くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

大川小学校児童のご遺族の皆さん、校長を責める前に自己批判すべきでは?

2012年01月24日 | Weblog
まだ魔女狩りが続いていると知って驚いた。

3回目の説明会。

また生き残ってしまった校長は晒し者。これじゃあ、文化大革命をとやかくは言えない。

何とも執拗というか粘着質と言うか・・・。

子供を悲劇的なかたちで失った親や家族は悲しみと怒りのやり場を学校や教育委員会に求めているのだろう。
私も個人的に石巻市や教育委員会の責任を「無し」とはしない。

教育委員会というところは、残念ながらお役所的というか、現場知らずなところがあって、現場教員のなかにも批判、不満が無くはない。なかには元々は現場教員だったのに「優」な先生だったのか、若くして教育委員会に引き抜かれ、そこで10年以上なんて教師にも会ったことがある。確かに頭の切れる人、事務屋としては仕事の実によくできる人だったが、言うことが理屈っぽく、現場の実情にそぐわない空理空論が多かった。そうした人がやがて教頭、校長として
現場に舞い降りてきた日には、教員たちにはしんどいことになる。


避難場所が特定されていなかったのは、想定が甘かったとの判断は免れまい。

裏山への避難経路も確保、整備されていなかったという。これも生徒を無事保護できた他の地区の学校に比べて、やはり批判されても仕方ないのかもしれない。

しかし、大川小学校のある地域は少なくとも明治以降は冠水を経験していない地域であったのではないのか?

防災、災害避難は大かた過去の経験値というものが下敷きになる。「権威筋」の未来災害予想などクソの役にもたたないことは、今回に限らず過去にも繰り返し証明されてきたわけである以上、やはり過去に頼るしかない。震災後評価されている「てんでんこ」も経験値から出た知恵である。

その過去の経験値から大川小学校関係者や地域住民が甘くかつ結果論的にいえば致命的な判断を下したとして、一体どこまで教育委員会、学校を責めるべきであろうか。


特に一学校の校長に怒りの、批判の矛先を向けるのはいかがなものか。

本来なら「無事で良かったですね」と声をかけら得るべき一個人のはずだ。家族は本心「無事でよかった。運が良かった」と思っているはずだ。でも、そんなことはとても口にできる状況ではないはずだ。「針のむしろ」という言葉があるが、校長とその家族の今の心境は「針の・・」どころか「生き地獄」ではないだろうか。

残酷な話である。

数年おきに勤務校を変わる教員に、校長に、一体どこまでの避難対策ができるというのか。既定の避難マニュアルに従うだけというのが通常ではないのか。学校長の個人的判断で避難方法や経路、場所の変更や避難路の設置などできるものではない。そんなことは言わずもがなのはずだ。

ましてや上述の通り、過去の経験値によれば、今回のような事態は想定できなかったはずだ。その想定の是非を元利色とは言え一現場職員でしかない校長に問うのはいささか度が過ぎるというものだ。

最新の報道によれば、校長不在の震災発生時、教頭は裏山への批判を主張したというではないか。それを反対したのは、地域のことを教員などよりもより知っているはずの地区行政区長だったという。

地域住民である「長」のつく人間に反対されて「それでも」と言うだけの度胸ではなく、自らの判断が正しいと確信するだけの論拠を教頭が見出せたとはとても思えぬ。もし私が教頭の立場であれば、地元民の反対に対して、「地元の人がそういうのであれば」と自論をひっこめたと思う。

繰り返しになるが、当時校長は不在だった。正当な理由での不在だった。そこで悲劇が起きた。そして、避難対策の「落ち度」を今責められている。「人災」だと言って。教育委員会自身「人災」を認めている。だが、それを言われた校長はまさに「地獄に生きる」思いだろう。

生き残った休職中の教員のことも心配だ。かつては「逃げた」とのいわれなき批判に晒されたこともあるという。実際はそうではなかったそうだ。とっさに複数の児童を助けたそうだ。で、それ以上なにができたというのだ。末端の一教員にまで判断ミスを問うのか。そんな権限はないはずだ。組織を経験した者ならそんなことは容易に理解できるはずだ。学校は、教頭はそう判断したが、自分と自分の学級だけは別行動をとるなどという判断をできる教員などドラマの中でもなければ文字通り皆無であろう。生き残って、可能な限り児童を助けて、今「学校」の一部として批判に晒される。これこそ「死ぬ」こと以上の過酷ではないのだろうか。

サンドバッグを求めている。亡くなった児童の家族たちは。悲しみ、怒りを思いっきりぶつけるサンドバッグが欲しいのだ。

親として理解はできるが、そんなあさましい行為は辞めるべきだ。少なくとも、校長や生き残った教員という一個人に怒りの矛先を向けるべきではない。

同時に、大川小の学区に暮らしていた児童の保護者たち、あなたたちは勤務校を数年おきに異動する教員たちよりも地元のことをより知っていたのでないのか。ならば、あなたたちの日頃の防災意識、防災対策はどうなっていたのでか?
今回のような事態を想定していましたか? 具体的対策は? 子供に、我が子にどのような防災教育を行ってきましたか? 

あなたたちにだって、想定外だったのでしょう、今回の事態は? あなたたちの暮らす地域の行政区長が裏山への避難に反対したくらいですから。山への避難こそ危険という判断は、経験値による地元から出た判断だったのですが、そうした認識が地元にある程度あるいは共通認識として共有され得る素地があったのではないですか?

ならば、今回の悲劇はあなたたちの認識の甘さにも原因があるということではないのですか?

行政や教育委員会を避難するのもいいでしょう。でも、彼らの認識をあなた方も共有していたのでは?

他人を責める前に、まずは我が子を守り切れなかった我が身の不明を責めてはいかがですか、校長を糾弾し続けるくらいなら?


そして、校長にも家族や子供がいるという点にも思いをはせてみませんか。お子さん方、自分の父親が晒し者にされて、どんな思いでしょうか?

やり場のばい悲しみ、怒りはわかりますが、それを立場的に事実上無力であった一個人に向けるというのは、もうやめにしませんか?

それとも、校長に「お前も死ね」とでも言いますか? あえて責めて責めて追い込もうとでもいうのですか。

他人を傷つければ、いずれあなた方自身をも傷つけることになるのです。もうそんなことは本当によしにしましょう。
亡くなられたお子さんがた、親のそんな姿をみて、喜びますかねえ? 









































































































コメント (64)
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