映画鑑賞ノート「デス・ノート」
この映画が終わったとき、観客積がざわめいた。こうした映画での通常の結末とは大分ちがっていたからだ。それにこの映画は終わっても物語はまだ続きそうである。
物語は、ある大学生が「デス・ノート」という標題のついたノートブックを拾ったことから始まる。そのとき彼はある殺人犯が心神喪失の理由により罰を受けずに暮らしているのに憤っていた時だ。ご丁寧にも死神まで現われてノートの使い方まで説明してくれた。そこに顔がわかっている人物の名を書けばその人物はたちまち心臓麻痺で死ぬ。また死に方の状況を書き込めばそのとおりに死ぬと言うものだ。
彼は犯罪のない社会をつくるため、犯罪者を次々と世界規模で殺していく。でもこれはおかしな話だ。犯罪者と世間的にわかっている人間を殺しているだけだから、死刑しかない社会と同じこと。でもそんな社会は犯罪がない社会でも少ない社会でもない。だってあえて犯罪する者は自分だけは捕まらない又はばれないと思っているからだ、だからそうした犯罪が例外なく明るみになるなら減るかもしれないが、すでに犯罪がばれた人間を殺して犯罪が減るとは思えない。それにこうしたドラマの設定では冤罪で殺された人もいる可能性もある。
映画の話に戻ると、正義感に燃え、犯罪のない社会をつくろうとする主人公がやがて、犯罪者でない人間までも殺していく。そうした行き着くさきの話が、映画を見終わった人のざわめきとなった。なぜ犯罪者でない人間まで殺すようになったかと言うと、それらの人は彼の理想、つまり犯罪のない社会をつくると言う理想を妨害しようとする人間だからだ。映画の結末としては異例だけれど、世間ではおうおうにあることだ。
たとえはある社会の支配者の公認の学問内容を容認しない学者や教師の場合、ナチス・ドイツでは学園から追放され、別の職種(大部分は肉体労働、単純労働)に就くしかないが、ソビエトロシアでは収容所に入れられ究極的には殺害された。ナチスにとってはそうした教師や学者は非民族的として教壇から追放されるだけだが、ソビエトでは、そうした考えを持つ人間がいるから社会が進歩しないと言うことで、抹殺の対象となった。それはソビエトが社会の歴史的発展というイデオロギーを持っているからだ。万人が豊かに暮らせる社会に世界史的に段階に入っているはずなのにうまく進まないのは、反革命的な思想を持っている者がいるからで、それらを社会から隔離殲滅することは正義ということになったのだ。そうした意味での寓話とみればこの映画は特に異例でもない。
でも僕が一番気になったのは、死神とあった主人公のあり方だ。もし僕だったら、この「デス・ノート」はどのようにして機能するの?だれか読んで執行する死神かいるの?死神に仲間はいるの?組織はどうなっているの?ボスはいるの?生まれることを担当している神様みたいな存在はいるの?そして神はいるの?って聞くよ、絶対に。でも主人公は、犯罪者をころすことだけに夢中だ。これっておかしい。
この映画が終わったとき、観客積がざわめいた。こうした映画での通常の結末とは大分ちがっていたからだ。それにこの映画は終わっても物語はまだ続きそうである。
物語は、ある大学生が「デス・ノート」という標題のついたノートブックを拾ったことから始まる。そのとき彼はある殺人犯が心神喪失の理由により罰を受けずに暮らしているのに憤っていた時だ。ご丁寧にも死神まで現われてノートの使い方まで説明してくれた。そこに顔がわかっている人物の名を書けばその人物はたちまち心臓麻痺で死ぬ。また死に方の状況を書き込めばそのとおりに死ぬと言うものだ。
彼は犯罪のない社会をつくるため、犯罪者を次々と世界規模で殺していく。でもこれはおかしな話だ。犯罪者と世間的にわかっている人間を殺しているだけだから、死刑しかない社会と同じこと。でもそんな社会は犯罪がない社会でも少ない社会でもない。だってあえて犯罪する者は自分だけは捕まらない又はばれないと思っているからだ、だからそうした犯罪が例外なく明るみになるなら減るかもしれないが、すでに犯罪がばれた人間を殺して犯罪が減るとは思えない。それにこうしたドラマの設定では冤罪で殺された人もいる可能性もある。
映画の話に戻ると、正義感に燃え、犯罪のない社会をつくろうとする主人公がやがて、犯罪者でない人間までも殺していく。そうした行き着くさきの話が、映画を見終わった人のざわめきとなった。なぜ犯罪者でない人間まで殺すようになったかと言うと、それらの人は彼の理想、つまり犯罪のない社会をつくると言う理想を妨害しようとする人間だからだ。映画の結末としては異例だけれど、世間ではおうおうにあることだ。
たとえはある社会の支配者の公認の学問内容を容認しない学者や教師の場合、ナチス・ドイツでは学園から追放され、別の職種(大部分は肉体労働、単純労働)に就くしかないが、ソビエトロシアでは収容所に入れられ究極的には殺害された。ナチスにとってはそうした教師や学者は非民族的として教壇から追放されるだけだが、ソビエトでは、そうした考えを持つ人間がいるから社会が進歩しないと言うことで、抹殺の対象となった。それはソビエトが社会の歴史的発展というイデオロギーを持っているからだ。万人が豊かに暮らせる社会に世界史的に段階に入っているはずなのにうまく進まないのは、反革命的な思想を持っている者がいるからで、それらを社会から隔離殲滅することは正義ということになったのだ。そうした意味での寓話とみればこの映画は特に異例でもない。
でも僕が一番気になったのは、死神とあった主人公のあり方だ。もし僕だったら、この「デス・ノート」はどのようにして機能するの?だれか読んで執行する死神かいるの?死神に仲間はいるの?組織はどうなっているの?ボスはいるの?生まれることを担当している神様みたいな存在はいるの?そして神はいるの?って聞くよ、絶対に。でも主人公は、犯罪者をころすことだけに夢中だ。これっておかしい。
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