佐渡山豊59才(笑)!
かっちょいい~♪
なんか、ちょっと、自慢な気分(笑)。
骨太な歌って、やっぱりいいね!
佐渡山豊「ドゥチュイムニー」→茶木みや子「一人の道」→杉田二郎「息子よ」の流れは、人生における歌の力を感じた。
歌が全く古くなっていない。
懐かしいなどとは思わないのだ。
今でも生きているのだ。
歌はこうでなければ、と私は思う。
その前後はちょっと懐かしいフォーク集で、差が歴然としていた。
しかしながら、それら懐かしい歌々の言葉のなんと美しいことか。
言葉が美しい、そこに懐かしさを感じるとするならば、それは問題なんだろう。
もっと吟味した言葉を、本来歌は作り出すべきだ。
彼らは基本、シンガーソングライターだが、プロの作詞家作曲家が作る作品が当たり前の当時、それと肩を並べる為に言葉は相当吟味されていて、プロが作るものとの差別化を図る為に、歌う人本人が繰り出す言葉・心情というものを、特性として打ち出していたように思う。
ところで、今の歌い手はほとんどがシンガーソングライターだ。その心情を、まるでブログに書くような軽さと浅さで綴った言葉でも、リズムとメロディに乗せれば案外通用してしまう。
つまりは言葉のプロがいないのだ。
プロというのは、単純にお金を得るということではなく、身を削って言葉を生み出し磨きあげる作詞のプロということ。
青春のフォークソング達の、真珠のように美しい言葉の数々は、シンガーが歌い込み磨きあげ、うっとりするような艶を放っていた。
阿木燿子は、最後の作詞家かもしれない、と「夢一夜」を聞きながら思った。
「夢一夜」がフォークかどうかは疑問だが…(笑)
宇崎竜童が、その美しい奥方が家で詞を書いている様を、鬼のように振り乱した姿で、と、昔語っていたのを思い出した。
真っ黒TVのご機嫌を取って、何とか映ってもらうコツをつかんだので、ビデオに取っておいたのを見れたのである。
TVのない生活の不便はパソコンの比ではない。
よかったわぁ。
真央VSキムヨナも見れた。
キムヨナはエロいと某マイミク氏が力説しており、実に同感なのであるが、私は特に腕がエロいと思っており、そもそも着地が決まらなければ意味のないジャンプにおいて、だから誰もが着地することに全神経を注いでいる時に、キムヨナは着地寸前あの腕をひょろんと上げて見せたりするところで、もう勝負にならないわけで。
ピアノの曲にトリルという技法があり、細かく指を動かすトリルは技術的に難しいのでついついそこが突出しがちだが、流れの中にまさに飾りのごとく溶け込まなければならず、つまりキムヨナはジャンプが美しいトリルになっているのだな。
ただちょっとおかしかったのが、色気を表現しようとしたショートプログラムの「007」は全然色気を感じず、そんなことは表現の主体になっていないフリーの方がエロいのであった。
それでも私は、4年前のミキティのすっころすっころ転げながらの演技が忘れられないのさ。
これを書きながら横目で見ていたパシュートの、ルールもよくわからんし、なぜ日本が負けたのかもよくわからんが、でも銀メダルを取った瞬間を見れてよかった。
TVは必要だ。
TVがなければ「未明」も生まれておらん。
かっちょいい~♪
なんか、ちょっと、自慢な気分(笑)。
骨太な歌って、やっぱりいいね!
佐渡山豊「ドゥチュイムニー」→茶木みや子「一人の道」→杉田二郎「息子よ」の流れは、人生における歌の力を感じた。
歌が全く古くなっていない。
懐かしいなどとは思わないのだ。
今でも生きているのだ。
歌はこうでなければ、と私は思う。
その前後はちょっと懐かしいフォーク集で、差が歴然としていた。
しかしながら、それら懐かしい歌々の言葉のなんと美しいことか。
言葉が美しい、そこに懐かしさを感じるとするならば、それは問題なんだろう。
もっと吟味した言葉を、本来歌は作り出すべきだ。
彼らは基本、シンガーソングライターだが、プロの作詞家作曲家が作る作品が当たり前の当時、それと肩を並べる為に言葉は相当吟味されていて、プロが作るものとの差別化を図る為に、歌う人本人が繰り出す言葉・心情というものを、特性として打ち出していたように思う。
ところで、今の歌い手はほとんどがシンガーソングライターだ。その心情を、まるでブログに書くような軽さと浅さで綴った言葉でも、リズムとメロディに乗せれば案外通用してしまう。
つまりは言葉のプロがいないのだ。
プロというのは、単純にお金を得るということではなく、身を削って言葉を生み出し磨きあげる作詞のプロということ。
青春のフォークソング達の、真珠のように美しい言葉の数々は、シンガーが歌い込み磨きあげ、うっとりするような艶を放っていた。
阿木燿子は、最後の作詞家かもしれない、と「夢一夜」を聞きながら思った。
「夢一夜」がフォークかどうかは疑問だが…(笑)
宇崎竜童が、その美しい奥方が家で詞を書いている様を、鬼のように振り乱した姿で、と、昔語っていたのを思い出した。
真っ黒TVのご機嫌を取って、何とか映ってもらうコツをつかんだので、ビデオに取っておいたのを見れたのである。
TVのない生活の不便はパソコンの比ではない。
よかったわぁ。
真央VSキムヨナも見れた。
キムヨナはエロいと某マイミク氏が力説しており、実に同感なのであるが、私は特に腕がエロいと思っており、そもそも着地が決まらなければ意味のないジャンプにおいて、だから誰もが着地することに全神経を注いでいる時に、キムヨナは着地寸前あの腕をひょろんと上げて見せたりするところで、もう勝負にならないわけで。
ピアノの曲にトリルという技法があり、細かく指を動かすトリルは技術的に難しいのでついついそこが突出しがちだが、流れの中にまさに飾りのごとく溶け込まなければならず、つまりキムヨナはジャンプが美しいトリルになっているのだな。
ただちょっとおかしかったのが、色気を表現しようとしたショートプログラムの「007」は全然色気を感じず、そんなことは表現の主体になっていないフリーの方がエロいのであった。
それでも私は、4年前のミキティのすっころすっころ転げながらの演技が忘れられないのさ。
これを書きながら横目で見ていたパシュートの、ルールもよくわからんし、なぜ日本が負けたのかもよくわからんが、でも銀メダルを取った瞬間を見れてよかった。
TVは必要だ。
TVがなければ「未明」も生まれておらん。