6万両という膨大な御用金取立ての達しを下した盛岡藩に対して、農民たちの先頭に立って闘う。
 代官所から「オオカミを退治するから」と言って鉄砲や槍を借り受け、武器としたというから驚きだ。
 三閉伊の山里から狼煙を上げた一団は、村ごとに人数を増やし、宮古を過ぎ、難所である笛吹き峠を越え、遠野へと進軍する。藩庁のある盛岡に向かわない作戦であったという、

  大挙した農民軍に直面した南部藩家老新田小十郎(遠野南部家)は、善処することを約束し、一揆は成功裏に解散する。

 しかし、弥五兵衛はその先を見越していた、同藩が約束を守らない場合に備えて次の闘いを準備していたところを、密告されたのだろうか、藩の差し向けた刺客に襲われ、囚われた弥五兵衛は打ち首にされ生涯を終える。
 
 
 
 もう一人、この物語の後篇たる嘉永一揆にまつわる人物像のうち、三浦命助 (みうらめいすけ、1820~1864)には、その当時の時代の流れが乗り移っていたのかもしれない。

 それと、そもそもこの人は、陸奥国(むつのくに)盛岡藩領、その三陸海岸側といおうか、上閉伊(かみへい)郡栗林村の肝煎(きもいり)筋の分家に生まれであったという。天保の頃より、小規模なから塩や海産物を仕入れ、三閉通り沿いの農漁村を回って、いわゆる荷駄商いを行っていたとのこと。
 こちらでの一揆には、命助は指導者45人衆の一人として、途中の大槌通りへ入ってから嘉永一揆に加わった由(よし)、それには彼なりの心づもりがあったのだろうか、それとも急な思いが募ってのこと、もしくは人物を見込んで誘われてのことであったのだろうか。

 弁舌のみならず、文をつくるにたけ、それに類い稀といってよいほどの知恵が働くことで、仙台、盛岡の両藩との交渉に加わるうちに、三閉伊通りの人々にとってなくてはならぬ人となっていったようだ。

 大方勝利のうちに一揆が終息した後は、一時、村役人などを務めたという。しかし、自分を陥れる話を認めたのだろうか、京都へ出奔したという。  
 1857年(安政4年)、二条家の家臣と称して盛岡藩領に戻ろうとして捕縛される。新たな志をもって、雌伏していたのだろうか。

 それからの約6年を牢にいれられて、1864年(元治元年)に獄死するのであったが、残されるであろう妻子に生計の道などを説いた「獄中記」を書いた、その一節には、「人間と田畑をくらぶれば、人間は三千年に一度さくうどん花(げ)なり」とあるという。

(続く)


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(続く)


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○258の2『自然と人間の歴史・日本篇』鳥羽伏見の戦いと江戸開城、上野の戦い(戊辰戦争前編、1868)

2021-01-01 09:16:18 | Weblog

258の2『自然と人間の歴史・日本篇』鳥羽伏見の戦いと江戸開城、上野の戦い(戊辰戦争前編、1868)


 まずは、戊辰戦争(ぼしんせんそう)とは、1868年(慶応4年/明治元年)1月に勃発した、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに、1869年(明治2年)の「箱館戦争」(五稜郭の戦いとも)にて終結するまでの1年以上にわたり、広い意味での旧幕府軍と、薩摩藩・長州藩を中心とする「新政府軍」との間で争われた一連の戦争のことだ。なお、戊辰戦争という名称は、鳥羽・伏見の戦いが起こった年の干支が、旧暦の「戊辰」の年だったことに由来する。

 1867年(慶応3年)10月14日、江戸幕府第15代征夷大将軍の徳川慶喜が朝廷に政権を返上した。その本質は、資産と武力を保持しつつ一旦退くことで面目を回復し、やがて新政府を牛耳ろうとねらったものといえよう。

 同年12月9日には、王政復古の大号令が発せられた。もう天皇を頂点とする王政の国に復帰したのであるから、徳川の世は終わった、というのである。

 その後、徳川慶喜は京都から大坂へと退く。その一方で、幕府の軍勢は大坂から京へと進軍した。そのため、京の伏見では、幕府軍と薩摩藩を中核とする新政府軍の勢力が拮抗することになり、一触即発の緊張が高まっていた。

 明けて1868(慶応4年/明治元年)1月3日、伏見上鳥羽の小枝橋で戦端が開かれた。現在の城南宮(京都市伏見区中島鳥羽離宮町)の西方、鴨川にかかる小枝橋のたもとにて、両軍の戦いの幕が切っておろされた。新政府軍の5千に対し、幕府軍は1万5千であり、かなりの数の開きがあったものの、統率力は前者の方が上回っていた。

 あくる1月4日、幕府軍の戦線は、伏見桃山からは南西側の淀(京都市伏見区淀、現在の京阪本線淀駅の西南方向にある)付近まで後退した。当初は優勢だった幕府軍は劣勢に傾いていった。

 1月5日には、そもそも幕府軍本営のあった淀城からして、城主(譜代の淀藩・稲葉氏)不在のところ、留守役の家臣たちはこのまま幕府軍に付いてよいものか、新政府軍に付くか、日和見の状態に陥っていた。

 同1月5日、鳥羽と伏見で敗北した旧幕府軍は淀城に入ろうとしたものの、淀藩から入城を拒否されてしまう。それというのも、1月4日には尾張徳川家の徳川慶勝から「中立を守るように」と、また三条実美からの出頭命令も受けていたので、国家老たちは、日和見(ひよりみ)を決め込んだのだ。

   そんな中での1月6日、新政府軍側から皇軍であることを示す「錦の御旗」がひるがえった。そのことにより、日和見だった各藩は雪崩を打つように新政府軍側に恭順していく。かかる情勢が支配的となって幕府軍は敗走、徳川慶喜は城内に立てこもって戦うと諸藩の兵たちを鼓舞したのもつかの間、夜陰に紛れてか自軍を置き去りにし、大阪湾に控えていた幕府の戦艦・開陽丸に乗船し、江戸へと逃れた。

 その後のことだが、江戸に帰った元将軍慶喜はどのようにふるまったのであろうか。一説には、こうある。

 「江戸城に帰還した慶喜(よしのぶ)は、抗戦と降伏の間を揺れ動いていた。フランス公使ロッシュは、慶喜に再起を勧告した。また勘定奉行小栗忠順(おぐりただまさ)は、卓抜な作戦計画を立てて慶喜に献策した。すなわち、東海道を海岸沿いに東進中の天皇政府軍を優秀な海軍力で横撃して撹乱し、さらには敵軍を関東平野に誘い入れ、箱根峠を封鎖して袋の鼠にし、包囲殲滅せよとの戦略だった。

 小栗の策が実行されたら、形勢は再逆転したかもしれない。したがって鳥羽・伏見戦後といえども、ただ徳川家が最終的に天下を失うかどうかは未確定だったのである。しかし、いずれも慶喜の容れるところとはならなかった。」(毛利敏彦「幕末維新と佐賀藩―日本西洋化の原点」中公新書、2008)

 ともあれ、慶喜からはもはや確固たる戦意はなく、時の流れにむ身をまかせていくしかなかったのではないか。それが、時勢というものであったのだろう。
 そのまま謹慎に入り、勝海舟が後の始末を頼まれた形となる。その勝は、征討軍の参謀・西郷吉之助と談判し、無抵抗での江戸開城と引き換えに慶喜の助命を求める。軍に帰った西郷の進言により、幕府側の申し出を受け入れることとし、開城が滞りなく行われた。

 くりかえすが、德川慶喜は、新政府に対する恭順の姿勢を表し、上野寛永寺に蟄居した。

 そこで、おそらくはこれに幾分かは不満を持ちながらも、慶喜を守ろうとする幕臣の一部らが寄せ集まって、上野にこもる、これを彰義隊という。

 
  幕府により江戸市中取締の任を受けて治安維持をおこなうものの、新政府軍は潰す機会を狙っていたのだろう。いざこいが絶えなかった。
 そういうことだから、慶喜が許されて上野から水戸へ移る。そこで、双方の間で戦いがおきるのだが、新政府軍は攻めあぐねる中、早期の決着をめざして、大村益次郎(村田蔵六)を呼ぶ。その大村は、元はといえば長州の村医者にして、緒方洪庵の塾に学び、宇和島藩、それに幕府に用いられていたのが、長州に呼び戻された訳だ。
 そこへ持ってきて、幕府の長州征伐のおりに、石州口で幕府軍をやぶるのに大功があったのが、戦略的な思考にたけた大村に他ならない。
 かくて、大村は倒幕軍の総司令官となり、彼の指揮する新政府軍が上野の山に立てこもる彰義隊に総攻撃を開始し、わずか1日で彰義隊は壊滅した。
 その時活躍したのが、山を死守する旧幕府軍に対して、本郷の高台からアームストロング砲などであった、すなわちこれは、早々の近代戦なのであったろう。

 かくて、銃火に勝る新政府軍の前に敗退し、江戸幕府の実質的支配がここに終わる。 

☆☆☆☆☆

 

 さても、作家の大岡昇平(おおおかしょうへい)は、そのエッセイ「母成峠(ぼなりとおげ)の思い出」(「太陽」1977年6月号所収)の中で、この戦争というものへの慨嘆であろうか、それとも挽歌であろうか、こう述べている。

 「私の戊辰戦争への興味は、結局のところ敗れた者への同情、判官びいきから出ている。一方、慶応争間からの薩長の討幕方針には、胸糞が悪くなるような、強権主義、謀略主義がある。それに対する、慶喜のずるかしこい身の処し方も不愉快である。その後の東北諸藩の討伐は、最初からきまっていたといえる。(中略)
 多くの形だけの抵抗、裏切りがでる。あらゆる人間的弱さが露呈する。
 戊辰戦争全体はなんともいえず悲しい。その一語に尽きると思う。」

 

 

(続く)

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