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今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)

マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。

今週の一番付記「魔法先生ネギま!」情報圧縮して描かれる先の物語

2009年10月28日 | マンガ
【脱英雄譚の命題】

【10月第3週:幻仔譚じゃのめ 第46話 竹婆の夏】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10433.html#609

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



ははははははは 私を倒すか人間それもよかろうッ
私を倒し英雄となれ 羊達の慰めともなろう だがゆめ忘れるな
全てを満たす解はない いずれ彼等にも絶望の帳が下りる

貴様も例外ではない


「魔法先生ネギま!」で、今、主人公ネギくんの父親・ナギの物語が断片的に語られはじめ、次第に物語の全貌が明らかになって来ています。大筋において二つ明らかにしなければならないポイントがあって。“英雄ナギとアリカ姫(ネギくんの母)が何故、魔法世界から逃亡(駆け落ち)したのか?”と“ナギが倒した最強最大の敵とは何者だったのか?”、この二つでいずれも凄い物語が展開しています。…凄いと言ってもまだ内容の全てが開陳されたワケでもないんですけどね……でも分っちゃうw
ちょと、斜に構えた、擦れたおたくぶって悪い言い方をしてみると「どーせ、大した話じゃないんだろう?」とか、「どっかで聞いたような話なんだろ?」という言い方もできるんですけどね。それくらい断片情報だけでも何となくイメージレベルなら大体の所が分っちゃうwでも「魔法先生ネギま!」はそれを完全に逆手にとっている作品だと思います。

上に引用した画像/セリフですが、少年向けマンガ、少年向けアニメになが~い事接してきた僕としては、もう繰り返し繰り返し観てきたシーンですw(一つ言うと逆手にとっているからこそ「羊達の慰めともなろう」というセリフは“深い”です。ラスボスが「人々の望む結末になってやろうじゃないか」って言っているワケですけど、これはいくつか意味がありますね)ちょっと前にこのブログで「絶対悪とは何か?」って記事を書いたんですが、本質的には昔からある、サイボーグ009が黒い幽霊団の本体と対峙するシーンと同じ物と言っていいと思います。

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の化身編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/26fcde56a318ee8ac05975c93cde11b1

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)善悪逆転編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a58f2370c3f40af6e878fcdc2c97b64a

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/8aa3fcc617eed515159fc4903fc82b67

最近だと「天元突破グレンラガン」(2007年制作)の最終回に主人公のシモンと最強最後の敵・アンチスパイラルが対峙するシーンを思い起こします。しかし、重なるとか、繰り返しとか言っていますが、この話のミソはネギくんのお父さんの話であって、本編の主人公・ネギくんの物語ではないって事です。物語の初期から語られてはいましたが、どうもネギくんのお父さんは、魔法世界において正真正銘の、絵に描いたようなスーパーヒーローであったようです。しかし、絵に描いたようなスーパーヒーローだからこそ、これまでの多くのスーパーヒーローたちと似たような“宿題”を残してきたようなんですね。(全貌が明らかにならないと分らないけど)



これは「天元突破グレンラガン」と重ねて行くと分りやすいと思います。「グレンラガン」もまた目の前の敵を倒せばすぐに“もっと強い敵”が現われて際限なく“もっと強い敵”と戦って行くという、よくある少年マンガの構造を逆手に取って、ある種場当たり的なその展開を俯瞰して設計する事によって「大きな物語」としてまとめ上げた作品なんですが、その踏襲性ゆえか、ラストもいかにもな決着のつけ方をしている。

それは何かというと「いや、それって結局何も解決していないよね?」と言うかねw最強最後の敵・アンチスパイラルは、主人公たちのパワーとしている螺旋エネルギーこそが宇宙に破滅をもたらすものだと示し、自分のプランに従わなければその破滅は不可避であると説いた。それに対して主人公シモンは「破滅など来させない!人間はそんなに愚かじゃねえ!!」と絶叫して、アンスパをブッ倒すんですが……つまりノープランなんです!!(`・ω・´)
でも、この物語の時点ではそれでもいいというかその破滅を回避しなければならない時というのはおそらく何万年も先の事でシモンはその回避をただ信じているって話なんですよね。他にも人間滅ぶべしという神様に“ごく希な反証”を取上げて許してもらうタイプの話なんかも「次来た時は分りませんよ」と言われるのですが、それもずっと先の話として終わる。
……でも、じゃあ“その時”には具体的にどうするのよ?あるいは、他の物語では与えられていた長い長い猶予期間が無かったら一体どうするのよ?という疑問は残る。「ネギま!」の英雄ナギでみると最後の敵を考え無しに倒すぐらいは猶予があり、しかしすぐに“その時”はやってくる時間…つまり、ナギの子供が大きくなるくらいの時間で“その時”がやってくるとしたら、どうするのよ!?という歴代の多くのスーパーヒーローたちが放置、先送りにしてきた問題に正面から挑もうとしているように…観えます!つまり「先の物語」を描こうとしているように思うんですね。

僕は近年描かれている物語を「情報圧縮論」という考え方から眺め検証しているのですが、そもそも「悪者/怪物を退治する事ができました。めでたしめでたし」という旧来の元型的な物語から「戦いを続けるお前達こそ悪なのだ。それでもお前は戦いを続けるのか?」といった善悪逆転のシフトまで行くのは、相当に物語文化が成熟してこないと出てこないと思うんですが、その「先の物語」を描いて行こうとすると、それらの文脈を押えた「情報圧縮」は大抵必須になってくる…と考えています。
先に言った、どっかで聞いたような話を逆手にとっているとは、そういう事なんです。(↓)「情報圧縮論」概要の話は下記のエントリーで書いていますね。繰り返し繰り返し観てきた事で、繰り返し繰り返し疑問に感じてきた事だから、そこは(どこかで観たような)“画を重ねてあげるだけ”でいいと。そういう話になってきます。

【情報圧縮論:やる夫が徳川家康になるようです】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/135e913ad65b8e70a5107cd716652c2c
多分「機動戦士ガンダム」を例に上げると分かりやすい気がします。「ガンダム」という物語を描くにあたって、ニュータイプという“先の世界”を思いついたとして、それは、泥まみれで、戦争に翻弄される“大きな群像”を描いたその上に、“先の世界”を載せるから、あの感動が生まれている事は間違いないと思います。群像劇を描く才能のない者が「人類って宇宙に出たとしたら、こんな風に変って行くかもね」というだけの物語を作ったとしたら、僕は間違いなく、あれほどの感動を得ることはなかった。だからこそ、これは群像劇(「大きな物語」)を描けた者だけに許された「先の物語」だったと言えます。

それは逆に言うと、「大きな物語」を描ける者が、「先の物語」を描こうと思わなかったら、それはそこで終わってしまうという事。(いや、終わっても全然良いのですけどね。安彦先生とかは、本当にニュータイプとかには興味がない人ですよね)逆に「先の物語」は見えている(思いついている)のに、「大きな物語」を描く力量がないために、「先」が描かれているだけの「小さな物語」で終わってしまう事もある。
こういったカナシに、これまで散々溜め込んできた、物語表現技術を複合的有機的に利用する事で、手を届かせる方法があるのではないか?いや、既に何人かの作家は、それに意識無意識を問わず気付いていて、すでに使っているんじゃないの?……というのが、僕の「情報圧縮論」のあらましという事になるかと思います。

「魔法先生ネギま!」は、ここらへんの話を取上げて検証して行く対象としても大いに注目している作品でもあります。「先の物語」を描く事の意義(繰り返し描かれたものを圧縮しないと到達してこなかったであろう事)は、上の文章でも感じてもらえるんじゃないかと思いますが「ネギま」の大元は、女性徒31人がヒロインというハーレム構造の極北のような構造を抱えていて、それらに対する需要を維持しつつ、今述べたような物語も並行して構築して行くという離れ技を「週刊連載」でやっていて、何かもう、ただごとじゃない連載なんですよねw
もう一つ、僕が近年の「情報圧縮論」のサンプルとしてあげる「マブラブ・オルタネイティブ」という作品がありますが、こちらもやはり「先の物語」を描きつつも、本来本義であるエロゲー部分が大幅に目減りした事(とは言ってもエロ画像が少ないってだけなので、萌え観点から言えばそう気にする事でもないのだけど)を考えると、驚異に値しますw
これはもう才能云々なんてレベルを超えていて、明確に裏打ちされたメソッドが必要な話だと、そう思いますね。故に「ネギま」が到達した道は、後から続く物語も来られるもの……という事のはずですが…。まあ、それはまた次に観るとして、今は「ネギま」の到達点を見守って行きたいですね。


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