凄まじいライブ経験が続いている。
昨夜は、本当に‘バタンキュー’という状態。
とりあえず、ここのところのデカい予定が終了し、爆睡したお陰で(笑)、ちゃんと振り返ろうという余裕が頭の中に戻ってきた。
うん、頭がとっても軽いわぁ!
どうやら私は、夢や希望が持てない性質らしい。
持つのは常に‘目的’と‘野望’。
つまり、現実的に具体的なのである。
そもそも‘夢’って何なのだ?
‘希望’って、どういう事だ?
ま、そりゃそうだ。
人生も確実に後半から終盤に向かうとなれば、それらの言葉が持つ意味合いすら感覚から失われてしまっている気がする。
しかしながら、、、
それは‘夢’の世界だった。
トシさんとのステージ。
‘夢’の意味を思い出した。
自分でない自分を、思い描くこと。
トシさんとステージを共にする、という事は、私には夢ではなかった。
そんな事は考えつきもしなかった。
トシさんとステージを共にしている人達を、羨ましいと思った事もない。
私には別世界での出来事だからだ。
どさくさに紛れる形で、佐渡山さんのライブでステージをご一緒したが、それは偶然のいたずら、一瞬の思い出でしかなかった。
トシさんとステージを共にする事が決まったが、結局リハーサルは当日まで無いので、悶々と妄想するそれは不安にまみれ苦痛に近かった。
ワンマン第2部の本番中、私は夢の世界の住人であった。
それはどんなステージでも経験した事は無い感覚。
トシさんは常に私の‘下’にいて、ここぞという時に、ぐわぁ~っと押し上げてくれるのである。
なんていうのかねぇ、お父さんに抱っこされて、時々高い高いをされて、きゃはははっ!って感じかしらね。
「米兵たちのイラク」とか歌ってんだけど(笑)。
サーフィンなんかしたことないけど、波乗りってこんな感じかしらね。
そかも絶対コケない波乗りね。
トシさんの波に乗って、私は安心して身をゆだね、勝手にどっかへ連れて行ってもらったのだ。
私は、とてもピュアだったと思う。
それに比べると、第1部は、現実との格闘でジタバタしていた。
どっしりした中年女構想は、見事に覆されてしまったのである。
がっかりすること、この上無し。
今回のワンマンは、「声を通して放たれるもの」を意識して構成した。
詩、歌、音、、
構成は悪くなかったと自負するのだけど、残念ながら、それに対応する‘技術’が無かった。
‘技術’というのはね、精神をコントロールする技術の事です。
詩を語っている時の精神状態と、歌を歌っている時の精神状態とを往来させるコントロール。
これは悲しいかな、本番でしか経験できない状態なので、技術を身につけるには本番を重ねるしかないのだ。
精神的にジタバタしているのを、見てる人に面白がってもらうっていうのも有りだと思うけど、そういうのは長年散々お見せしてるから(笑)、私としては、もう一つ上を目指したいのだ。
歌がうまくなりたいとか、ピアノがうまくなりたいとか、そういう事ではない技術。
当たって砕けろ的なものじゃないステージ。
多分ね、それはトシさんみたいなものかな、と思うんだ。
抱っこされるんじゃなくて、抱っこする側に移りたいって感じかな(笑)。
まさに中年女のどっしり感でしょ?
全然ないのよぉ~、実質的には充分どっしり中年なのによぉ!
まぁ、そんなものかもしれないけどね。
いつだって実年齢やそれに伴う肉体的な衰えに、精神がおっついていかないんだよな。
ライブとかやってるから、余計思い知らされるんだな。
精神的に若いとか若々しいとか、そういうのとは違うんだ。
自分が重ねて来た年月や経験を、全て否定せずに積み重ねて、‘今の自分’を自分で肯定したいのだ。
年齢は数字じゃないからさ。
だけど、おっついていないと、否定に近い感覚になるのよ。
それはせっかく生きて来たのに、不幸なことよ、と思ったりするのだ。
自分を否定するとね。人も肯定出来ない気がするのよ。
第1部では、他人の作品を取りこんでみた。
前々回、昨年5月のMacky’s Houseで、人の作った歌を歌う=カバーする、というのをやってみたけど、今回は、人の作った詩を読む=カバーする、というのをやってみようと思った。
青木研治の詩にも、あやはことりの詩にも、夢を感じる。
現実をしっかり捉えていながら、夢を持とうとしている。
それは、人を優しい気持ちにさせる。
私の作品は、わりと容赦がないので(笑)、この優しさがライブに漂わないのだ。
しかたがないので人の力を借りました(笑)。
少なくとも私は、第1部の構成が大好きである。
もう一度、同じ流れでやりたいもん、ジタバタしないで!(笑)
聴いてる人と一緒に、優しい時間を過ごしたいんだ。
おぉ、なんという私の変化かしら?
そして、こうやって書き連ねていくと、‘目的と野望’と‘夢と希望’の違いがはっきりしてくる。
‘目的と野望’は自分の事しか考えてないけど、‘夢と希望’には人との関わりで未来を作りたいって事らしい、どうも。
いや、だから、むしろ、‘夢と希望’はこれから持っていくものなのかもしれない。
‘目的と野望’で、それでも何とか確立してきた自分がしっかりあるからこそ、人との関わりで未来を作っていける力が備わっているんじゃないかと。
確立した自分が無いと、人との関わりは‘依存’になってしまう。
依存で成立する関係、環境は、決して世界が広がらない。内向きになっていくだけだ。
目的と野望は、現実的で具体的と書いたが、現実的で具体的になれるのは自分の事だからだ。
人との関わりは、他人の気持ちや状況によるから、現実的で具体的な‘目的’の設定は難しい。
それも人が増えれば増えるほど、困難になっていく。
けれど、思いがけない世界が広がる。
トシさんが以前、「二人でやるのは、何でも‘恋愛’だけど、三人でやるのは‘社会’になるから、二人より難しいんだよ」
と話して下さったことがある。
いやいや、恋愛だって充分難しい。
でも、大人の恋愛、大人の社会、という、他者を尊重する気持ちを持てば、夢と希望もまた現実的で具体的なものにしていけるだろう。
そして、それは、今だから出来る。
そんな希望を、今、持っています。
初めて‘ライブ’というものに出てから、20年になる。
私はステージ人として、成人したのだ。
というか、成人にならなければならないのだ。
しいこちゃんが、「1部だったよ、まきちゃん!」と言ってくれた。
同じステージ人として、彼女には通じるものがあったんだと思う。
このワンマンは、本当に本当に、やって良かった!
本当によかった!!
あの場にいて下さった全ての方々、そして、いらっしゃれなくとも思いを向けて下さっていた方々に、心からの抱擁を!
昨夜は、本当に‘バタンキュー’という状態。
とりあえず、ここのところのデカい予定が終了し、爆睡したお陰で(笑)、ちゃんと振り返ろうという余裕が頭の中に戻ってきた。
うん、頭がとっても軽いわぁ!
どうやら私は、夢や希望が持てない性質らしい。
持つのは常に‘目的’と‘野望’。
つまり、現実的に具体的なのである。
そもそも‘夢’って何なのだ?
‘希望’って、どういう事だ?
ま、そりゃそうだ。
人生も確実に後半から終盤に向かうとなれば、それらの言葉が持つ意味合いすら感覚から失われてしまっている気がする。
しかしながら、、、
それは‘夢’の世界だった。
トシさんとのステージ。
‘夢’の意味を思い出した。
自分でない自分を、思い描くこと。
トシさんとステージを共にする、という事は、私には夢ではなかった。
そんな事は考えつきもしなかった。
トシさんとステージを共にしている人達を、羨ましいと思った事もない。
私には別世界での出来事だからだ。
どさくさに紛れる形で、佐渡山さんのライブでステージをご一緒したが、それは偶然のいたずら、一瞬の思い出でしかなかった。
トシさんとステージを共にする事が決まったが、結局リハーサルは当日まで無いので、悶々と妄想するそれは不安にまみれ苦痛に近かった。
ワンマン第2部の本番中、私は夢の世界の住人であった。
それはどんなステージでも経験した事は無い感覚。
トシさんは常に私の‘下’にいて、ここぞという時に、ぐわぁ~っと押し上げてくれるのである。
なんていうのかねぇ、お父さんに抱っこされて、時々高い高いをされて、きゃはははっ!って感じかしらね。
「米兵たちのイラク」とか歌ってんだけど(笑)。
サーフィンなんかしたことないけど、波乗りってこんな感じかしらね。
そかも絶対コケない波乗りね。
トシさんの波に乗って、私は安心して身をゆだね、勝手にどっかへ連れて行ってもらったのだ。
私は、とてもピュアだったと思う。
それに比べると、第1部は、現実との格闘でジタバタしていた。
どっしりした中年女構想は、見事に覆されてしまったのである。
がっかりすること、この上無し。
今回のワンマンは、「声を通して放たれるもの」を意識して構成した。
詩、歌、音、、
構成は悪くなかったと自負するのだけど、残念ながら、それに対応する‘技術’が無かった。
‘技術’というのはね、精神をコントロールする技術の事です。
詩を語っている時の精神状態と、歌を歌っている時の精神状態とを往来させるコントロール。
これは悲しいかな、本番でしか経験できない状態なので、技術を身につけるには本番を重ねるしかないのだ。
精神的にジタバタしているのを、見てる人に面白がってもらうっていうのも有りだと思うけど、そういうのは長年散々お見せしてるから(笑)、私としては、もう一つ上を目指したいのだ。
歌がうまくなりたいとか、ピアノがうまくなりたいとか、そういう事ではない技術。
当たって砕けろ的なものじゃないステージ。
多分ね、それはトシさんみたいなものかな、と思うんだ。
抱っこされるんじゃなくて、抱っこする側に移りたいって感じかな(笑)。
まさに中年女のどっしり感でしょ?
全然ないのよぉ~、実質的には充分どっしり中年なのによぉ!
まぁ、そんなものかもしれないけどね。
いつだって実年齢やそれに伴う肉体的な衰えに、精神がおっついていかないんだよな。
ライブとかやってるから、余計思い知らされるんだな。
精神的に若いとか若々しいとか、そういうのとは違うんだ。
自分が重ねて来た年月や経験を、全て否定せずに積み重ねて、‘今の自分’を自分で肯定したいのだ。
年齢は数字じゃないからさ。
だけど、おっついていないと、否定に近い感覚になるのよ。
それはせっかく生きて来たのに、不幸なことよ、と思ったりするのだ。
自分を否定するとね。人も肯定出来ない気がするのよ。
第1部では、他人の作品を取りこんでみた。
前々回、昨年5月のMacky’s Houseで、人の作った歌を歌う=カバーする、というのをやってみたけど、今回は、人の作った詩を読む=カバーする、というのをやってみようと思った。
青木研治の詩にも、あやはことりの詩にも、夢を感じる。
現実をしっかり捉えていながら、夢を持とうとしている。
それは、人を優しい気持ちにさせる。
私の作品は、わりと容赦がないので(笑)、この優しさがライブに漂わないのだ。
しかたがないので人の力を借りました(笑)。
少なくとも私は、第1部の構成が大好きである。
もう一度、同じ流れでやりたいもん、ジタバタしないで!(笑)
聴いてる人と一緒に、優しい時間を過ごしたいんだ。
おぉ、なんという私の変化かしら?
そして、こうやって書き連ねていくと、‘目的と野望’と‘夢と希望’の違いがはっきりしてくる。
‘目的と野望’は自分の事しか考えてないけど、‘夢と希望’には人との関わりで未来を作りたいって事らしい、どうも。
いや、だから、むしろ、‘夢と希望’はこれから持っていくものなのかもしれない。
‘目的と野望’で、それでも何とか確立してきた自分がしっかりあるからこそ、人との関わりで未来を作っていける力が備わっているんじゃないかと。
確立した自分が無いと、人との関わりは‘依存’になってしまう。
依存で成立する関係、環境は、決して世界が広がらない。内向きになっていくだけだ。
目的と野望は、現実的で具体的と書いたが、現実的で具体的になれるのは自分の事だからだ。
人との関わりは、他人の気持ちや状況によるから、現実的で具体的な‘目的’の設定は難しい。
それも人が増えれば増えるほど、困難になっていく。
けれど、思いがけない世界が広がる。
トシさんが以前、「二人でやるのは、何でも‘恋愛’だけど、三人でやるのは‘社会’になるから、二人より難しいんだよ」
と話して下さったことがある。
いやいや、恋愛だって充分難しい。
でも、大人の恋愛、大人の社会、という、他者を尊重する気持ちを持てば、夢と希望もまた現実的で具体的なものにしていけるだろう。
そして、それは、今だから出来る。
そんな希望を、今、持っています。
初めて‘ライブ’というものに出てから、20年になる。
私はステージ人として、成人したのだ。
というか、成人にならなければならないのだ。
しいこちゃんが、「1部だったよ、まきちゃん!」と言ってくれた。
同じステージ人として、彼女には通じるものがあったんだと思う。
このワンマンは、本当に本当に、やって良かった!
本当によかった!!
あの場にいて下さった全ての方々、そして、いらっしゃれなくとも思いを向けて下さっていた方々に、心からの抱擁を!
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