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かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

雪中の長岡市内 長岡藩筆頭家老・稲垣平助を訪ねて長興寺へ

2011-02-06 | 新潟 長岡

雪中の長岡市内。今回の訪問目的はここ。
長岡藩筆頭家老・稲垣平助家の墓地を訪ねて、はるばる東京から長岡・長興寺へやって来た。



「普厳山 長興寺」 曹洞宗・越後国録所。鶴見・総持寺の輪番寺院。
 新潟県長岡市稽古町1636
越後長岡藩・家老家の稲垣氏と山本家の代々の菩提寺。




「戊辰史跡 案内標柱 長岡藩名家の墓 山本家 稲垣家」












案内板 堀口大學先生の墓


「山本五十六墓所」の表示が向こうに見えるが。




案内板 稲垣平助の墓
100m先、はオーバーか。それでも 5、60m以上はある。塀と墓石の隙間をぬって、ズームでようやくと写す。


墓地まで行きたかったが、途中で挫折。ひき返す。「稲垣平助」前途多難の予感。



雪がなくなったら、またあらためて来ます。


長岡藩・稲垣平助家と『武士の娘』の著者、杉本鉞子(えつこ)(さん)。そして鉞子の父・稲垣平助茂光(重光)への関心は、いよいよ増すばかり。


参考  長興寺(長岡市) - Wikipedia



雪中の長岡市内 牧野家菩提寺・河井継之助墓所-栄凉寺

2011-02-05 | 新潟 長岡

市内稽古町
せり出している屋根は雁木。
向こうの高架は新幹線。下に信越線。踏み切りを渡ってすぐ左が栄凉涼寺。


栄凉寺の門前。


戊辰史跡 案内標柱 「長岡藩知名士の墓」
牧野忠訓 河井継之助 三島億次郎


案内板 「栄凉寺墓地内知名士の墓」*




本堂は雪の中。


案内標柱
「河井家の墓ハ此處 忠良院殿が継之助様であります」
雪が深くて、そばまで行けず。(画像はズームアップして撮ったもの)

栄凉寺
 新潟県長岡市東神田3-5-6
 光輝山月照院栄凉寺 (浄土宗)

  * 栄凉寺墓地内知名士の墓
 光輝山栄涼寺は、長岡藩主牧野氏の菩提寺。牧野氏が三河国牛久保(愛知県豊川市)城主時代に創建。牧野氏の移封に伴って、上州大胡(群馬県大胡町)を経て、現在地に移った。
 境内の墓地には、長岡藩出身者の知名士の墓が多い。
 戊辰戦争時の十二代藩主牧野忠訓(ただくに)公。十三代藩主牧野忠毅(ただかつ)公。初代長岡市長牧野忠篤(ただあつ)子爵。長岡藩軍事総督河井継之助(つぎのすけ)。復興の恩人三島億次郎。長岡藩・・・など(最終行、かすれていて読めず。)
                                           長岡市教育委員会
他のサイトで確認したところ、「・・・」は、「長岡藩儒伊藤東岸・東嶽両先生」とのこと。


こちらは、正覚寺(しょうがくじ)。




歓喜山 正覚寺(別称 赤門寺) 浄土真宗本願寺派
 新潟県長岡市長町2-550

新潟県の長岡好きと言ってはみたものの、農家出身の今は亡き両親から長岡藩のお侍さん(武士・藩士)の話は、生涯、一度も聞いたことがない。質問をしたことが一度もない、ともいえるが・・・。それでも、年を経るにつれ、長岡とはどんなところなんだ、という興味・関心が増すばかり。いまはもう、自力で確かめていくしかない。
と、いうことで、ここ正覚寺は・・・
杉本鉞子の『武士の娘』、「二 縮れ毛」の項で出てくる真宗のお寺でないの?(今は推測・推量)
長岡の郷土史家の皆さん!?、市の歴史関係、担当の皆さん!!


余談
について
愛用のGoogle検索では悩ましい。
「長岡市 栄寺」は1,040件。 「長岡市 栄寺」は68,800件。正が誤に駆逐されている。



JR長岡駅と良寛さん

2011-02-01 | 新潟 長岡

JR長岡駅駅舎内、「良寛さん」の像。



「良寛さん」の像、説明文*

**





ホテル・メッツ
前回訪問時に宿泊。お勧め度 A。

ホテル・ニューオータニ

「小料理 松本」


以前、ニューオータニで郷土料理のお店を二、三紹介してもらったお店の一つ。長岡駅前。

JR長岡駅

通りのつきあたりが長岡駅。


* 「良寛さん」の像
 良寛さんは、ここ長岡市から西へ、日本海べりの出雲崎町に生まれました。出家して、学問を修めたのち、自然と人を愛し、小さな庵に住み、広い越後平野を托鉢しながら旅するかたわら、優れた詩歌や書を残しました。良寛さんに出会った多くの人たちは、その天真爛漫な性格に魅せられました。
 このすみれを手に持つ良寛像は、托鉢の途中、野に咲くすみれを摘むのに夢中になって、大切な鉢の子(応量器)を忘れたほほえましい逸話にもとづいています。
                                             平成十年 長岡市
**
良寛像   製作者 元井達夫氏
上越新幹線開通を記念して長岡東ロータリークラブより寄贈された。

良寛の和歌真蹟の読み
 美 知 能 部 爾  みちのべに
 春 美 禮 川 美  すみれつみ
 川 々 波 知 能  つつはちの
 己 遠 者 春 禮  こをわすれ
 天 處 己 之 所  てぞこしそ
 能 者 知 乃 己  のはちのこ
 遠          を

 道のべに すみれつみつつ 鉢の子を 忘れてぞ来し その鉢の子を


  鉢の子
鉢の子は 愛(は)しきものかも 幾年か わが持てりしを 今日道に 置きてし来れば
立つらくの たづきも知らず 居るらくの すべをも知らに かりこもの
思ひみだれて ゆふづつの かゆきかくゆき とめゆけば ここにありとて わがもとに
人は持て来ぬ うれしくも 持て来るものか その鉢の子を

  反歌(かえしうた)
 春の野に すみれつみつつ 鉢の子を 忘れてぞ来し あはれ鉢の子
  類想歌
 鉢の子を わが忘るれども 取る人ははなし 取る人はなし 鉢の子あはれ
 鉢の子に すみれたむぽぽ こきまぜて 三世(みよ)の仏に奉りてむ
 

良寛
1758.11.2 - 1831.2.18 (宝暦8年10月2日 - 天保2年1月6日) 越後国出雲崎生まれ。
江戸時代後期の僧侶(曹洞宗)、歌人、漢詩人、書家。俗名、山本栄蔵・文孝。号は大愚。
山本佐門泰雄(以南)(出雲崎の名主・橘屋)の長子。出家。

貞心尼
1798 - 1872 (寛政10年 - 明治5年2月11日) 越後長岡藩士奥村五兵衛・子女。
俗名 マス。剃髪・出家して貞心と称す。文政10年(1827)頃、良寛と知り合う。
 『はちすの露』編 (1835・天保6) 良寛の歌を集めた歌集。
 『もしほ草』 貞心尼の歌集。

 参考 良寛 - Wikipedia
     HP 『良寛(注釈付き)千人万首』 良寛、貞心



雪景色・JR上越線 越後湯沢~長岡 2

2011-01-29 | 新潟 長岡

山間部を過ぎ、魚沼をすぎ、川口あたりからは、あいかわらず厚い雲におおわれてはいるもの
の雪はやんでいた。

ここで、ようやく大河・信濃川が見えてくる。






小千谷駅では、いろいろ思い出していたため、シャッターチャンスをのがしてしまった。
小千谷「高の井酒造」の看板。



(画像、拡大します。)
旧17号(国道だったのは昔のこと)。道なりに行って峠をすぎれば、長岡市の妙見。峠の手前
の川に沿って右折すると、小千谷の浦柄。さらに奥に行けば旧山古志村。



信濃川の妙見堰。





白岩峠の岩石群。
中越地震で、峠の岩場が崩落した場所。(心の内で、冥福を祈る)



白岩トンネルをぬけると、長岡市の南端・妙見。






山あいに、滝谷の集落。

(画像、拡大します。)




越後滝谷駅







終点、長岡駅に到着(!!)






JR上越線 越後湯沢から長岡まで。車窓からの眺めでした。
所要時間は、約1時間15分です。



雪景色・JR上越線 越後湯沢~長岡

2011-01-28 | 新潟 長岡
雪中のJR上越線。
都会の人が見れば、雪景色!! だが、越後人からするとどうだろう。
スキー場関係は、雪、大いに歓迎だろうが、一般生活においては、冬ごもり(?)
冬がおわり雪が消え、春を待つ、という心境でしょうか。

越後湯沢駅



この日もJR東日本の新幹線ダイヤが大いに乱れ、そのあおりをくって、在来線もなかなか
動かないという状態だった。




JRほくほく線 特急「はくたか」

JR上越線 普通列車で長岡に向かうことにした。










列車がようやくと発車してホームを出ると、いきなりの雪景色。





上越国際スキー場前駅
学生の頃、そして勤め始めの頃、何度もやってきたところだ。


塩沢駅
ここにも降りたった。シャトー塩沢・・・
その頃は、まったく知らなかった鈴木牧之。いまは、江戸期における越後、最高の文化人
(知識人)の一人だとはっきりいえるのだが。



遠くに輝く雪山、・・・は何ていう名の山?



小出駅

魚野川 やがて信濃川と合流する。











越後川口駅

ぶ厚い雪雲に切れ目が・・・



(つづく)