田中眞紀子(シンガー・ソング・ライター)

ピアノの弾き語りで活躍する田中眞紀子のブログサイト。ホームページはブックマークから。

見たっ!

2010-02-28 07:15:31 | Weblog
佐渡山豊59才(笑)!
かっちょいい~♪

なんか、ちょっと、自慢な気分(笑)。

骨太な歌って、やっぱりいいね!
佐渡山豊「ドゥチュイムニー」→茶木みや子「一人の道」→杉田二郎「息子よ」の流れは、人生における歌の力を感じた。
歌が全く古くなっていない。
懐かしいなどとは思わないのだ。
今でも生きているのだ。
歌はこうでなければ、と私は思う。
その前後はちょっと懐かしいフォーク集で、差が歴然としていた。

しかしながら、それら懐かしい歌々の言葉のなんと美しいことか。
言葉が美しい、そこに懐かしさを感じるとするならば、それは問題なんだろう。

もっと吟味した言葉を、本来歌は作り出すべきだ。
彼らは基本、シンガーソングライターだが、プロの作詞家作曲家が作る作品が当たり前の当時、それと肩を並べる為に言葉は相当吟味されていて、プロが作るものとの差別化を図る為に、歌う人本人が繰り出す言葉・心情というものを、特性として打ち出していたように思う。

ところで、今の歌い手はほとんどがシンガーソングライターだ。その心情を、まるでブログに書くような軽さと浅さで綴った言葉でも、リズムとメロディに乗せれば案外通用してしまう。
つまりは言葉のプロがいないのだ。

プロというのは、単純にお金を得るということではなく、身を削って言葉を生み出し磨きあげる作詞のプロということ。
青春のフォークソング達の、真珠のように美しい言葉の数々は、シンガーが歌い込み磨きあげ、うっとりするような艶を放っていた。

阿木燿子は、最後の作詞家かもしれない、と「夢一夜」を聞きながら思った。
「夢一夜」がフォークかどうかは疑問だが…(笑)
宇崎竜童が、その美しい奥方が家で詞を書いている様を、鬼のように振り乱した姿で、と、昔語っていたのを思い出した。




真っ黒TVのご機嫌を取って、何とか映ってもらうコツをつかんだので、ビデオに取っておいたのを見れたのである。
TVのない生活の不便はパソコンの比ではない。
よかったわぁ。
真央VSキムヨナも見れた。

キムヨナはエロいと某マイミク氏が力説しており、実に同感なのであるが、私は特に腕がエロいと思っており、そもそも着地が決まらなければ意味のないジャンプにおいて、だから誰もが着地することに全神経を注いでいる時に、キムヨナは着地寸前あの腕をひょろんと上げて見せたりするところで、もう勝負にならないわけで。

ピアノの曲にトリルという技法があり、細かく指を動かすトリルは技術的に難しいのでついついそこが突出しがちだが、流れの中にまさに飾りのごとく溶け込まなければならず、つまりキムヨナはジャンプが美しいトリルになっているのだな。
ただちょっとおかしかったのが、色気を表現しようとしたショートプログラムの「007」は全然色気を感じず、そんなことは表現の主体になっていないフリーの方がエロいのであった。

それでも私は、4年前のミキティのすっころすっころ転げながらの演技が忘れられないのさ。

これを書きながら横目で見ていたパシュートの、ルールもよくわからんし、なぜ日本が負けたのかもよくわからんが、でも銀メダルを取った瞬間を見れてよかった。

TVは必要だ。
TVがなければ「未明」も生まれておらん。



虚構と現実の往来

2010-02-22 04:13:52 | Weblog
ミュージシャンは楽器を持たなきゃ`ただの人´っていう部分がある。
つまりは楽器を弾き出すと同時に`虚構´に入る。そこで現実との区切りがつけられる。
しかしながら、生身の肉体を表現手段とするダンサーは、気持ち一つでその区切りをつけなければならない。
ダンサー自身はその区切りがつけられても、見る側にどこまで区別がつけられるか?

渋谷ルデコにて19日に観賞した「Rosengaten Ⅰ」は、出演者がスタッフを兼ねるというものであった。
洒落たギャラリーにステージを設置し、薔薇をテーマにした装飾。
様々なジャンルのパフォーマンス。
野心的な内容であったとは思う。

気持ちは伝わる。
自分たちで全てのステージを作り上げようとする。
きっと経済的な面もあるだろう。
が、今、ステージでパフォーマンスを終えた人がすぐにスタッフ的な仕事を観客の前に見せてしまうこと、会場のセッティングを変えたり、機材を整えたり、という行為は、実はその直前のパフォーマンスの価値を下げてしまうのを、まざまざと見てしまった感がある。

リョウ君の前の、オープニングのダンスは好きなパフォーマンスだった。
2番目の、中二階のステージを使っての、女の子の歌→朗読→ダンスのパフォーマンスはアイデアが良かったと思うし、休憩後のバンド編成グループは、ボーカルの女の子が、客席に脚立を置いて客の物凄い間近での色っぽいパフォーマンスで、根性入ってたし。
その間のセッティング等を、オープニングの面々が、衣装のまま行うのだが、せっかく素敵だと思った`虚構´が`現実´にかき消されてしまい、それはだから非常にもったいないのだ。
一つ一つのパフォーマンス後に、それを味わう余韻がないのである。
虚構を担当する者と現実を担当する者の役割は、完全に分担すべき、と思った。
それなりにちゃんとお金をかけて作られた衣装を着たまま、客の前で‘雑用’をやってはいかん。虚構を作り上げたパフォーマンス後にダラ~ンとした姿を客に見せてはいかんのだ。

出演者には出演者の役目がある。観客に夢を見せるのが`役目´なのだ。観客はそれを夢とわかって見るのである。だから同じ人がスタッフ仕事をしたり‘素’の状態を堂々と見せては、観客の感覚が混乱するのだ。
出演者とスタッフの仕事の価値は同等だが、別物にすべきなのである。
スタッフの仕事をしたいなら、Tシャツとジーパンに着替えるか、その仕事もパフォーマンスにするくらいでなければ。
直後にダラ~ンとしたい気持ちは嫌ってほどわかるが、それはカーテンの陰でやらねばならないのだ。
自分は客から見られている存在なのだということを、絶対的に意識しなければ!
なにより虚構の舞台として使った中二階を、物置や楽屋やカメラマン席にしてはいかんよ。

そして、それらの事を避けるには、あのスペースには無理がある。
あの日の公演をそのままやりたいのであれば、それに則した会場を選ぶべきだし、あの会場を使いたいなら、もっとシンプルなパフォーマンスを選ぶべき。
つまりは、すべてがtoo muchなのである。

この作文は自戒を込めて書いている。
ステージ進行の難しさ、大切さを強く認識しないではいられなかった。
今まで自分は1パフォーマーとして自分のパフォーマンスだけを考えて来たし、そこで完結する形のライブをやってきたのだが、Macky’s Houseを始めて感じるのは、その日の全体像を細部までイメージして構成しないと、スムーズでスマートな進行にならず、スムーズでスマートな進行にしなければ、やりたいと思う事の真の内容を、的確に観客に伝えられないのだということなのだ。

Macky’s House vol.1をやった時、あきらかにtoo muchだった。
それを見てくれたアオケンに「ちょっと長いですよ。」と言われたが、そのアオケンもワンマンでは  too much状態であった(笑)。
チバ大三CD発売記念もtoo muchだった。too much状態の一因を、それがわかっているはずの私自身が自分のコーナーで作ってしまった。
そりゃそうなのだ。
こんなデカいライブは滅多にしないという時、誰だって‘あれもやりたい、これもやりたい’と思うし、本番で気持ちが高揚すれば、どうしたって長くなる。
今までは‘良し’としようと思う。
ただこれからの私は、こういうデカいライブを普通に、常にやっていこうとしているわけだから、too muchに甘えてはいけないと思っている。
あまりにも観客の心理を計算つくした小上手いステージも何だかなと思うが、小上手くではなく、しかしながらtoo muchでもない、ギリギリのところを狙っていきたい、と野望は膨らむのだ。

vol.3で組むアオケンとは、たぶんやりたいことが同じだと互いに思っているのだが、それはきっと虚構と現実の狭間みたいなところを行ったり来たりするステージをイメージしてるんじゃないかと、私の方は考えている。その為にはスムーズでスマートな進行は絶対的必須項目で、私が歌う私のライブがない今回、私の役目はそこにあると思う。
19日の公演は、リョウ君のコントラバスのステージが見れた事とともに、進行について深く考えさせてくれた、今の私には貴重な一夜だった。
そして、この日の最後、薔薇絵さんの格の違いを見せつけるダンスパフォーマンスは、それまでのゴチャゴチャした感じを完全払拭する素晴らしいもので、結局、非常に満足感の残る公演となったのだ。

本物の力を痛感した。

本物になりたいものである。



ふんっ!
なんか、久しぶりに、気合いの入った作文を書いた気がするわっ!!
私のパソコン、壊れたままなんだけど、うちのTVも壊れたの。
音だけして、画面が映らないの。
うちってボロい。
これが超現実だわよ。。。







ないす・ふぉろー!

2010-02-20 02:53:21 | Weblog
雪がない!
前日の朝は一面の銀世界だったのに、あれは夢だったのかってくらい、見事に雪がない。
そのうえ、白梅の花弁がもう落ちている。
春、近し。。


さて渋谷ルデコとはどこかいな?と、歩いたことのない渋谷警察から恵比寿方面を、お上りチックにあるいていると、歩道に妙な人だかり。
なんと1Fのウインドウで女性ダンサーが踊っている。
おぉ、ここだここだ!

昨年の血刃了企画‘刃の夜’や独パン110番に出ていたダンサーの本原さんの公演にホンダリョウ君がPAとステージで参加するというので、見に行った。
おぉ、ここだここだ!
と思っていたら、ふっきーやめぐみちゃんやチバ君を人だかりの中に発見。
だいぶ外で待たされて、文句を言ってるおじさんもいた。
色んな客層だ。

イントロ的ステージがひとしきりあった。
このステージ、右手に中二階があって、その真下に座ったら、そこで踊ってる本原さんとかが全然見えなくて、あら失敗!と思ったが、そのあと客席を作りだしたので、さっそく移動。中二階がしっかり見える位置に、チバ君、私、ふっきーと並んで座る。

リョウ君は、てんぱっていた。
イントロのところから、とってもてんぱっていた。
客席を作ってから最初のステージがリョウ君。
PA席で準備しているリョウ君と目が合って、一瞬にっこりしたが、そりゃPAもやり自分のステージもやりでは、さぞ大変であろう。
客席はベンチ椅子。
前から2列目の端っこにチバ君は座ったのだが、そのチバ君の目の前に、リョウ君は自分の演奏用のアンプを、客席に向けて置いた。
音量のレベルが高いってことでか、チバ君が笑っていた。

ところが。。。

リョウ君の前衛的なコントラバスの演奏が始まった。
チバ君、
「アンプのスイッチ、入ってないよ。」

PAはリョウ君であるわけで、そのリョウ君がステージに上がって演奏を始めちゃってるので、だからつまり誰もスイッチをいれる人がいないわけなんであるな。

チバ君は、しばらく屈みこんでいた。
で、とあるタイミングをはかって、ポンとスイッチを入れた。
アンプのスイッチが入ったとわかると、リョウ君はそれに対応する演奏で応じ、それはあたかも演出であるかのごとく、この難関を突破したのである!!
おぉ!
日々スタジオで、ステージで、繰り広げている血刃了2人のセッションのコンビネーションは、こんなところでも生かされているのである!!
素晴らしいっ!!!

そのあと、心配事が無くなって、マイクをぶっ倒したりしながらの生き生きとした演奏を繰り広げたリョウ君の、コントラバスの即興は初めて見たが、色々とイマジネーションを掻き立ててくれるステージで、あんな事が出来る、とか、こんな事がしたいだとか、そんなことばかり考えながら聞いていた。

演奏のあともリョウ君はてんぱり続けており、まきこ姉さんはオリンピックみたいに「リョウ君、頑張れ!」って旗を降って応援したいくらいなのであった。

この公演、今,Macky’s Houseを展開していこうとする私にとって、非常に参考になり勉強になるステージであったが、今夜はこの辺で。

20日も公演があるそうで、頑張ってちょうだい♪




ひと段落

2010-02-16 02:55:19 | Weblog
12日のライブレポをほぼ書き終えた時、キーボードの何かをポンと押したら全部消えてしまったの。
で、ふてくされて、今日までおさぼり。



12日は予告通りの曲目。
ブンちゃん、ルリヲ君と彼の友達、この日の出演者の‘さゆりn‘と5人で打ち上げ。
楽しかった。
なんか、ライブの後にこういう打ち上げするの、久しぶりだなぁ、と思った。
大きいライブは当日が大変だから、こんなほっこりとした時間は持てないなぁ、などと、贅沢な不満を言ってみる。
そして、新しく知り合った人と親交を深めるっていうのも、ここのところあんまりなかったかな。
さゆりnちゃんは、知り合いの知り合いの知り合いであった。(笑)
懐かしい感じの、良いライブの一日だった。
はからずも。


12日、京王線が止まっていた。
高尾に回ってJRに乗るよう駅員に言われて、来た電車に乗ったが、10分待っても動かない。
そうしてる間に新宿行きが来たので、そっちに乗り換えてみた。
乗ったら、車内アナウンスで特急は動いてないと言う。
各駅で新宿までなんて、そりゃたまらん!
で、京王八王子からJRの八王子に行こうと思った。
はからずも「エレベーター」の舞台を目にすることになった。
秋葉のカトウの裁判が始まり、歌わなければ、という気持ちになっていた。
リクエストも貰っていた。
身体中が曲の中に入って歌っていたように思う。
お茶の水KAKADOのスタッフの皆さま、聞いて頂いた皆さま、良い空気の中で歌わせて頂きました。
ありがとうございました。
時々、やっぱりこんなライブ、やりたいな。




今夜、vol.3のアオケン&やっちゃんと、初スタジオ。
見えた!!
良かった。。。

やっと楽になった。

このvol.3に関して計画を練り始めたのが昨年の3月。
ようやく具体的な段階に入り、今まで一人で悶々としていた脳みそが、悶々をアオケン&やっちゃんにバトンタッチして、解放された感じである。私はただ練習すればいいだけだ。
嬉しいな。




これから7月まで、怒涛な日々が続く。
今月中は、ちょっとゆっくりできる。
vol.3の次の怒涛を紹介する。


4月24日(土)に赤城山の‘虫の音’でライブをする方向。
私から強引にねじ込んだ。


5月15日(土) Macky’s House vol.4(アピア40)
 「田中眞紀子ワンマン」
   共演 山崎怠雅・ホンダリョウ

1月29日のvol.2の田中眞紀子+山崎怠雅、田中眞紀子のソロ、1月10日のチバCD発売記念での田中眞紀子+ホンダリョウ、これら3部形式の田中眞紀子‘大ワンマン’となります。


5月下旬はツアーがあるかも。
7月にはvol.5を計画中。

ほんと、今しかゆっくりできないなぁ。。。





幸福のつけ。平凡の居心地。

2010-02-08 03:24:49 | Weblog
年末から、年越しライブ、チバCD発売、M.H.vol.2、そして3日のvol.3の打ち合わせ。
自ら望み設定した幸福な日々であったが、どうやら私の許容範囲を超えていたらしい。
体調激悪、元々休みを設定しておいた日と合わせて4連休を散ってしまった。
まぁね。感慨深き大きなライブを終えて、一晩寝たらもう次の準備、ってのは、まずいスケジューリングだわ。
身体というより、精神的に良くないわ。
今後、ちょいと気をつけよう。
楽しいことやって、身体壊してたら、馬鹿みたいだもんね(笑)。

にしても、4日もゴロゴロしたのは久しぶり。
これまた、全然別の意味で、ちょいと幸福。
しかし!その分、金が入ってこないのである。
これから日々節約である。

幸福には、必ず‘つけ’がある。


ところで、ライブ告知。
久々に、本当に普通で平凡なライブ。
昨夜は体調も持ち直して練習したが、いいなぁ、平凡なライブ(笑)。
よく考えると、今後、こういう普通のライブをやる予定が全くないのだ。
ちょっとした試みをしてみよう。
先にここで、セットリストを発表する。
あ、聞きたい曲がある!って思って来て下さる方なんて、いらっしゃらないかしら?(笑)


2月12日(金) お茶の水KAKADO

   田中眞紀子ソロライブ

     予定曲  夜の時代
           ダイヤモンド
           断章 呼子と口笛(詩:石川啄木 曲:佐渡山豊)
           あんたの都合のいいように
           エレベーター
           素通り
           冬の一番最後の日

     出演時間  PM20:30(4組中4番目)
     料  金  1000円+ドリンク代


平凡、ったって、実はKAKADOさんでソロライブやるのは初めて。当日現場に行けば私の事だから、緊張してキエ~ってなことになるんだろうが、準備段階では‘普通で平凡’を楽しんでいます。
1月29日と曲がかぶらないようにってことで、上記のようなラインナップにしたんだけど、何年ぶりかの「冬の一番最後の日」、平凡だけど穏やかな、今の私には居心地の良い歌だな。

お待ちしています。
私の性格上、このラインナップが変わることはございません、はい。

コメント欄からKAKADOのHPに行けます。





学問

2010-02-04 03:27:25 | Weblog
学問という言葉は「問いを学ぶ」という意味だから、答えは見つからなくても問いを立てること。

とある大学の広告。
答えは見つからなくても問いを立てる。
今、やってることじゃないか!?


vol.3始動。
伴ちゃんと3時間練習した後、アオケンと廣瀬康子嬢と合流し決起大会。伴ちゃんが近場に泊まるということもあり、結局4時間半くっちゃべっていた。
まただ。(笑)
康子ちゃんも、お子さんに「豆まきをしておけ」とメールして、最後まで付き合ってくれた。
伴ちゃんと練習しながら、せっかく決めたセットリストが崩れそうな、アイデアに満ちたアオケンの口癖は、
「大丈夫、大丈夫」
本当かぁ?(笑)


まだ妄想の範疇たが、これまた面白いことになりそうだ。
きっと創作する楽しみを満喫できる。


答えの見つからない問いが、いっぱい立ってる。
どんな答えが出るかしら?
学生の頃、勉強は大嫌いだったけど、これが‘学問’なら、学問が大好きだな、私。

耳がしゅわしゅわ

2010-02-03 03:09:12 | Weblog
眠くて眠くて眠くて…
29日の後遺症である。
あれから3日後である2月1日の夜、9時にはクラクラきて寝てしまい、2日の午前2時ごろ目が覚めて、やっとあの日の疲労から抜けたなぁ、と思った。

そしてもう、あの日の相方・山崎怠雅の、別の姿を目撃することになる。

2日の六本木Club Edgeは、1月に共に熱いステージを過ごした戦友のスゥイート・ハート氏達が3人集結するので、遊びに行った。
そう、遊びで彼らの音を聞くのは久しぶり。

正直、音響には難有り、と私の感覚では思ったが、それをバネにして後半うなぎ上りに調子を上げた血刃了、連戦で付けた力がものを言った感じだった。

でもそこにいたのは、私の知っているチバ大三とホンダリョウだったが、最後に出てきた山崎怠雅は知らない人だったな。小屋の音を味方に付けていて、最大限に‘私の知らない彼’の持てる力を発していた。
正直ノイズ系は苦手だし、そりゃもううるさいっ!と思ったが(笑)、その後ろにちゃんと音楽と、感情の裏づけが感じられて、苦手ながら‘美’を受け取れた。
そして、これでしばらく歌わない、という万感の放ちが、本人にもベーシストにもドラマーにも満ち溢れていて感動的なステージだった。

なんか今夜、私にもけじめが付いた。
夜が明けたら、vol.3が始まる。
みんな次々と、次に向かっている。
良い感じだね!

良くないのは、私のお耳。
しゅわしゅわしゅわしゅわ、ずっとゆっている。
せっかくお指の負傷が治ったのに、今度は鼓膜の負傷かしらん…


リードボーカル

2010-02-01 02:37:43 | Weblog
日曜日は時給が良いので、仕事のシフトを入れてあったが、止めときゃよかったな~。もんのすごっく、くたびれとる。
ヨレヨレと出勤し、歯をくいしばって、ぼーっとするのをこらえていた。

すぐにvol.3準備が始まる上に、2月12日に御茶ノ水カカドゥでソロライブがある。あの重厚だったvol.2を、本当に一晩で忘れなければならない。
チバ→怠雅も一晩で移行したが。
これからはもっと思い出にひたれる時間を取れるように、計画を立てよう。

ところで、12日はvol.2と曲がダブらないようにと考えている。今夜練習してみたら、これまた、あれもこれも弾けなくなっていた。
なお、指の負傷は左の薬指で、「乙姫~」練習がハードであった為。普段あまり使わない指でアタックの跳ね返りの強い黒鍵を叩いたのが原因であった。ところが12日用の曲ではほとんど使わないので、何となく可笑しくなっちゃった。
このちょっとした痛みであのライブの余韻を噛みしめつつ、次なる目標に向かうのである。

そして記憶が生々しいうちに、あの日の感覚を残しておこうと思う。



〈怠雅の部について〉

前半は2人とも緊張して、何だかヨレヨレしていたようだけど、余興のジュリーの後、力が抜けて、凄く良くなった。バラード風にアレンジを変えて、ライブ3日前までろくにやらなかった「夜の果て」なんて物凄く素晴らしい出来。
私としては「明日があるから」に、プレビューからの自分の成長を感じられて嬉しかった。
ラストの「そんな夜」もカッコよく決まったし。
そう言っちゃなんだが、当日リハでやらなかった曲の方が良い感じで出来たってのも、どうしたもんかしら?(笑)
ただし、実はお互い苦手なんだと確認しあって(笑)、真面目に練習した「フィクション」は、練習の成果でばっちり!

このデュオの怠雅版も出来れば、これっきりにしたくない、と思う。今度はアコギも持って来てもらって、グランドピアノの音が美しいアピアでやりたいな。曲によってはやっぱりアコギだっていうのがあったし。
いつの日か、私に出動依頼が来るのを楽しみに待っている。
まさに「ワイン或いはウィスキーが熟成されるように音楽が熟成される地下室」の新しいブレンドの仕込みは上々で、寝かせの時期に入るのだ。


〈眞紀子の部について〉

その寝かせの期間、このデュオは眞紀子版の発展に力を注ごうとしているのだが。
自分で企画したのだから、誰にもどこにも文句は言えないのであるが、怠雅のサポートモードから、`自分が主役モード´に切り替えるのは難しかった。
しかし、第1部で`ステージ人´としては暖まっていたので、コケたのは1曲で済んだ。
それは残念ながら、あれほど力を入れたキャロルキングなのであった(笑)。

勿論、リベンジしますとも!
いや、反省すべきは、いくら好きで歌っていて、それこそ自分の歌より歌い込んでいる歌であっても、やはりライブで歌う、というのは別物だということを舐めてかかっていた自分である。ライブを通しての内的感覚として、キャロルキングとオリジナルの自分の中での存在感は、圧倒的に自曲にあった。どんなに、そう、自曲よりキャロルキングが好きだとしてもだ。
キャロルキングの「タぺストリー」ライブをやっても、きっと余興にしかならないだろうな。
としても、やっぱりやりたいな。
自曲の力を確認するためにも。

キャロルキング失敗という犠牲を払って切り抜けたモード切り替えだったが、違う意味での切り替え問題がその後、内的感覚に浮上してきた。それは私の中での`シンガー´の部分ではなく`ピアニスト´の部分で歌っていた事である。
ライブ終了後、「未明」が良かったとの声を頂いたが、2人のコンビネーションが良かった、ということだけでなく、「未明」から歌詞を見なかった事も大きかったと思う。
それは最初から計画していた事だった。
先のモード切り替えの影響は予想していて、切り替えによる失敗がサポートを依頼している怠雅に影響しないよう、保険をかけるために自曲も歌詞を用意していたが、最後の2曲、ここが田中眞紀子の見せ場だってところは流石に歌詞を見ないでやろうと。

楽曲の質もあるが、あそこからやっと本格的にシンガーのスイッチが入ったんだなと、思った。
というかね、怠雅のサポート中、及び自分のライブ中盤まで`Macky´だったの。「未明」から`田中眞紀子´になったの。
だからつまりは私の場合、`田中眞紀子´をやりたかったら歌詞を見ながら歌ってはダメなんだ。怠雅に貪欲なギターを弾かれると、勿論それを私が彼に要求しているのだが、私がそのギターに感応してピアニストになってしまい、ボーカルがその上を行かないだ。ボーカルが上に行くには`田中眞紀子´でならなければならないのだ。
そして実は、歌詞を見なくなってからの方が、ギターの音がよく`見えた´のだった。歌詞を見ない事で、音楽の視野が広がったわけである。

大変危険ではあるけれど、これはやらなければいけないのだと、この日はっきり認識した。ただ、その為にはトレーニングが必要である。
山崎怠雅、ホンダリョウという、貪欲なミュージシャンを次回は2人も背負うのだ。リードする力がなと、私が潰れてしまうのだ。
`リードボーカル´というのは、こういうことなのか、と深いところで実感した貴重なライブであったのである。


物凄く大変である。
猛烈にへばる。
楽しいは95%あるが、残り5%は、何でこんな事をやってるのかと、絶望的に嫌になったりする。
だけど終わった時に、自分の中の大きな進展が、必ずある。
この企画は私にとって、絶対に間違ってないと確信する。

やって良かった。
本当に。
そして関わってくれ、私を成長させてくれる人達に、感謝以外のなにものでもない。
昨年2月から話し合い(という飲み会・笑)を重ねて、この日のライブを実現させてくれた山崎怠雅に、あらためて精一杯の感謝を、この場を借りて伝えたい。