くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

NHK「平清盛」: 伊藤四朗の白河院はミスキャストだったのでは?

2012年01月26日 | Weblog
伊藤四朗という役者が「巧者」であることは否定しないが、皇族だとか公家、大名等のやんごとない役柄(まあ、系図捏造の氏素性のしれない徳川殿はじめでーみょうふぜいがやんごとないかどうかについては、雲井の近いあたりからは大いに異論もあろうが)は無理だと思う。

どんなにうまい役者でも、やはりニンを無視してはいけない。播磨屋に切られ与三をやれといっても無理な話だし、中村屋に由良之助もこれまたあり得ない花話しであるように。もっとも、「ラマンチャ」の高麗屋に直侍をやらせるなんて無茶ぶりをする松竹のことだから、まだ若い中村屋あたりならいずれ歌舞伎座や南座の大舞台で「四段目」や「七段目」をなんてことになるのかもしれないが、まあ、冒険主義にも程度というものがあろうものだ。

伊藤四朗の本領は「下々」を演じて発揮されると思う。それも相当な「下々」あるいは、下も下、社会からあぶれ出たような訳を。

随分昔になるが伊丹十三の「ミンボウの女」での伊藤のやくざ役での演技は実に見事であったが、彼には「民草」が似あうのだ。


子供の時分、ベンジャミン伊藤等、コメディアンとしての伊藤を見ていた自分から思っていたのだが、彼の「目つき」にはある種の「怖さ」がある。それを再認識したのは「伊藤家の食卓」だった。目が笑っていないのだ。ベンジャミンの時には私もまだまだガキんちょ、今のように理屈っぽく考えていたわけではないが、言葉には言い表せない何か違和感を、ベンジャミンとしてのおかしさと彼の容貌の怪異さ、特に目つきの凄みとの間に感じ続けてきたのである。

白河院という人を「妖怪」的に描こうとしたのであれば、伊藤のその「容貌」、「目つき」ゆえ、キャスティングとしては「妙」とみるべきなのかもしれない。

が、そこに貴人の風情はまったくなかった。伊藤の演じる白河院の僧形は、「院」というよりも氏素性知れずも叡山かどこかからのし上がった政僧、道鏡のごとし、であったように思えたのは私だけだろうか。

「王家」論争をめぐっては、それをもって制作側に皇室軽視の思惑があったと断定するつもりはなかったが、伊藤の白河院(伊藤自身の思想傾向は保守的なはずだが)という配役を見ると、やはり皇室の権威を貶めたいか、あるいは敬意の欠如・不足があるのやもと勘繰りたくはなる。軍人役に悪役っぽい役者を多く配するドラマに制作側の反軍イデオロギー傾向や有る方向に傾いた歴史観を疑いたくなるように。


最後についでながら、伊藤の容貌で思いだしたが、同じくNHK「カーネーション」のほっしゃん、あの人も独特の顔特に目つきをしていると思う。それは以前から感じていた、「お笑いに似つかわしくない目つきの人だなあ」と。ただ、個人的には「カーネーション」での演技はなかなかの好演であったと思う。これでお笑い芸人ではなく役者としての境地が新たに開かれたのではないだろうか。もっとも、ああしたチンピラっぽい役柄、ヤクザ系統をTV・ドラマネタにし辛い時節柄、どこまで彼の出番があるかは不明だが、役者としての可能性を示せたのではないだろうか。




























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