牛コラム

肥育牛と美味しい牛肉のはなし

牛の900日間

2008-04-27 10:54:27 | 牛の成長
肥育牛は生後約900日間で仕上げられ出荷される。この限られた飼育期間において、牛たちに健康的で快適な飼育環境を如何に提供出来るかが、牛飼いたちに問われている。このことが牛たちに寄せる思いやりと牛飼いの飼育技術の良否にも密接に繋がっている。
今や牛たちは経済動物として、牛肉産業に多大なる影響力を担っている。しかも、和牛は世界に類のない牛肉資源として高価に取引されている。牛肉を多量消費している南北アメリカ大陸と比較すると、やや誇張すれば、凡そ10倍の評価である。同大陸からすれば、首をかしげたくなる現実であろう。それだけに、和牛は余計貴重な肉資源となっている。
さて、肥育牛は900日間が成育期間である。通常肥育牛は、1日0.8~1kg体重が増えることが知られている。中には、期間中1kgの増体を果たす牛もいる。生時体重を30~40kgとして、935kg前後になることになる。この様な牛は、900日間ほぼ病気をせず事故にも合わなかったはずである。この様に、子牛の時から何らの疾病の経験がなければ、順調に発育する。
生まれた時に、初乳やミルクを潤沢に飲ませ、体力的にパワーを付けてやることが、初手の大事な作業である。これを怠ると、積極的な授乳に至らず、風邪や下痢を繰り返し、肺炎を併発させるなど、順調な発育どころではなくなる。この様な疾病歴を持つ子牛は、肥育に入ってからも、飼育環境や飼料の給与法が変化することにより、それについて行けずに食が細く、気候等の影響を受け、体調を崩す例は、日常茶飯事である。購買時にこれらの体力を見抜く審査眼を身につけることが重要となる。
肥育中に、下痢や肺炎を起こすと、必ず食欲は低下する。こうなると増体しない。むしろ、減量する。その他、諸々の疾患を経験するたびに食欲低下を起こす。2~3日で回復しても、増体が順調に伸び出すのは、凡そ1週間後になる。
牛は、餌を食っていくらの世界である。まあーその内、治るだろうとタカをくくってしまうと、逆に体調をこじらせて取り返しの付かないことが往々にしてある。
常に、体調を疑ってかかる慎重さが必要である。こじらせて肺炎を起こすと、1ヵ月はおろか数ヶ月回復しない場合がある。同時導入牛より、100kgも増体が遅れれば、終了時には、その100kgがそのままついてきて、順調なら、800kgが700kg以下での出荷と言うことになる。
増体の遅れは、絶対に取り戻せない。取り戻そうとすれば、低いDG(1日当たりの増体量)のままでは、かなりの日数がかかり、経費が嵩むことになる。
牛を飼うには、900日間を大過なく飼育できるための諸々のスケジュールと環境作りが不可欠なのである。

黒毛和種の毛色は黒ではない

2008-04-27 01:22:32 | 牛の成長



黒毛和種の生時の毛色は、写真のように黒色ではない。生時は全ての子牛がほぼ同じような毛色である。
この毛色は、生後半年も経過すると、黒ぽくなったり、赤茶けた色になったり次第に変化する。
子牛市場に出る頃になれば、真っ黒ではなく茶色がかった黒色で、微妙な違いがある。
肥育が進むとともに、牛の毛色は再び黒色が強くなり、ほぼ似た色に収まる。
育成時に毛色の違いがでる理由は、全てではないが、遺伝的に赤茶ける系統がある。逆に黒の強い系統もある。
例えば、第5隼福号の遺伝子を有する産子には、赤茶けるものが見られ、第7糸桜号のは黒が強いとされている。
また、飼料添加剤として販売されている海草や貝類から生成されたアルギットなどを与えるなど配合飼料の内容でも毛色に変化が生じ、特に影響を受けるのは、太陽光線である。屋外に放し飼いしている子牛は、総体的に赤茶けてくる。これも全てが揃うわけではないことから、紫外線の影響を受ける度合いが個々にちがうのだろうと予想している。
ところで、以前枝肉取引が行われていない頃は、牛の資質が肉質を判定するのに重要な審査項目であった。資質の項目にある被毛では、毛が細く柔らかく、毛色は真っ黒く無いものとされていた。真っ黒い牛は、いわゆる「さし」の入り具合が悪いという見方がなされてきた。ところが、第7糸桜号の出現でそれは完全に否定されることとなった。また、鳥取系統の牛は総じて 黒の強い毛色で、当時は差ほど肉質は良とされていなかったが、その後鹿児島県で体型の大柄な鳥取系統を基軸に肉質の良好な種雄牛が産出され、真っ黒のだめイメージが払拭された。
子牛市場では、同一品種だろうかと思えるほど、毛色が微妙に異なって見える。
購買者の好みにより、茶っぽい牛を優先的に競り落とすケースもある。毎年のことだから、おそらく良い結果を確かめているのであろう。

写真下は、運動場付きの飼育場で飼われている生後10ヵ月令の去勢牛群であるが、毛色はまちまちである。