くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

高齢者はなぜ優先席に座らないのか?

2012年01月09日 | Weblog
バスではなく地下鉄等電車に乗っていて以前から気になっていたのだが、優先席(北海道では専門席というんだとか?)はガラガラ、他は乗客がいっぱいという現象をしばしば目にする。

だからといって高齢者とおぼしき乗客がいないわけではない。彼らは優先席ではないシートにちゃっかり座っているのだ。

なぜ、彼ら高齢者は優先席に座らないのか、優先席が空いているにもかかわらず。


こればかりは高齢者自身に聞いてみるしかないわけだが、まず思うに、優先席に抵抗感を持つ高齢者がいるということではないのだろうか。

あるいは、自分自身を高齢者と認めることにすら抵抗感を持っているのかもしれない。


体が不自由であったりして、各車両のはじにある優先席まで移動する体力的余裕がないのかもしれない。


あるいは、優先席が空いていようがいまいが、たまたま乗車したところ最寄りの座席が空いていたから座っただけなのかもしれない。もしこういうケースもあるのだとすれば、私は正直不愉快に思う。あんたらが優先席を利用すれば、座ることのできる乗客がいるってことに思いを馳せませんか?と。より率直にいえば、ちょっと自己中過ぎやしませんかと。でも、最近の年寄りって結構手前勝手だからねえ・・。子や孫の世代を食い物にしても自分の年金は確保したいっていう人たちでしょう。だから、医療費の値上げだとか、消費税の値上げだとかが話題になると、自分たちの生活が、今後がと騒ぐ。まあ、中には自分たちよりは子や孫が・・という人もいるけれど、そういう声がさほど多いとは思えないなあ・・・。若い連中をされおいて自分の座りたいところに座るという行為と、若い連中に犠牲を強いてでも自分たちの余生を守ろうとする発想、根は同じなのだろうなあ・・。

が、それにしてもこれだけ年寄りが増えているのに優先席のみ明らかにアンバランスにガラッと空いているは不審とすべき点である。

本当は優先席なんか無くても高齢者が座れるって気遣いが世間で当たり前にできれば、それに越したことはないんだよなあ・・。

















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韓国製LGの洗濯機

2012年01月08日 | Weblog
最近ある事情からLGの単槽式の洗濯機を使用している。

韓国製家電に興味もあり、期待もしたが、使ってみてガッカリした。

まず、洗いも、すすぎも、中途半端なのだ。目の粗い衣服に液体洗剤がねっとり絡まったままということが一度ならず・・・・。

そして、それ以上に脱水が弱いのだ。今時、厚手の衣服は全行程終了後、再度のみしぼりをかけないと、とても干せたものではない。

ジーンズはダメだ。


昨年米国に行った際も、ヒュンダイ車に乗ってみたが、それ以外のものを見ても、デザイン性は残念ながら日本製よりも高い。品質も上げている。が、まだ質感は低い。外装、内装ともに、安っぽさが残る。「詰め」が甘いのかもしれない。というか、もしかしたら「詰める」技術力、生産力をまだ持ち得ていないのかもしれない。

洗濯機も同じことなのかもしれない。



日本の製造業の皆さん、円高という障害は辛いとこでしょうが、まだまだ挽回の機会、勝機はありますよ。敵はあなたたちよりも確かに大胆です。でも、結構脇が甘いように思います。

え、脇が甘いのは日系も?

ん・・・、とにかくがんばってください。













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コメダ拡大は果たして歓迎すべきことなのか?

2012年01月08日 | Weblog
名古屋発祥の喫茶店コメダが元気で、東海地方を超えて拡大路線を進めているとか。

まあ、割安が受ける当節、名古屋式というかコメダ式のモーニングサービスが地域をまたいで歓迎されるのは、さして驚くべきことではなく、むしろ当然のこととして受け止められるべきであろう。

おまけにコメダの提供する商品は価格的、量的にだけではなく、質的にも決して悪くはない。

が、コメダの拡大は果たして歓迎すべきことなのか、と考えてしまう。

というのは、コメダの拡大を助けているのは、現今の経済情勢にある。考えてみれば名古屋を中心に東海地方だけをみてもコメダの拡散は、バブル崩壊後に生じた現象である。停滞・衰退という延長線上において、それが続いているのは当然とみるべきなのだろう。

が、果たして経済状況が今のようなものでなければ、バブル期とは言わないまでも80年代前半のような状況であったとしたら、コメダは今ほどに成長を臨めただろうか。

コメダは確かに割安だ。安いだけではない。看板商品「シロノワール」。個人的にあのソフトクリームは「不味い」部類のものだと思う。(総じて、日本のソフトクリームは、アメリカのカスタードに比べて、乳製品としては落ちると思っている)でも、世間的には受けているから、物珍しさもあるのだろうが、甘いもの好きには受けているということなのだろう。他の商品も「コメダでなければ」、「コメダが一番!」というほどのものはないのだが、いずれも価格と量とのバランスを考えても考えなくても、はずれが実に少ない。

ただ、あの店の看板を含めた外観、内装・・。実に品がないというか、センスがない。まあ今はコメダ風ということで認知されているのだろうが、だからといってあの外観が街全体の外観を損ねることがないとしても、プラスに作用することもあるまい。内装も、ある種古めかしく、個性的でもなければ、色気もなく、雰囲気を味わう店でもない。

商品の見た目、盛りつけ、食器の類も、何ら評価すべきものがない。

ありていに言えば、いかにも名古屋的というか東海地方的なのである。

どこか同じ地域を発祥・拠点とする某自動車会社の製品に似ている。個性的ではない、色気もない、面白みもない。率直にいえばかっこよくない。でも、性能、居住性、運転性能、維持費を含めたコストパフォーマンス等すべてをひっくるめて考えると、売れることに納得がいくのである。

コメダのもう一つの問題点は、先進性の無さである。以前、コメダの禁煙・分煙の欠如について述べたことがあるが、
今時、田舎でならいざ知らず(都会の大都市でもそうか、例えば、仙台、札幌など)、今時街中の飲食店でありゃないよなあ・・・と思えてしまう先進的ではないと書いたが、禁煙意識の低さは昨今においては、後進的ですらあるのかもしれない。

それから、店側の衛生観念。これも以前に書いたが、使用済みとはいえ手や顔を拭く(私は個人的に手しか拭かない)お絞りで床を拭くという行為、しかも客の目の前で・・・、私には信じられないというか、100%許容できない。
かりにたまたまその店だけでの、さらには一従業員のみの問題だとしても、そうした知能レベルの人間を雇ってしまう企業、そうしたレベルの従業員教育しかできない企業を私は信頼できないのだ。裏で何をやっているかわからないとすら思う。事実、私は、あのお絞り床拭き事件以来、コメダには行っていない。もう生理的にダメなのだ。

こんな店が成長し得る状況、拡大路線を取り得る状況・・って、歓迎すべきことなのだろうか? 

コメダの業績が不振になる。もちろんコメダですら稼げなくなるほど経済が更に悪化したからではなく、コスト的には高くとも消費者がコメダ的な質には満足しなくなった結果、コメダが衰退する。これこそ、我々が歓迎すべき状況なのでないだろうか。

でも、それは今しばらく望めないだろうなあ・・。



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サザンはTSUNAMIを歌うな!

2012年01月06日 | Weblog
って、誰が賛同しますか?

マスコミが山岡大臣に仕掛けた言葉狩り攻撃の論法で言えば、そうなるのだが?

EUがどうの中国がどうのTVカメラ回っているところで喋るマルチ政治家なんか要らんのだが、だから言葉狩りの餌食に
なっちまっても良いとは言わない。

たとえ話でも津波という言葉が行かんのなら、サザンの曲の歌詞を見てみろって! 随分大震災と重なっている部分があるんだが、これも封印? 

まあ、そんなこと言われなくてでもサザンも歌わんと思うけど、カラオケで歌っても不謹慎!とかさわぐバカいるのかねえ。


日頃、言論の自由だとか、表現の自由だとか言っている連中に限って、いざとなるとその真逆の方向に突っ走るっ傾向
ありますね。人権、人権とか騒ぐやつが実は、人権抑圧の急先鋒みたいな行為にはしるみたいに。



マスコミってのは、ホント救いの無いげすが多いんですねえ・・。













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中国で一番有名な日本人: 加藤嘉一氏に見る現代日本人の限界

2012年01月06日 | Weblog
昨晩NHKでの爆笑問題との対談を見た。

加藤氏の中国語は実にすばらしい。台湾語なまりのつよい北京官話みたいと揶揄され、しかも語彙も表現力も乏しい中国語しか話せない私からしてみれば、その点に関しては仰ぎ見るべき存在である。

が、あるブログでも指摘されているように、彼の話す内容に「これは」と感ずべきものはない。

むしろ、時々、首をかしげたくなるような内容もある。

例えば、昨晩の番組でも彼は中国を日本の「原点」と呼んだが、風呂上がりに「おーいお茶」を飲みながら見ていた私は、思わず噴きそうになってしまった。と同時に、昭和63年の夏に中国を訪問した当時の首相竹下登が敦煌において同地は「日本のふるさと」とコメントし、中国側にも???が生じたというエピソードを思い出した。まあ、竹下氏は「ふるさと創生」にかけてそう言ったのかもしれないが、一国の首相のコメントとしてはバカ丸出しで恥ずかしいと、私は当時中国に滞在していて思ったものである。竹下をいろいろな側面から評価する特に永田町周辺からの声は耳にしたことがあるが、所詮その程度の見識の人物だったということであろう。

それはさておき、加藤氏の「原点」も困ったものである。まあ、部分、部分をとらえれば、中国を「原点」としたものはそこかしこにあるわけだ。その最たるものが「漢字」だろう。漢字という表意文字しか持たない中国語というのは、ある意味発育不全のような言語であるとも思うが、どこぞの国のように一時の情緒に駆られて漢字を排除するなどという愚行に及ばなかったことは幸いであったと思う。他にもあれこれあるが、我が国の文化・伝統は中国という一点のみにつながるものではない。受容はほぼいずれもが変容を伴っていることもわすれてはならない。そしてその変容の原因は、中国とは異なる別の「原点」を独自に持ち合わせているからに他なるまい。

そうした点を看過して「中国は日本の原点」とは、ほぼ暴論に近い。まさか長年の中国暮らしで日本文化は中華文明の亜流という考え方がすっかり根をおろしてしまったのだろうか。同じ内容でも中国人が言うなら、「また始めやがった」くらいにしか思わないが、今時欧米の日本・アジア研究者でも今時そういう言い方はしない。ブローデル先生も、ハンチントン先生も草場の影で目をひんむいて驚いていることであろう。

メディアにおいて簡明な発言をしようとした結果、あのような「舌ったらず」な発言になったというわけではないように思う。メディア慣れはしているはずだ。

むしろ、私は中国でしか高等教育を受けていないことに原因があると思う。

しかし、そうだとすれば、彼の日中関係論にも重大な「欠落」があるのではないのか、中国国内ではいざ知らず日本でもメディア露出が増えれば、やがてその部分が露呈し、彼の「商品価値」は低下していくのではないのだろうか。

またその「欠落」ゆえに彼が日中両国間の「かけ橋」としての役割にも限界が生ずることになるであろう。

残念ながら、中国の高等教育機関は、日中関係を学ぶという点では、もっともふさわしくない場所であると思う。
日中関係史、そのなかでも近現代史ともなれば尚更のことである。学問の自由が保障されない社会で、歴史解釈の多様性を許容しない体制にもとで日中関係という敏感な題材に向き合うというのは所詮無理というものだ。

加藤氏が日中関係を自分のライフワークにしていこうと考えているのであれば、北大を出てから日本の大学か大学院に移るべきであった。もしかしたら、今からでも遅くはないはずである。アメリカにも興味があるようだが、そうしたいのであっても、はり日本を経由すべきだ。アメリカで日中関係を学ぶのも、中国よりははるかに良いが、やはりいろろと問題がある。さもなくば彼の国のアカデミズムを支配するあの「バイアス」は、既に中国のバイアスの洗礼を受けた加藤氏には百がいあって一利なしであろう。


ところで、加藤氏の「問題」は、基本的に彼自身に責任の帰するべきものではないと私が考えている。要は、加藤氏が中国的日本理解の虜になってしまったのは、中等教育を終えるまでの段階で「日本人」としての、「日本国民」としての教育、知的訓練が施されてことなっかったにあるのではないだろうか。現在の我が国の教育にはそれがないのだ。
我が国の公民教育は「国民教育」たりえていないのである。そんな教育環境のなかで育まれた加藤氏が、留学先の対日観に染まったとしてもそれは白地を朱に染めるがごとく容易なことであったはずだ。

そして類似の現象は既に中国以外の留学先でも生じていることを忘れてはなるまい。

民族・国民教育を欠いた「無垢」な日本人がそのまま海外にいき、滞在国の価値観、対日観に染まるなんてことは以前から起きておることで、加藤氏はその一人に過ぎないということだ。

加藤氏にそうした自覚がないとしたら、それは彼にとって悲劇以外の何物でもないのだが、聡明な彼にかぎってそれはないと思いたい。











































































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平成24(2012)年、いよいよ大変な年が始まった・・・

2012年01月03日 | Weblog

欧州情勢との比較からなのか、日本国内に妙な楽観的雰囲気があるように思うのは、私だけだろうか。

昨年3月の大震災を経て、「もうこれ以上大変なことはおこるまい」という気持ちもあるのかもしれない。

が、甘いと思う。

日本はまだまだ苦しみ抜いていない。本当の苦しみはこれからなのでは?

朝鮮半島情勢に加え、周辺諸国含め、今年から来年は政権交代の年。変わらなくても、「いままで」は続かない。

欧州はもうダメだろう。今の危機を切り抜けるこことはできないだろう。ある霞が関関係者は「EUはこの危機で結果として焼け太りになる」なんてことしたり顔で広言していたが、この人の正気を疑うのは私だけか? メルケルという人、もしかしたらとんでもない雌狐か相当の性悪女かもしれない。が、そんな指導者をこの時期に得たドイツ国民も不運である。

ロシアはプーチンだろうが、今年の大統領職への復帰が、「終わりの始まり」になる。ロシアという国は、対外的に積極攻勢に出るとこけるというジンクスがある。強いロシアの復活を標榜するプーチンも対外的に積極策に出るつもりだろうし、国内の支持を維持するためにはそうせざるを得ない。しかし、対外硬は必ず挫折する。 タカがハトを抑えて台頭した結果、ロシアはあえてする必要のない戦争をして敗れた。それが日露戦争である。プーチンが「タカ」を演じざるを得ない以上、彼は苦境に追い込まれる。

中国は混沌としても拡大しつづける。ハイリスクハイリターンのビジネスチャンスの地で有り続けると思うが、国家として対内、対外的にどうふるまっていくのか、ここが更に不透明になるのではないだろうか。予定通りの政権交代がなされたとして、人民解放軍という巨大なブラックボックスの存在感が更に大きくなることは間違いあるまい。そして、それゆえに中国分析は今以上に難しくなる。

中東は実に危うい。「アラブの春」の今後よりも、イランをめぐる情勢がやばい。イスラエルがどう出るか。米国大統領選挙を睨みつつ思いきった策に出る可能性はじゅうぶんにあるのではないか。

欧州情勢が更に混沌とすれば、それはそれで日本経済にはマイナスに作用するが、中東で万が一ということが起これば、我が国経済は一気に奈落に落としこまれるかもしれない。

でも、それで良いと思っている。堕ちるところまで堕ち切っていないのが現状である。ならば、この際、もっと堕ちて、そしてそこから出直すしかあるまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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