黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

泡立つ日々

2009-06-06 08:37:30 | 近況
 村上春樹の新作「1Q84]はもう既に読了して、頼まれていた書評を書き始め、既に9割方書き終わっているのだが、例によって村上春樹の作品に特有な意味の取りにくい、例えば主人公の一人「天吾」が書き直すことになった文学新人賞に応募してきた作品名「空気さなぎ」とか、その「空気さなぎ」と深い関係にある「リトル・ピープル」について、その意味するところは何か、僕なりに特定しなければならないと思いずっと考え続けているのだが、時間が取られるばかりで、いつものことなのだが、正直に言って「困ったものだ」と思っている。
 デビュー作の「風の歌を聴け」の時代から、村上春樹の作品には「SF」的要素が存在し、それについてはそれぞれの評者や研究者が「勝手に」解読してきた(と僕は思っている)が、今度の新作がそのような「SF」的な要素に重要な意味を付与している(ように思える)反面、一方では珍しく村上春樹自身の1960年代から1984年(及び、現代)までの体験や経験を元にした「リアル」な世界を綿密に描いていて、その「落差」の意味するところは何か、と考えさせられているのである。ようやく僕なりの「結論=決着」がつきそうに思っているのだが、結果については僕の書評が「北海道新聞」に掲載されたのち、この欄で紹介したいと思っているので、お待ち下さい。
 それとは別に、「泡立つ日々」と書いたのは、学生たちと付き合っていて最近気が付いたのだが、どうも今の若者(学生)たちは、「情報」に飢えていないのではないか、とは言え、その反面自分が興味を持った情報については「とことん」追求する、という言うなれば「偏向」した情報感覚を持っているのではないか、ということである。先週末の授業で60人余りの学生に「1Q84]を読んだ人、と聞いたのだが、「はい」と答えた人はゼロで、僕の授業を受けている学生は村上春樹の新作にほとんど関心を持っていないのではないか、と思われた。誰もが村上春樹の読者にならなければならないなどとは思わないが、せめて60人中1人ぐらいは、と期待していたのだが、見事に空振りであった。
 ただ、別な調査で、僕の学部(学類)の学生たちは、一般的な学生より読書量は多いという結果が出ているので、そのことを考えると、学生たちの関心が多岐にわたり、また同時に「一般的な流行」や「幅広い教養」には余り関心を持たず、ひたすら自分の興味・関心に専心する、この傾向が良いのか悪いのか、僕がこの傾向は決していいことだとは思わないのは、このような「読書傾向」は人間関係にも表れていて、「恋愛」や「友人関係」にも反映していて、そのために「うつ」や「パニック障害」といった精神障害が増え、またそれぞれが「孤立」するようになっていることと無関係でない、と思うからである。
 宮台真司的に言うならば「コミュニケーション不足」が生み出す「悲劇」の芽を今の若者(学生)たちは誰もが持っている、ということになる。僕がいくら「匿名」でのコメントには応接しないと言明しているにもかかわらず、相変わらず「勝手」に匿名でコメントを寄せてくる人が絶えないのも、自分の「セル=個細胞」に立て籠もって、そこから他者攻撃をする「快感」によってかろうじて自己を保っている人が多いからなのではないか、と最近は思うようになった。
 この頃の日々、「泡立つ」感覚から逃れられないのは、異常のようなことがあるからに他ならない。