軽いお話をひとつ
私は今までブログの中に、何度か「大阪弁」の話しを登場させました。そのたびに、読んでくださった方々からの「笑えました」「なるほど・・・と、あらためて大阪出身の友人のことが理解できた」等、ニマッとするような感想をいただきました。
最近は、テレビの番組で、すべての都道府県から十数名の出演者を選び、その県独特の風習や食べ物、方言などを紹介する、というものがありますね 私はその番組を見るたびに、ひえーっと驚いたり、手を叩いて笑ったり・・・
その中でも、なぜか毎回登場する「大阪の話題」を見ては、大爆笑をしてしまいます
関東暮らしになって、すでに26年。
同じく大阪出身の夫とともに、毎日の家庭生活では「大阪弁」を使い暮らしていますが、さすがに主人も18歳で大阪を出てから36年。
私たちの大阪弁は、イントネーションこそ大阪弁ですが、この番組の「いかにも大阪」というトピックスを見ていると、今ではすっかり使わなくなった言葉や言い回しなど、かなり多いことにあらためて気づかされます。
きっとそれは、自分達では話していても、ほとんど耳からは大阪弁が入って来ない、という環境だからなのでしょう。
そして、私達は知らず知らずのうちに、ほぼ標準語に近い言葉を、イントネーションだけ大阪弁形式?!に変換して話しているのでしょう
たとえば・・・私が大阪にいる頃は・・・
「○○とちゃうん?(○○じゃないの?)」と話した言葉も、今は「○○とちがうの?」と言っていますし。
「そんなこと、ゆうてへんよ!(そんなこと、言ってないわよ!)」も、「そんなこと、言ってないよー!」と言いますし・・・
「べつに、かめへん、かめへん!(べつに、かまわないよ!)」も言わなくなりました。
言葉は、「心のあらわれ」でもあります
関東での生活、26年。自分では、私は根っからの大阪人だなあ・・・と思いながらも、関東生まれ、関東育ちの2人の子ども達の母として暮らし、毎日、関東人という各地方からの集合体が使う標準語を聞きながら、私も主人も、どこかで「生粋の大阪人」とは違う人間になってきているのでしょう。
そんな私が、とっても愛情を持って使ったり、聞いたりする「大阪弁」の中に、「○○ちゃん、○○さん」という表現があります この○○の中に入るのは、人の名前、ではありません。
たとえば・・・飴ちゃん。飴、キャンディーです。おかい(おかゆ)さん、お粥。おいもさん、お芋、ですね。おまめさん、もちろん、煮豆や炒り豆等の「豆」です。スーパーなどでパックされて売られている大手総菜メーカーに「おまめさん」という製品がありますが、大阪では、昔から豆は「おまめさん」と呼んだものでした
他にも・・・天神さん、大黒さん、弁天さん、えべっさん(戎さん)、愛染(あいぜん)さん、お不動さん、大仏さん。これらは、まさに神様のお名前です。けれど、大阪では、「天満の天神さんに行こか!」のように、まるで「渋谷の佐藤さんのところに行こうか!」と同じように言います。神様も、妙に近しい存在です。
春日さん(春日大社)、すみよっさん(住吉大社)、おおとりさん(大鳥大社)、いくたまさん(生國魂神社)・・・等、神社も「さん付け」で呼びます
私は、ものを大切にする心を育てる・・・という話しをする時に、八百万の神(やおよろずのかみ)の話しをします。
ブログにも、2、3、その話しを書いていますが、私のこういう考え方、物事の捉え方の原点には、こういう大阪人独特の思想があるのではないか?と、最近は考えています
つまり、幼い頃から、「人以外のもの中にも、魂が宿ったように尊んで表現してきた」ことや、「特別、何かの宗教に帰依するわけでないのに、神様を身近に感じ、手を合わせ、感謝していたこと」が、私のベースにあるように思うのです。
こんなふうに考えてみると・・・いろいろとおもしろいですよ。
きっと私が知らないだけで、生粋の江戸っ子にも、横浜っ子にも、そういう気質や考え方を育てる「何か」があるのでしょう。
そして、もちろん、それぞれの都道府県によって、日頃は意識していなくても、あらためて「使っている(使っていた)言葉」を検証してみると、自分の人間形成の柱となっている「何か」が見つかるかもしれませんよ
こんなことを考えながら、言葉、方言を大切に考えてみてください
私は今までブログの中に、何度か「大阪弁」の話しを登場させました。そのたびに、読んでくださった方々からの「笑えました」「なるほど・・・と、あらためて大阪出身の友人のことが理解できた」等、ニマッとするような感想をいただきました。
最近は、テレビの番組で、すべての都道府県から十数名の出演者を選び、その県独特の風習や食べ物、方言などを紹介する、というものがありますね 私はその番組を見るたびに、ひえーっと驚いたり、手を叩いて笑ったり・・・
その中でも、なぜか毎回登場する「大阪の話題」を見ては、大爆笑をしてしまいます
関東暮らしになって、すでに26年。
同じく大阪出身の夫とともに、毎日の家庭生活では「大阪弁」を使い暮らしていますが、さすがに主人も18歳で大阪を出てから36年。
私たちの大阪弁は、イントネーションこそ大阪弁ですが、この番組の「いかにも大阪」というトピックスを見ていると、今ではすっかり使わなくなった言葉や言い回しなど、かなり多いことにあらためて気づかされます。
きっとそれは、自分達では話していても、ほとんど耳からは大阪弁が入って来ない、という環境だからなのでしょう。
そして、私達は知らず知らずのうちに、ほぼ標準語に近い言葉を、イントネーションだけ大阪弁形式?!に変換して話しているのでしょう
たとえば・・・私が大阪にいる頃は・・・
「○○とちゃうん?(○○じゃないの?)」と話した言葉も、今は「○○とちがうの?」と言っていますし。
「そんなこと、ゆうてへんよ!(そんなこと、言ってないわよ!)」も、「そんなこと、言ってないよー!」と言いますし・・・
「べつに、かめへん、かめへん!(べつに、かまわないよ!)」も言わなくなりました。
言葉は、「心のあらわれ」でもあります
関東での生活、26年。自分では、私は根っからの大阪人だなあ・・・と思いながらも、関東生まれ、関東育ちの2人の子ども達の母として暮らし、毎日、関東人という各地方からの集合体が使う標準語を聞きながら、私も主人も、どこかで「生粋の大阪人」とは違う人間になってきているのでしょう。
そんな私が、とっても愛情を持って使ったり、聞いたりする「大阪弁」の中に、「○○ちゃん、○○さん」という表現があります この○○の中に入るのは、人の名前、ではありません。
たとえば・・・飴ちゃん。飴、キャンディーです。おかい(おかゆ)さん、お粥。おいもさん、お芋、ですね。おまめさん、もちろん、煮豆や炒り豆等の「豆」です。スーパーなどでパックされて売られている大手総菜メーカーに「おまめさん」という製品がありますが、大阪では、昔から豆は「おまめさん」と呼んだものでした
他にも・・・天神さん、大黒さん、弁天さん、えべっさん(戎さん)、愛染(あいぜん)さん、お不動さん、大仏さん。これらは、まさに神様のお名前です。けれど、大阪では、「天満の天神さんに行こか!」のように、まるで「渋谷の佐藤さんのところに行こうか!」と同じように言います。神様も、妙に近しい存在です。
春日さん(春日大社)、すみよっさん(住吉大社)、おおとりさん(大鳥大社)、いくたまさん(生國魂神社)・・・等、神社も「さん付け」で呼びます
私は、ものを大切にする心を育てる・・・という話しをする時に、八百万の神(やおよろずのかみ)の話しをします。
ブログにも、2、3、その話しを書いていますが、私のこういう考え方、物事の捉え方の原点には、こういう大阪人独特の思想があるのではないか?と、最近は考えています
つまり、幼い頃から、「人以外のもの中にも、魂が宿ったように尊んで表現してきた」ことや、「特別、何かの宗教に帰依するわけでないのに、神様を身近に感じ、手を合わせ、感謝していたこと」が、私のベースにあるように思うのです。
こんなふうに考えてみると・・・いろいろとおもしろいですよ。
きっと私が知らないだけで、生粋の江戸っ子にも、横浜っ子にも、そういう気質や考え方を育てる「何か」があるのでしょう。
そして、もちろん、それぞれの都道府県によって、日頃は意識していなくても、あらためて「使っている(使っていた)言葉」を検証してみると、自分の人間形成の柱となっている「何か」が見つかるかもしれませんよ
こんなことを考えながら、言葉、方言を大切に考えてみてください
まあまあそうおっしゃらず。東京も良いところですよ
確かに、京都に比べれば「せかせか」しているでしょうが、大阪に比べると、万事、整然と並んだり、順番をまったり・・・暮らしやすいところです 人が冷たい、とか言われますが、それはいらぬ干渉をしないという意味でもあり、排他的でもありません
その地方、地方を前向きに感じようとすれば、その肝要な心にヒットすることは多々あると思います
次回は、是非、ご連絡くださいね おいでになる時には、自動車ではなく、時間の正確な「電車」でどうぞ