このノートを書く前にこの本についての他の人のブログを検索してみた。本の種類のためか読者家の人が読んでいるみたいだ。宮崎哲弥氏が書評で推薦していたらしい。これらのブログではその主張がかなり好意的に受け止められている。でも僕の意見はちがうな。
この本が面白くないというのではない。その文章にはいろんなトリビアが混ぜられていて、また文体にも一人突っ込みみたいな軽妙な部分もありおもしろい。
あらかじめ反・陽明学と公言する著者によるこの本には、王陽明自身の主張や論と日本の陽明学者の論との詳細な対比分析はない。
この本の主張は、水戸学の大義名分論と陽明学の純粋動機主義が結合したものが靖国神社の英霊観にあるとのこと。でもさ、著者だってわかっているはずなのだが、まったく朱子学的な大義名分論は、心外の義つまり外部的なイデオロギーとして、陽明学が本質的に拒絶するものだ。また陽明学はいわゆる過激な行動の「動機」を讃えるわけではない。第一に心の本性に従ったならば中庸な点で行動が定まるとしている。第二に陽明学では心に不純なものが入っていないかを常に追求する。そのためパフォーマンスとしての過激な言動や破滅願望的な動機は排除される。
だから結論を言うと、幕末において水戸学的朱子学的大義名分論を奉じた人物と、陽明学を尊んだ人物とは重ならない。ただ国学が2つのグループを結びつけたことはあるだろう。
なお三島由紀夫が陽明学者を演じている朱子学者だという著者の意見には賛成だ。
この本が面白くないというのではない。その文章にはいろんなトリビアが混ぜられていて、また文体にも一人突っ込みみたいな軽妙な部分もありおもしろい。
あらかじめ反・陽明学と公言する著者によるこの本には、王陽明自身の主張や論と日本の陽明学者の論との詳細な対比分析はない。
この本の主張は、水戸学の大義名分論と陽明学の純粋動機主義が結合したものが靖国神社の英霊観にあるとのこと。でもさ、著者だってわかっているはずなのだが、まったく朱子学的な大義名分論は、心外の義つまり外部的なイデオロギーとして、陽明学が本質的に拒絶するものだ。また陽明学はいわゆる過激な行動の「動機」を讃えるわけではない。第一に心の本性に従ったならば中庸な点で行動が定まるとしている。第二に陽明学では心に不純なものが入っていないかを常に追求する。そのためパフォーマンスとしての過激な言動や破滅願望的な動機は排除される。
だから結論を言うと、幕末において水戸学的朱子学的大義名分論を奉じた人物と、陽明学を尊んだ人物とは重ならない。ただ国学が2つのグループを結びつけたことはあるだろう。
なお三島由紀夫が陽明学者を演じている朱子学者だという著者の意見には賛成だ。