黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

1945年8月6日8時15分

2011-08-06 06:10:22 | 近況
 今日は8月6日、66年目の「ヒロシマ・デー」。
 あと2時間ほどで、66年前の広島市に人類初の原子爆弾が投下された時間になるが、3月12日に起こった福島第1原発の爆発事故以来この国に起こった「核」論議を思い起こすと、まず思い出すのは「当面は危険ではありません」「放射能漏れはたいしたことありません」「原子炉は損傷したけれど、メルトダウンなど起こっていません」、などという事故を小さく見せようとする政府(経産省)・東電・学会(学者・研究者)が三位一体となってデマゴギー(嘘)を振りまき、「真実」を隠蔽し続けてきたことである。
 次は、林京子さんが語った「何も学ばなかったのね」という言葉が如実に物語るように、最近こそ「ヒロシマ・ナガサキ」と「フクシマ」を結びつけるのは当たり前のようになっているが、当初は「被爆(核兵器による被害)」と「被曝(原発による被害)」は違うのだとばかりに、「ヒロシマ・ナガサキ」と「フクシマ」とを切り離して考えようとする「悪しき習慣」が関係者はもとよりマスコミの間でも当たり前のようになっていて、いかに「原子力の平和利用」という教育・宣伝が行き届いていたか、歯ぎしりする思いで動きを追わざるを得なかった。
 3番目は、村上春樹の「ヒロシマ・ナガサキを経験した日本人は、核について『NO』を叫び続けるべきであった」という発言が驚きと納得を持って迎えられたことが物語るように、極端な言い方をすれば、日本人は被爆者を中心に1945年の8月6日のすぐ後から「反核」を訴え続け、原水爆禁止世界大会も内外から多くの人を集めて何十回となく開催されてきたにもかかわらず、多くの人が「日本人は核に対して『NO』を叫んでこなかった』という印象を持ってきたということ、原爆文学の研究から必然的に「反核・反戦」へと至り、日本人が「反核」思想を持つのは当たり前と思っていたが、実はそこに「落とし穴」があって、世に言う、例えば今日広島で行われる「平和記念日の式典」などで言われる「反核」には、この国の指導者たちが口をそろえて公言してきた「非核三原則」が名ばかりで、「核の持ち込み」はベトナム戦争時の沖縄を始め、原潜や原子力空母が寄港する横須賀や佐世保などの港では空文化していたことと同じように、実は「反原発」が含まれていなかったこと、このことを痛烈に思い知らされたのが、3月12日から今日までの日々であった。
 原子炉の内部や周辺がとんでもない高濃度の放射能に汚染されていることが判明し、放射能に汚染された牛の数が毎日毎日増え続ける今日、「フクシマ」はいつ「収束」するのか全く見通しが立たないような状況にあり、苛立ちは一向に収まらないのだが、今日(8月6日)から8月9日の「ナガサキ・デー」まで(本当はこの間だけでなく、ずっと続ける必要があるのだが)、もう一度「ヒロシマ・ナガサキ」のこと、つまり核兵器による「被爆」のことと、「フクシマ」のこと、つまり原発による「被曝」のことを真剣に考える必要があるのではないか。
 今月は、前にもお知らせした僕が編集として刊行する『「ヒロシマ・ナガサキ」から「フクシマ」へ―「核」時代を考える』のために、9日に林京子さんと、月末の31日に辻井喬さんと「対談」(インタビュー)する。内外の20数人が執筆するこの「核」問題について考えるアンソロジー、林さんと辻井さんとの「対談」はおそらく大変中身の濃いものになるのではないかと思っているが、そのためには僕自身の考えを総点検して明確にしておかなければならない。心して「対談」に臨もうと思うと同時に、お二人が「ヒロシマ・ナガサキ」や「フクシマ」についてどのような発言をなさるのか、胸がわくわくする。
 と言いながら、昨夜も家人と「フクシマがこんな状態になっているのに、まだ原発を容認する人がいるというのは、どういうことなのだろう。広島でも長崎でも「平和宣言」の中で明確に「脱原発」を言わないという、おかしいね」というようなことを話したのだが、この「おかしさ」はいつになったら是正されるのだろうか。

 明日は、「石原和三郎」について午後2時から、群馬県立文学館で講演する。興味のある方は、是非。