黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

1945年8月9日11時02分

2011-08-10 03:24:20 | 文学
 1945年8月9日11時02分、僕はこの時間、今までとは違って逗子に住む林京子さん宅に向かう途中の電車の中で迎えた。電車の中ではあったが、いつものように山端庸介さんが撮った被爆直後のナガサキの写真を思い浮かべながら、「核と人間は共存できない」という思いを再確認したのだが、それにしても夜帰宅して長崎市長の「平和宣言」を聞いて、すでに知っていたことではあるが、長崎市長も広島市長と同じように明確に「脱原発」を宣言できない(しない)ことに、そうだろうなと思いつつ、改めてがっかりせざるを得なかった(追記:広島市長の「平和宣言」よりも長崎市長の方がよろ「脱原発」に近いものになっていたが、しかし「脱原発」と明確に宣言しないことで、残念ながら「原発容認派」による巻き返しの余地を残してしまったのではないか、と思う)。
 というのも、この日の午後1時30分から5時頃まで、間にサンドイッチ休憩を挟んで3時間以上、「ヒロシマ・ナガサキ」や「フクシマ」のことについて話をし、そこで「ヒロシマ・ナガサキ」を経験した日本人なのに「脱原発」宣言できない(「脱原発」思想を手に入れることのできない)のは何故か、について意見を交換し、その時、長年にわたって日本人は為政者(権力者)が垂れ流し続けてきた「核の平和利用」「原発の安全神話」に慣らされてきてしまったのではないか、というようなことについて議論したばかりだったからに他ならない。
 「喉元過ぎれば、熱さを忘れ」というのは、日本人の悪い癖(性質)であり、今度の「フクシマ」もそのようになる可能性がないわけではないが、しかし、この間の、例えば福島から避難した子育て中の若い母親たちの動きを見ると、「ヒロシマ・ナガサキ」当時の人たちとは違う「自立した個」としての動きをしているので、指導者たち(菅首相や長崎市長たち)の思惑とは違った「脱原発」思想が生み出されるのではないか、ということも考えられる。林さんもそのようなことを強調しておられた。
 林さんとの「対談」(インタビュー)は、林さんが8月9日に三菱兵器大橋工場(爆心から約1.4キロ)で被曝して家族が疎開していた諫早市の叔父の家まで12時間以上かけて徒歩で帰宅するまでの経緯を皮切りに、アメリカでの生活や被曝した同級生たちのこと、内部被曝のこと、そして「フクシマ」のことなど多岐にわたったが、詳しいことは9月に刊行される予定の『「ヒロシマ・ナガサキ」から「フクシマ」へ―「核」時代を考える』を見てもらうしかないが、大学を定年退職した後、群馬の田舎に引っ込んでいるということもあるが、久し振りに本物の「知性」に会ったという思いを強くした。今月末には、同じ本のために辻井喬氏と角度を変えて「対談」(インタビュー)することになっているが、林さんと同じように、本物の「知性」に会えると思うと、楽しみである。

 逗子への行きと帰りの電車の中で、前にも紹介した『あの戦争を伝えたい』(東京新聞社会部編 岩波現代文庫)のこれまで読んでいなかった部分を読んだのだが、若い新聞記者たちが戦争体験者たちに「自分の体験したこと」を聞いて構成したこの本、元々が新聞記事と言うこともあって、易しい文章で書かれているので小学校高学年から読めるのではないかと思い、是非多くの人に読んでもらいたい、と思った。内容は、「沖縄戦」に始まって、「集団自決と日本軍」「『差別』の島」「原爆投下」「「東京大空襲」「山の手空襲」「空襲と『戦争受忍論』」「キリスト教徒弾圧」「サイパン陥落」……と続き、先のアジア太平洋戦争のあらゆる面における「証言」を元に構成されているので、教科書代わりにもなり、例えば小林よしのりという漫画家などのような「大東亜戦争肯定論者」の戦争観とは真逆な戦争がこの本にはある。
 暑い夏、扇風機の風を受けて毎日何ページかを読んで過ごすのも、いいかな、と思う。