くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

敗戦を記憶し続け、捷戦を忘却しようとする国

2010年08月10日 | Weblog
原爆忌、終戦記念日、そして閣議決定されたという日韓併合100周年に関する菅総理大臣談話。

日韓併合は別として、原爆忌、終戦記念日はすべて、65年前の敗戦と戦争の惨禍を思い出し、記憶し続ける契機として語り継がれてきた。

しかしその一方で、日清、日露の両戦役をはじめとする勝ち戦の記憶は、語り継がれているのだろうか。少なくとも、負け戦に比較して勝ち戦についての記憶の継承は、極めて消極的といわざるをえないというのが、現状ではないだろうか。

これは先の大戦のみならず日本の近代の歩みを、近代の対外交渉を否定的に捉えようとする思潮が戦後一貫してあるからに相違あるまい。

日韓併合について反省の文言が盛り込まれるであろう総理大臣談話も、そうした歴史観の産物というべきであろう。聞くところによれば、とりわけ、今の官房長官は特異な歴史認識の御仁であるという。

日清、日露の御戦はおろか、日韓併合も我が国史の「誇るべき一頁」と確信する私からしてみれば、やはり、こうした傾向は自虐と言わざるを得ない。

日韓併合に関しても、私はいささかも個人的にそれを反省し謝罪する気にはなれない。少なくとも法的に批判されるべきものでないことは、既に国際法史の世界ではある種の常識であり、いまだに国内において不法だ無効だと騒ぐのは韓国である。官房長官殿は、名前や文化を「奪った」ことを罪悪視されているようだが、合法的に植民地となった朝鮮において行われた創氏改名や文化政策は当時の大日本帝国の法制に何らもとるものではない以上、長官殿のお考えは単なる感情論に過ぎない。さもなくば、過去を現在ただ今の価値観によって断罪しようとする、あるべからざる行為であり、その刃は必ず後世自身に振り下ろされることを覚悟すべきである。そもそも、法律家である者が法論を軽んずるとは、これ、医師が医術を捨て神仏に手を合わせ、迷信にすがって病を治そうとするに等しい行為であり、既に法律家としての立場を事実上放棄したとみなされよう。

私は敗戦こそ恥じれど、それ以前の幾多の勝ち戦を少しも恥とは思わず、軍事強国、植民地帝国であったかつてに我が国を誇りにすら思う。少なくとも、今の我が国の情けない姿に比べればはるかにまともに見える。

そして私は過去を他国に対して謝罪しない。する必要すらないと思っている。かりに謝罪すべき点があったとして、それは金リン諸国との関係を含め、すべて数十年前に解決済みであり、今更蒸し返すべきことではない。相手側はそれを仕掛けてこれば断固はねのけるべきであり、ましてや、我々自身がそれを無視変えずなど、我が身に鞭打ちその快感に酔いしれるがごとき倒錯の境地としか言いようが無い。

我が国は精神を病んでいる、そして官房長官殿はじめ政治家たち、国の指導者たちも精神を病んでいる。健全な国民精神の回復なくして我が国の明日は展望できない。



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