かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

「波木井殿御報」 日蓮聖人、生涯最後の手紙(旅の報告)

2011-09-03 | 池上本門寺・池上市民大学
池上市民大学 第11回講座より

日蓮聖人、生涯最後の手紙(旅の報告)
弘安5年(1282)9月19日
 波木井殿御報(はきいどのごほう)

畏(かしこ)み申し候。みちのほど(道程)べち(別)事候はで、いけがみ(池上)までつきて候。みちの間、山と申し、かわ(河)と申し、そこばく大事にて候けるを、きうだち(公達・きんだち)にす(守)護せられまいらせ候て、難もなくこれまでつきて候事、をそれ入り候ながら悦び存じ候。
 波木井殿御報
謹んで申し上げます。ここまでの旅路では、取り立てて変ったこともなく、池上までたどり着くことが出来ました。途中、山や川には少々難儀いたしましたが、波木井殿のご令息たちに助けていただきながら難なくここまで来られたことは、大変有難くうれしい限りでございます。

さてはやがてかへりまいり候はんずる道にて候へども、所らう(労)のみ(身)にて候へば、不ぢやう(定)なる事も候はんずらん。さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候みを、九年まで御きえ候ぬる御心ざし申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも、はか(墓)をばみのぶさわ(沢)にせさせ候べく候。
ここまでの道のりは、やがて帰りにも通る道ではありますが、なにぶん病中の身ですので、いつどこでどうなるやも知れません。
本来ならば日本国の誰もが持て余すような私を、九年間にわたり帰依下さった波木井殿のお志は、申し上げようもないほど素晴らしくありがたいものであったので、せめてどこで死のうとも、私の墓は身延の沢に建てていただきたいと思います。

又くりかげの御馬はあまりをもろしくをぼへ候程に、いつまでもうしなふまじく候。ひたち(常陸)のゆ(湯)へひかせ候はんと思候が、もし人にもぞとられ候はん。又そのほかいたはしくをぼへば、ゆ(湯)よりかへり候はんほど、かづさ(上総)のもばら殿もとにあづけをきたてまつるべく候に、しらぬとねり(舎人)をつけて候てはをぼつかなくをぼへ候。まかりかへり候はんまで、此のとねりをつけをき候はんとぞんじ候。そのやうを御ぞんぢのために申し候。
恐々謹言
   九月十九日    日蓮
進上 波木井殿  [御侍]
また栗鹿毛(くりかげ)の御馬はとても立派で頼もしいので、いつまでも手放したくはありません。常陸の湯へも引き連れて行きたいところですが、もしかしたら道の途中で人に奪われるかもしれません。それでは可哀想に思うので、湯より帰ってくるまでの間、上総の藻原殿(もばらどの)のもとに預けておきたいと思いますが、見知らぬ家来にまかせては不安に思います。なので、私が戻るまでこれまでと同じ家来を付けておきたいと思います。そのようにご承知置き下さい。
恐々謹言
 九月十九日 日蓮
 進上 波木井殿  [御侍]
 所らうのあひだ、はんぎやうをくはへず候事、恐れ入り候。
病中につき、判形(花押)を省略しましたこと、恐れ入りますがお許し下さい。

                     「第5期 池上市民大学 第11回」で配られたテキストより。


〇弟子の日朗に墨をすらせ、日興が筆をとり、波木井実長宛に手紙(旅の報告)をしたためた。これが生涯最後の手紙となった。
〇波木井殿 南部実長のこと。日蓮の有力檀越。甲斐国波木井(はきり)に居住したので波木井実長とも呼ばれる。
〇南部(六郎三郎)実長(なんぶ・さねなが) 貞応元年(1222)~永仁5年(1297)
鎌倉時代中期の御家人。南部光行の三男。子に実継。八戸氏(根城南部氏)の祖。
〇かぶとんのポイント
「さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候みを、九年まで御きえ候ぬる御心ざし申すばかりなく候へば、」
(本来ならば日本国の誰もが持て余すような私を、九年間にわたり帰依下さった波木井殿のお志は、申し上げようもないほど素晴らしくありがたいものであったので、)
「いづくにて死に候とも、はか(墓)をばみのぶさわ(沢)にせさせ候べく候。」
(せめてどこで死のうとも、私の墓は身延の沢に建てていただきたいと思います。)



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