黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

著者校(再校)

2007-05-23 00:12:30 | 文学
 昨日の夕方に担当編集者から連絡があったとおり、午前11時半に6月25日に出る『林京子論ー「ナガサキ」・上海・アメリカ」』の「再校ゲラ」が届き、25日(金曜日)の午前中までに返却して欲しい旨がメモされていた。明日からの予定を考えると、このまま大学(つくば)に持って行っても校正する時間を生み出すことが難しいyと思ったので、昼食の後、早速校正に取りかかる。
 毎回、著者校の度に思うのだが、編集者(校正者)は細かいところまでよく見ていて、著者がどうしても見過ごしてしまう点に対してまで、厳密に指摘してくれるので驚かされる。今回も、著者(僕)は年譜などで作品の出版年など確認したはずなのに、間違っている箇所が何カ所か在り、冷や汗ものだった。また、脱字もいくつかあり、著者は「校正」するのではなく、「読んでしまっている」(一つ一つの文字や単語に注意せず、文章として読んでしまう)のだとつくづく思う。他人の文章だと「校正者」として振る舞うのに、自著だと読み飛ばしてしまう。同業者に聞くと、みな同じだというので、いくらか安心しているのだが、「校正」は本当に難しい。校正者が「専門家」だということを、今回も思い知らされた。
 それにしても、本を書く(本を作る)ということの、何という難しさよ。400字詰め原稿用紙に約420枚の文章を書き、そして編集者(出版社)の手を経て、読者の手に渡るまでの長い道のり、デジタル時代の今日ではそのような過程について、ついつい安易に考えがちだが、基本的に「手作り」である書籍を生み出すことの意味をもう一度僕たちは考えなければならないのではないか。
 どこぞの国の首相が何の意図があってか現場を無視して上滑りな「教育再生」などを唱える風潮と、「手作り」の大切さを忘れたように見える昨今の風潮は、どこかで通底しているように思えてならない。2人の子育てをしながら一生懸命「子供」のことを考えて教師をしている娘の生活を端から見ていると、「教育三法」が画餅に過ぎず、為政者(与党・権力)の意図は別のところにあり、それは結局ニヒリズムを底意に持つ「破滅」への道なのではないか、と思わざるを得ない。そんなこんなで、昨今は「多数決」を原理とする民主主義の暗い裏面を見せつけられるばかりであるが、今度の『林京子論』はそんな風潮への僕なりの「異議申し立て」を底意に持つ作家論であることを、宣伝をかねて言っておきたいと思う。
 司修さんの装幀でとてもすてきな本になります。是非、読んで欲しいと思う。版元は「日本図書センター」(文京区大塚3-8-2)なので、ブログを読んだと言って注文してくれれば、便宜を図る予定でいる。よろしく。