セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

岩井教授もマルクスも違うよ-日経を読んで

2005-08-29 23:59:15 | 社会経済
今日の日経の「経済教室」、「会社とはなにか」という特集で、岩井克人東大教授が「すべてはヒトに始まる」という文章を書いていた。夏目漱石の小説「野分」の内容を引き合いにして、百年前の資本主義つまり産業資本主義と現在の資本主義つまりポスト産業資本主義の違いを論じていた。
岩井教授によれば、産業資本主義はお金さえあれば必ず利潤が上げることができる資本主義。その理由は農村から過剰な人口が絶えず流入しているので。人々をいくらでも安い賃金で雇えるから費用を低く抑え続けるからとのこと。
ポスト産業資本主義では、農村からの人口の流出が止まったため賃金が高騰し製品の製造販売の収入と費用との差が縮まり、会社は機械性工場を持っただけでは利潤を確保できなくなって来たとのことである。それでは利潤の源泉は何になるかというと、他と違った技術や製品を開発できる能力や知識をもった従業員・技術者・経営者つまりヒトということになる。
これで思い出すのは、以前2チャンネルかなにかでのマルクス経済学についての書き込みで、「マル経では、利潤の源泉は労働者の労働力が作り出すので、労働者を多く雇えば雇うほど利潤の総額が多くなることになる」と書いてあって、なるほどそうなるなと思ったことがある。マルクス経済学では、生産された商品の価値は、原材料や工場設備の償却費の価値に生産過程で投入された労働によって新たに生み出された価値の合計による。労働による生み出された価値は平均的な熟練度の労働者が費やした労働時間で計測される。しかし労働者によって生み出された価値がすべて労働者に賃金として支払われるわけではなく、賃金は労働者とその家族が一定程度の生活を続けていける程度しか支払われない。労働者が8時間労働すると8時間分の価値が製品に加わる。しかしたとえば4時間分の価値しか賃金として支払われないので、残りの4時間分の不払い労働が資本家の利潤となる。
100年前の資本主義について、マルクスも岩井教授も同じ現象をみていたことになる。低い賃金とその原因となった職を求める人々。違うのは利潤の算出する公式だ。
マルクスは、商品の価値は過去の労働力の結晶である原材料の価値に生産過程で新たに加えられた価値(=投入労働力)の合計であり、賃金と利潤は新たに加えられた価値の労働者と資本家のパイの配分できまる。収入は過去の価値と新しい価値の合計として積み上げられる形、つまり足し算。利潤は新たに加えられた価値のなかでの引き算となる。
岩井教授によれば、利潤とは収入から費用を引いた残りであり。収入は市場などにより外的にきまる。費用は賃金や原材料費等を加えた合計、つまり足し算となる。
マルクス経済の学説は、現代の資本主義をみれば誤っていたことはあきらかだ。マルクスの教理では資本家は必ず儲かっていることになり、その理屈で傾いた会社で争議を起こしたのでは会社が持たないことはいまではほぼ常識だ。これは100年前には正しかったがいまでは合わないというのではなく、もともと違っていたのだと思う。
では岩井教授のポスト産業資本主義論は正しいのかというと、そうは思わない。なぜなら、他と違うことを常に行えるのは企業でもほんの一部だからだ。岩井教授の説では、大多数の企業で利潤がでずに赤字企業となる。だが現実には大部分の企業が波がありながらも利潤を出している。人並みに行えば利潤が出ることも事実。産業界の一部にすぎない最先端のハイテク企業のイメージを全体に投影しているのではないか。
利潤の源泉は、100年前も今も、つまり産業資本主義もポスト産業資本主義も、生産要素の結合にある。結合するものが本当の生産者であり資本家と呼ばれる。
一知半解な知識と、ポパー哲学信奉者の物怖じの無さで書いたけど、経済学に詳しいヒト批判は歓迎します。ポパー哲学信奉者だもの。

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