くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

日韓歴史問題をめぐる韓国の卑劣: ある地方都市での韓国大使権哲賢の講演

2010年08月29日 | Weblog
数か月前の話になるが、某地方都市で韓国大使の講演が催された。

地元の新聞社が主催したもので、内容は日韓関係の今後についてだったが、当然そうなると「決まりごと」として「過去」を踏まえてということになる。

私はその場にいなかったのだが、後日複数の知人から聞いたところでは、内容も「お決まり」のものであった。主催者である地方紙の記事も確認してみたが、講演内容は知人たちが理解していた通りであった。聴衆のほとんどを占めていた日本人の間に、何ともいえぬ、あえて言うならば「またか」、「もううんざりだ」というような空気が流れたという。少なくとも、知人たちは共通してそう感じたとのことで、彼らの周りの人たちの表情にも「そんなことを一方的に聞かされに来たのではない」という表情が見てとれたという。

「一方的」とは、なんとこの講演、質疑応答の時間が設けられていなかったのである。韓国大使の講演の前にも、他国の駐日大使による講演が行われたそうだが、質疑応答のないものはそれが初めてであったとのこと。しかも、後日伝え聞くところでは、それは韓国大使からの要望によるものであったという。

ということは、察するに大使は自分の講演内容に対して聴衆から反論あるいは反対論を示唆するような質問が出ることを予測し、それゆえに、あえて質疑応答無しとしたのではないのか。

外交官として、これは一つの選択であったと理解を示すことは可能かもしれない。質疑応答が喧々諤々の論争に発展すれば、その場の雰囲気が悪化する可能性は大であり、両国関係の今後どころではなくなってしまい、何のための講演だったのかということになる。

しかし、民主国家における講演において一方的に質疑応答は一切拒絶しておきながら、自国の歴史解釈を一方的に相手にぶつけるというのも、外交上決してほめられたものではない。しかも相手は一般大衆である。そんなことをされて対韓か感情がよくなろうはずもない。事実、知人たちはともに不快の念をあらわにしていた。

しかも、「同じ?」民主国家同士の関係として、この講演のやり方はある意味「卑劣」ですらある。相互批判は民主主義を民主主義たらしめるものであるならば、事前に批判を予測してその機会を奪うというのは、何とも潔くない。自らの歴史認識に確たる信念を持つのであれば、反論、批判をあえて受けて立ち、そのうえで自説に「正しさ」を説けばよいはずだ。それを露骨なかたちで拒絶した大使のやるかたは、韓国の民主主義の底の浅さ、未熟さの証左以外の無いものでもないのではないのか。

それにしても、主催者側も情けない。なぜ質疑応答時間を設けるべきと主張しなかったのか。漏れ聞くところでは、相手の要求をほぼ鵜呑みだったという。主催者が優先したのは、講演の無事開催であったのだろうが、聴衆に不快感あるいは悪くすれば反韓感情を抱かせるような講演は、かえって日韓関係の深化を阻害するだけではないのか。

「あんな講演ならやらない方がよかった。こちらから、ではお越しくださらなくて結構」と言うべきだった。知人の一人の言い分だが、まったくその通り。

しかし、こうした弱腰が一地方新聞社に限定されたものでないことは、先日の「菅談話」にも明らかである。相手におもねって何かを得られると考えているとしたら、国際関係においてそれはあり得ないと言わざるを得ないのである。
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