くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

サザンはTSUNAMIを歌うな!

2012年01月06日 | Weblog
って、誰が賛同しますか?

マスコミが山岡大臣に仕掛けた言葉狩り攻撃の論法で言えば、そうなるのだが?

EUがどうの中国がどうのTVカメラ回っているところで喋るマルチ政治家なんか要らんのだが、だから言葉狩りの餌食に
なっちまっても良いとは言わない。

たとえ話でも津波という言葉が行かんのなら、サザンの曲の歌詞を見てみろって! 随分大震災と重なっている部分があるんだが、これも封印? 

まあ、そんなこと言われなくてでもサザンも歌わんと思うけど、カラオケで歌っても不謹慎!とかさわぐバカいるのかねえ。


日頃、言論の自由だとか、表現の自由だとか言っている連中に限って、いざとなるとその真逆の方向に突っ走るっ傾向
ありますね。人権、人権とか騒ぐやつが実は、人権抑圧の急先鋒みたいな行為にはしるみたいに。



マスコミってのは、ホント救いの無いげすが多いんですねえ・・。













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中国で一番有名な日本人: 加藤嘉一氏に見る現代日本人の限界

2012年01月06日 | Weblog
昨晩NHKでの爆笑問題との対談を見た。

加藤氏の中国語は実にすばらしい。台湾語なまりのつよい北京官話みたいと揶揄され、しかも語彙も表現力も乏しい中国語しか話せない私からしてみれば、その点に関しては仰ぎ見るべき存在である。

が、あるブログでも指摘されているように、彼の話す内容に「これは」と感ずべきものはない。

むしろ、時々、首をかしげたくなるような内容もある。

例えば、昨晩の番組でも彼は中国を日本の「原点」と呼んだが、風呂上がりに「おーいお茶」を飲みながら見ていた私は、思わず噴きそうになってしまった。と同時に、昭和63年の夏に中国を訪問した当時の首相竹下登が敦煌において同地は「日本のふるさと」とコメントし、中国側にも???が生じたというエピソードを思い出した。まあ、竹下氏は「ふるさと創生」にかけてそう言ったのかもしれないが、一国の首相のコメントとしてはバカ丸出しで恥ずかしいと、私は当時中国に滞在していて思ったものである。竹下をいろいろな側面から評価する特に永田町周辺からの声は耳にしたことがあるが、所詮その程度の見識の人物だったということであろう。

それはさておき、加藤氏の「原点」も困ったものである。まあ、部分、部分をとらえれば、中国を「原点」としたものはそこかしこにあるわけだ。その最たるものが「漢字」だろう。漢字という表意文字しか持たない中国語というのは、ある意味発育不全のような言語であるとも思うが、どこぞの国のように一時の情緒に駆られて漢字を排除するなどという愚行に及ばなかったことは幸いであったと思う。他にもあれこれあるが、我が国の文化・伝統は中国という一点のみにつながるものではない。受容はほぼいずれもが変容を伴っていることもわすれてはならない。そしてその変容の原因は、中国とは異なる別の「原点」を独自に持ち合わせているからに他なるまい。

そうした点を看過して「中国は日本の原点」とは、ほぼ暴論に近い。まさか長年の中国暮らしで日本文化は中華文明の亜流という考え方がすっかり根をおろしてしまったのだろうか。同じ内容でも中国人が言うなら、「また始めやがった」くらいにしか思わないが、今時欧米の日本・アジア研究者でも今時そういう言い方はしない。ブローデル先生も、ハンチントン先生も草場の影で目をひんむいて驚いていることであろう。

メディアにおいて簡明な発言をしようとした結果、あのような「舌ったらず」な発言になったというわけではないように思う。メディア慣れはしているはずだ。

むしろ、私は中国でしか高等教育を受けていないことに原因があると思う。

しかし、そうだとすれば、彼の日中関係論にも重大な「欠落」があるのではないのか、中国国内ではいざ知らず日本でもメディア露出が増えれば、やがてその部分が露呈し、彼の「商品価値」は低下していくのではないのだろうか。

またその「欠落」ゆえに彼が日中両国間の「かけ橋」としての役割にも限界が生ずることになるであろう。

残念ながら、中国の高等教育機関は、日中関係を学ぶという点では、もっともふさわしくない場所であると思う。
日中関係史、そのなかでも近現代史ともなれば尚更のことである。学問の自由が保障されない社会で、歴史解釈の多様性を許容しない体制にもとで日中関係という敏感な題材に向き合うというのは所詮無理というものだ。

加藤氏が日中関係を自分のライフワークにしていこうと考えているのであれば、北大を出てから日本の大学か大学院に移るべきであった。もしかしたら、今からでも遅くはないはずである。アメリカにも興味があるようだが、そうしたいのであっても、はり日本を経由すべきだ。アメリカで日中関係を学ぶのも、中国よりははるかに良いが、やはりいろろと問題がある。さもなくば彼の国のアカデミズムを支配するあの「バイアス」は、既に中国のバイアスの洗礼を受けた加藤氏には百がいあって一利なしであろう。


ところで、加藤氏の「問題」は、基本的に彼自身に責任の帰するべきものではないと私が考えている。要は、加藤氏が中国的日本理解の虜になってしまったのは、中等教育を終えるまでの段階で「日本人」としての、「日本国民」としての教育、知的訓練が施されてことなっかったにあるのではないだろうか。現在の我が国の教育にはそれがないのだ。
我が国の公民教育は「国民教育」たりえていないのである。そんな教育環境のなかで育まれた加藤氏が、留学先の対日観に染まったとしてもそれは白地を朱に染めるがごとく容易なことであったはずだ。

そして類似の現象は既に中国以外の留学先でも生じていることを忘れてはなるまい。

民族・国民教育を欠いた「無垢」な日本人がそのまま海外にいき、滞在国の価値観、対日観に染まるなんてことは以前から起きておることで、加藤氏はその一人に過ぎないということだ。

加藤氏にそうした自覚がないとしたら、それは彼にとって悲劇以外の何物でもないのだが、聡明な彼にかぎってそれはないと思いたい。











































































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