234の2『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(文学1、俳句、和歌)
松尾芭蕉(まつおばしょう、1644~1694)は、日本における江戸期の俳句の最高峰ともされる人物であろう。その人生は、何かしらベールにまとわれているように感じられよう。
死後に編纂されたか、「奥の細道」は、あまりに有名だ。その彼がすべてを俳句づくりにかけてきた姿勢が窺えるものに、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」がある。
また、律儀な性格を伝えるものに、「名月や池をめぐりて夜もすがら」とある。旅の途中、出没する至る所において、誠に臨機応変、自己表現の「達人」というべきか。
小林一茶は(こばやしいっさ、1763~1828)は、信濃北部の農家の長男に生まれた。幼名を小林弥太郎という。3歳で生母を亡くし、その後父が迎えた継母とは折合いが悪かったらしい。それまで何かと守ってくれていた祖母を亡くすと、江戸へ奉公に出される。
俳諧(はいかい)との馴れ初めは、25歳の頃だったのではないかという。その辺りの詳しいことはわかっていないようだ。39歳のときに、病に倒れた父の看病で故郷に戻るも、父はまもなく亡くなる。遺産相続問題で継母や異母兄弟との間で争いが起こり、和解まで12年を要する。
52歳で初めて結婚し、生涯三度結婚して、子どもは5人。暮らし向きがそこそこになり、やや安定してきたのだろうか。
生涯に詠んだ俳句は、2万句とも言われる。それらの大半は、生活の中から、自然な感じで産まれてきたのだろうか。それとも、あれこれ気張っての作品なのだろうか。「おらが春」や「一茶発句集」という俳句文集も出す。
その作風としては、どんなであろうか。正義の味方というよりは、弱者の味方ともとれそうな句を沢山つくった。例えば、「やせ蛙負けるな一茶是にあり」とあり、なんだか大きな蛙に小さな蛙がけとばされながらも、相手をにらんでいる、一種剽軽(ひょうきん)な様が窺える。
そんな負けず嫌いの彼にしても、いつか道に迷ったとき、心の苦しい時も多くあったらしく、「露の世は露の世ながらさりながら」とい愛児の死に浸る句がある。そのかたわら「ともかくもあなたまかせの年の暮れ」ともあり、阿弥陀如来にはからいに任そうとという神妙な心境もうたっているところだ。
与謝蕪村(よさぶそん、1716~1784)は、俳諧のみならず、画業でも有名だ。大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国(せっつのくに)東成郡(ごおり)毛馬村、現在の大阪市都島区毛馬町)の生まれ。
生前自らの出身地について語ったものとして、「馬堤は毛馬塘也則(つつみなりすなわち)余が故園也(なり)」とあり、これは、1777年(安永6年)2月23日付け、伏見の柳女(りゅうじょ)と賀瑞(がずい)という門人の母子に宛てた手紙にあるという。
それに続けては、「余、幼童之時、春色清和の日には、必(かならず)友どちと此堤上にのぼりて遊び候」(同)というものであって、その限りでいうならば、まことに平和で明るい幼年時の回想である。時に蕪村62歳の回想であった。
ともあれ、両親を早くになくし、少年の頃に江戸へ出る。ちなみに、蕪村の名は、のちに「かぶら」の産地としての天王寺村に住んでいた、そのことにちなんだ。42歳から京都に住み、また母の故郷の丹後与謝郡を援用して名字を谷口から与謝に改めたという。
俳句の方は、どうであったのか。本人は、なかなかに、無骨、口数も少なめといったところであったろうか。27歳の時、師匠の巴人と死別すると、同門の結城俳人砂(いさ)岡雁とうを頼る。その後、北関東を転々とし、1751年秋には上洛(じょうらく)。その頃には、各地に弟子や援助者もできていたのではないか。
生涯に作った俳句の全容については、例えば、こう言われる。
「今日、蕪村の句として知られる総数は、約2千8百句。その中から、晩年に至り、蕪村自身精選して世に残そうと努めたものが、蕪村自筆句集である。」(尾形つとむ「蕪村俳句集」岩波文庫、1989) お馴染みの句としては、例えば、「なの花や月は東に日は西に」「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」などがあろう。
俳句仲間との会合ということでは、例えば、「連歌してもどる夜鳥羽(とば)の蛙哉」や、「床涼み笠着(かさぎ)連歌のもどり哉」が見られて、その場がなんとなく脳裏に浮かんでくるではないか。
珍しいところでは、例えば、故郷にちなみ、「春風や堤長うして家遠し」(「春風馬堤曲」(1764)の中での一句、大阪の毛馬桜宮公園の近畿地建淀川事務所内に建つ顕彰碑に刻まれている)とあって、ちなみに、蕪村の生地は、淀川改修のため川の中に没しているという。
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平賀元義(ひらがもとよし)は、1800年(寛政12年)、岡山城下富田町で生まれた。岡山藩士平尾長春の嫡男だった。1832年(天保3年)、33歳の時脱藩したのは、そのままでは世に出られないと考えたのか。平賀左衛門太郎源元義と名乗って、備前、備中、美作などへ、放浪を始める。多くの万葉調の歌を作った。また、書を能くした。性格は、奔放純情ながら、潔癖などの奇行も多かったとか。生涯不遇の人で、仕官の話があった矢先、岡山市長利の路傍で卒中のため急死した。
66年の生涯におよそ700首を詠んだ。ここに数例を挙げれば、「放たれし野辺のくだかけ岡山の大城恋しく朝夕に啼く」、「春来れば桜咲くなり。いにしへのすめらみことのいでましどころ」、「神さぶる大ささ山をよぢくれば春の未にぞ有紀は零りける」(大佐々神社(おおささじんじゃ、現在の津山市大篠)にて)、「見渡せば美作くぬちきりはれて津山の城に旭直刺」(同)等々。
正岡子規の『墨汁一滴』には、歌人としての平賀元義を褒めちぎる一節がある。
「徳川時代のありとある歌人を一堂に集め試みにこの歌人に向ひて、昔より伝へられたる数十百の歌集の中にて最善き歌を多く集めたるは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と答へん者賀茂真淵を始め三、四人もあるべきか。その三、四人の中には余り世人に知られぬ平賀元義といふ人も必ず加はり居るなり。次にこれら歌人に向ひて、しからば我々の歌を作る手本として学ぶべきは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と躊躇なく答へん者は平賀元義一人なるべし。
万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を模倣し万葉調の歌を世に残したる者実に備前の歌人平賀元義一人のみ。真淵の如きはただ万葉の皮相を見たるに過ぎざるなり。世に羲之を尊敬せざる書家なく、杜甫を尊敬せざる詩家なく、芭蕉を尊敬せざる俳家なし。しかも羲之に似たる書、杜甫に似たる詩、芭蕉に似たる俳句に至りては幾百千年の間絶無にして稀有なり。
歌人の万葉におけるはこれに似てこれよりも更に甚だしき者あり。彼らは万葉を尊敬し人丸を歌聖とする事において全く一致しながらも毫も万葉調の歌を作らんとはせざりしなり。
この間においてただ一人の平賀元義なる者出でて万葉調の歌を作りしはむしろ不思議には非るか。彼に万葉調の歌を作れと教へし先輩あるに非ず、彼の万葉調の歌を歓迎したる後進あるに非ず、しかも彼は卓然として世俗の外に立ち独り喜んで万葉調の歌を作り少しも他を顧ざりしはけだし心に大に信ずる所なくんばあらざるなり。(二月十四日)」
(続く)
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