黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

またまた、2週間が……

2010-10-11 09:40:32 | 仕事
 こんなタイトルでしかこの欄の文章が書けないというのは、我ながら情けないと思うのだが、代替200~200字近くを書くこの欄に費やす時間は、1時間から1時間半、書き始めるとそのぐらいの時間はどうということもないのだが、文章を書くためには、それなりの精神的準備が必要で、闇雲に文字を連ねればいいというわけではない。
 というわけで、今回も「弁解」から始まったのだが、ともかくこの2週間は忙しかった。それを「大学教師」としての仕事と「批評家」としての仕事に分けると、
 まず大学教師としては、僕の学部ゼミでは一種の決まりになっている卒論の「下書き」(今回は「第1章」の)を5人分(一人あたり400字詰め原稿用紙30枚平均)を「添削」し、「赤ペン」を入れるという作業があり(提出された論文が真っ赤になるほど書き込む)、それに加えて、今秋の水曜日に行われる「中間発表」のレジュメを点検し、書き直させるということがあった。
 この時期は、卒論だけでなく修士課程の中間発表、修論、博士論文の提出・審査といった「行事」が目白押しで、今年は、中間発表者2名、修論の提出1名、博士論文の審査1名、という具合で、「発展途上」の人の論文を読むというのは、普段僕らが読む研究論文や批評文と違って、代替が「読みづらく」「論理矛盾」などがあって、時間がかかる。得の、僕のところは外国人留学生を多数抱えているので、「日本語」の問題があり、難儀することが多い。それに、僕の勝手な感想になるが、最近の学生は「ジコチュウ」の度合いが進んできたようで、僕を含めて他者の存在が見えないのか、計画やその他日常的にも「自分中心」で、他者の都合など考えない学生が多い。それに加えて、変に「自信過剰」で、プライドも高いようで、応接にとまどうことが多い。
 次に、批評家としての仕事は、「立松和平全小説」第12巻・第13巻の「解説・解題」併せて40枚近くを書き、その他には「アスパラクラブ」の11月号のために準備をしながら、僕自身の次の著書『現代作家論』(仮題--この本は、村上春樹の『1Q84』批判約122枚を中心に、これまで書いた「辻井喬論」「立松和平論」『小檜山博論」「野間宏論』など10編ほどの作家論を集めたもので、「反現代文学論」といった趣のある本である。今年中か来年初めにできあがる予定なので、できあがったら是非1冊手元にご購入ください。『1Q84』批判は、他に類を見ないものだと思います。村上春樹が何故ノーベル文学賞をもらえないか、が解明されていると思います。版元は、アーツアンドクラフツという昔冬樹社という出版社にいた人が設立した小さな出版社です)のために、原稿に手を入れるといった日々を送っていて、ブログにまで気が回らない、というのが実情でした(コメントにだけは、答えたのですが……)。

 ところで、中国のノーベル平和賞受賞者「劉暁波」氏を巡って、日本のマスコミはまたまた『中国の情報操作」とか「自由のない権国家」などと喧しく騒いでいるが、元々この「ノーベル平和賞」は「平和賞」というより「政治賞(ショー)」のようなもので、僕は日本で佐藤栄作首相が受賞したときからそのように思い、他のノーベル賞とは別な意味合いを持つものだと思っていたので、今度の劉氏の受賞についても、「大国」として世界に売り出し中の中国への「県政」の意味合いが強いのではないか、と思っていた。昨年「平和」のために何も後継しておらず、単に「核軍縮」の演説をしただけでオバマ・アメリカ大統領にこの「平和賞」が与えられたのも、おかしかったが(イラクからは撤退したとはいえ、アフガンで派兵を増強し相変わらず「戦争」をしているアメリカという存在は何なのか)、今度のもその「政治的意図」が見え透いている、と僕は思った。もちろん、中国の「情報統制」や「人権抑圧」は許せないが、国家は共産党の一党独裁で、経済は市場経済で、という矛盾した体制でここまできた中国、批判するのは簡単だと思うが、それより前に、僕ら日本だって「言論・思想の自由」が制限されていた時代があり、また現在もそのようなことがあるという事実を、もう一度考えるべきなのではないか、と思う。