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【情報圧縮論】やる夫が徳川家康になるようです

2009年05月12日 | 思考の遊び(準備)
【情報圧縮論】

【やる夫ブログ:やる夫が徳川家康になるようです】
http://yaruomatome.blog10.fc2.com/blog-entry-416.html

http://yaruomatome.blog10.fc2.com/category9-1.html

「やる夫シリーズ」で徳川家康の生涯をドラマチック脚色で追った作品なんですけどね。ちょっと以前にこのエントリーを読んでいたく感動していました。その時は「ああ、面白かった!感動した!」とか思って、それを胸にしまい込んで特にリアクションとらなかったんですが……やっぱり、人に伝えようとする、人に説明しようとする事って、大事なんですねえ(汗)ルイさんに、このシリーズ紹介して、その「面白さ」の話をしていたら、これが、僕が以前からコツコツと話を進めている(?)「情報圧縮論」のサンプルとして語れる部分が多いのではないかという事に気付きました。…ので、ちょっと書き留めておきます。

■「情報圧縮論」について
…とか言いつつ、自分、「情報圧縮論」について、言葉は用意しているけど、その内容をまともにまとめた事さえなかったですね(滝汗)
むしろ、GiGiさんとかの方がまとめた話をしてくれている。

【なぜコードギアスなのか。情報圧縮論のモデルケースとしてのコードギアス】
http://d.hatena.ne.jp/GiGir/20080530/1212196167

盟友LDさんとの共同サイト漫研での議題の一つに<<情報圧縮論>>というものがあります。これは、ページ/単位時間あたりの情報量が多い作品が優れた作品の一要素であるというLDさんの持論を発展させたもので、わかりやすさを維持したまま作品内の情報密度を高める大系的な技術が存在するのではないかという仮説なんですね。

今まで、特にこうだと打ち出したものはないので、個々人によって微妙に方向性が違っているとは思いますが、概ねこの話でいいと思っています。ちょっと自分なりに言い直すと、日本でマンガやアニメの物語表現について、技術的なノウハウがもの凄く溜まっている状態で(あるいは「受け手」の練度が非常にあがっている状態で)、これらを複合的有機的に利用する事で、本来、“莫大な才能(仮に天才とする)”を必要とした「大きな物語」や「先の物語」に対して、手を届かせる技術があるんじゃないかという仮説ですね。…ちょっと、今これから、大きなとか、先のとか、莫大なとか、曖昧な言葉を使って行きますが(汗)

たとえば、これまでの物語において、重厚な世界設定や群像劇を描こうと思ったら、これは先ほど述べたような“莫大な才能”を必要としたんですよね。もし、この群像劇の上に“先の世界”を描く事を思いついた者がいたとして、しかし、それは群像劇を描ける程の“莫大な才能”者にのみ許された特権だったワケです……というかそういう風に世界を考えるとします。
これ、多分「機動戦士ガンダム」を例に上げると分かりやすい気がします。「ガンダム」という物語を描くにあたって、ニュータイプという“先の世界”を思いついたとして、それは、泥まみれで、戦争に翻弄される“大きな群像”を描いたその上に、“先の世界”を載せるから、あの感動が生まれている事は間違いないと思います。群像劇を描く才能のない者が「人類って宇宙に出たとしたら、こんな風に変って行くかもね」というだけの物語を作ったとしたら、僕は間違いなく、あれほどの感動を得ることはなかった。だからこそ、これは群像劇(「大きな物語」)を描けた者だけに許された「先の物語」だったと言えます。

それは逆に言うと、「大きな物語」を描ける者が、「先の物語」を描こうと思わなかったら、それはそこで終わってしまうという事。(いや、終わっても全然良いのですけどね。安彦先生とかは、本当にニュータイプとかには興味がない人ですよね)逆に「先の物語」は見えている(思いついている)のに、「大きな物語」を描く力量がないために、「先」が描かれているだけの「小さな物語」で終わってしまう事もある。
こういったカナシに、これまで散々溜め込んできた、物語表現技術を複合的有機的に利用する事で、手を届かせる方法があるのではないか?いや、既に何人かの作家は、それに意識無意識を問わず気付いていて、すでに使っているんじゃないの?……というのが、僕の「情報圧縮論」のあらましという事になるかと思います。(※「大きな」とか「先の」って言葉は単純に“群像”とか“SF的新発想”を指すものではなく、もっと様々なパターンを想定しますが、ここでは省略)

■「やる夫が徳川家康になるようです」について
さて、「情報圧縮論」の話をこのAA劇場を使って示して行きたいのですが、まず、リンクしたサイトで、内容を一通り読んで欲しいのです。僕はこれ読んで、笑って泣いて、とても感動したんですよね。そのストーリーテリングにおいて、作者は素晴らしい才能があると思います。同時にもう一つ評価されていた事に、他の戦国武将たちのAAキャスティングが絶妙というのがあります。以下に例を示しますと…。



上杉謙信に「Fate/stay night」のセイバーを当てて、上杉一門を「Fate」キャラで統一している。
作者は、特に「上杉謙信女性説」を取っているワケではないようですが、上杉謙信のある種の清廉さというか…まあ、戦国時代においてウソみたいな、ある種神話的にさえ感じる軍略とセイバー(アーサー王)のキャラを重ねていますね。上杉景勝は、遠坂凜で、まあこれはむしろミスキャストな面白さが出ているかな?という感じなんですが、必然的にアーチャーが義臣・直江兼続になるのがミソかと思いますw



毛利元就に「アカギ」の赤木しげるを当てて、毛利一門を福本伸行キャラで統一している。
さらに、吉川元春は「銀と金」の平井銀二、小早川隆景は「天」での赤木しげると、このキャスティングに「この一族最強じゃないの?」ってレスが殺到するんですよね。…で、(もう既にみんな期待していたろうけど)毛利輝元は「最強伝説黒沢」の黒沢で、ああやっぱりwとズッコけるwさらにいいのは、関ヶ原の戦いで徳川家康にいいように弄ばれる吉川広家が「賭博黙示録カイジ」のカイジw…決してどうしようもないボンクラじゃない事は分かるんだけど、どうしても最後の詰めを誤る吉川広家の情けなさを、見事にキャスティングだけで完成させています。ここらへん福本キャラの幅を実に上手く利用している。



他にも真田昌幸が「銀英伝」のヤン・ウェンリーだったり、九州の武将が「JOJO」キャラで統一されていて、あの関ヶ原で正面突撃退却やる島津義弘が承太郎だったりとw絶妙なんですが、中でも特筆したいのが、豊臣秀吉を「逆転裁判」の成歩堂龍一にして、豊臣一門は基本「逆裁」キャラにしている所ですね。このキャスティングはすぐに腑に落ちた人は少ないんじゃないでしょうか。(僕は「逆裁」やった事がなく、概要くらいしか知らないのですが…)
でも、この作者の真骨頂って、人物同士の対話や“駆け引き”の描き方にあって、そこは間違いなく、オリジナルな才能だと思うんですよね。その中で人間同士の“駆け引き”の最強の男に、やがて、なる人間として成歩堂くんがチョイスされているワケです。実際、最初は人間的魅力と正直さが“売り”だった成歩堂くんが、誰も太刀打ちできないような、「この頃の秀吉はチート」と言われるような、巨人に成長してゆく様は圧巻で、成歩堂くん(羽柴秀吉)と、やる夫(徳川家康)の激突は、この物語最大の見せ場の一つになっています。

これらのキャスティングの妙を利用して、この物語は、戦国時代に、一癖も二癖もあるような…というより出会った瞬間、見た瞬間、コイツには勝てない!って思わせるような巨星たちが、全国各地でひしめき合っていた、正に“大群像”を表現してしまっています。そして、さらに凄いのが、そんな敵も味方もとても勝てないような相手しかいなかった状況で、たかがやる夫(徳川家康)が、どうして、天下を取る事ができたのかを見事に描ききってしまっている事なんですよね。

…と、ここまで書いた時点で「そんな事言っても、これ著作権無視の二次創作じゃん」というツッコミがあるかと思います。それは全くその通りだと思います。これ自体は大っぴらに表には出せない、アングラな娯楽に過ぎないです。ただ、その問題を敢えて度外視して話を進めたのは、足らない物は何でもかんんでも持ち込み利用し、噛み合わせて、とにかく“ここ”まで到達させるという「情報圧縮論」の理念を顕わしたアプローチがされていると思うからです。僕はよく「情報圧縮論」の話をする時は「その上に何を載せるか?」という言及にまでするんですが、「やる夫が徳川家康になるようです」は「情報圧縮」で大群像という舞台を構築した上で、やる夫や、やらない夫というブランクなキャラクターを利用して「その先の物語」を見せてくれている…という評価がしたいんです。

ただ、これらは、その物語に接する者にある一定のリテラシーを要求している事も事実です。まあ、ある程度元ネタや戦国時代の知識が足らなくても充分楽しめるものだと思っていますが、「情報圧縮論」自体は、「受け手」の知恵(wisdom)も総体的に高い状態にある事を前提としています。「受け手」の知恵が低い状態で、そこから「大きな物語」や「先の物語」を指し示して行くためには“莫大な才能”を必要とするでしょう。でも「受け手」の知恵に依存する事で、到達できる世界もあるはずなんですよね。(※レベルが高いと書くと「難解な物を受け止める感性」のようなものが入ってくるので、あくまで、学んでさえいれば手に入るもの、という意味で「知恵が高い」という表現にしました。また知識ではなく知識を利用する力は要りそう)

まあ、モロに著作キャラを使うんじゃなくっても、たとえば「花の慶次」だったら、徳川家康を勝新太郎でモデルしたり、真田幸村を長渕剛でモデルしたり。「センゴク」でも幾人かのキャラは実在の有名人をモデルにしているワケですよね。群像劇に取り組もうと思うと、そうなるのは必然だと思うんですよね。…ただ、これらのモデルはあくまで作者がイメージの手助けにするため、ランダム、単発にチョイスされた感じがするんですけど「情報圧縮論」的に言うと、まだまだ“やれる事”はあると思うワケです。もっと「受け手」を巻き込むようなやり方とか、複合的有機的に技術を利用して、群像を構築してゆくやり方があるように思います。

また、今後「情報圧縮論」で紹介するような手法のいくつかは、才能を愛し、一からオリジナルにキャラやストーリーが組み上げられる事を愛してきた、“昔気質の物語読み”の人たちには「記号的」、「楽している」、「うすっぺらい」などと揶揄される物も含まれるんじゃないかと思います。…というか、かく言う僕自身がその“昔気質の物語読み”なんですけどね(汗)しかし、僕は思うんですが「その上に」何か載せたりできるのであれば、それは「大きな物語」や「先の物語」を描くための技術と言えるのではないか?…そういう観点でも「情報圧縮論」を語っています。

実際、「やる夫が徳川家康になるようです」はやる夫シリーズの中では長丁場でも、小説やマンガとしては、短編の域を出ていない。にも関わらず、戦国群雄を一通り描く大群像と一代の英雄の生涯を描き切る事に成功している。それは本当になりふり構わないからこそ出来た成果ではあるんですけど(作者はこんな深刻に考えてないと思うけどw)、まだ、ここにはそういう技術や手法が眠っている(詳らかにされていない)のではないかと、そう考えています。


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2 コメント

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やる夫歴史シリーズ (mantrapri)
2009-05-13 23:45:15
お久しぶりです。

やる夫歴史シリーズについては当ブログの方でも、何回か触れさせていただきました。
http://d.hatena.ne.jp/mantrapri/20081117
キャラクターがキャラクターを演じるという、二重の交配。それによって参入者が双方向から物語に参入することができます。

たとえばやる夫家康シリーズにおいては、真田幸村が好きなら、そこからハルヒを知ることが出来るし、ハルヒが好きなら、そこから真田幸村を知ることが出来るといった具合に。

このシステムの「開発」は画期的なものだと思います。
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Re:mantrapriさん (LD)
2009-05-14 02:24:37
こんばんは。

AA文化が溜まりに溜まって、それをコピペする事によって、物語の起承転結、キャラクターの喜怒哀楽、膨大な登場人物が、一通り描けてしまえるようになったという流れがすごいですよね。
結果、楽しく分かりやすく知識を説明する事や、簡易ながらも壮大な物語を描く事が可能になっています。

また、言われる通り、細分化がはげしかった、昨今のおたく界隈(?)の流れに対して横断的な繋がりを促す効果もでていますね。
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