くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

武蔵川理事長の続投は、下手をすれば、不敬である。

2010年08月07日 | Weblog
その点、理事長本人よくよくわかっているとは思うが?

陛下が白鵬へのお言葉を通して示された相撲への大御心に背くようなことは、ゆめゆめすまいぞ。
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原爆のウソ?: 被爆者、被爆者遺族は、原爆犠牲者の声を代弁しているのか?

2010年08月07日 | Weblog
そんな証拠はどこにもない。

死人に口なしだ。

もしかしたら、原爆は二度どと、戦争は二度とはあの世で思っていないかもしれない。そもそもあの世に「思い」などあるのか?

もし個人の思いというものが存在するのであれば、被曝して死亡した人々は、仇を取ってくれ、米国ともう一戦交えて勝ってくれ、今の日本は情けない、と思っているかもしれないではないか。

とすれば、「過ちは繰り返しませんから」の「過ちは」とは「敗戦」ということになるのではないだろうか。

それはよいとして、いずれにしても、私たちは原爆で亡くなった方々、肉親の声を代弁している、みたいな言い方はよしてもらいたいものだ。物が言いたくても言えない故人の思いを捏造して語るなど、死んだ親の年金を受け取り続ける外道どもと、50歩100歩ではないだろうか?

それとも何か、江原某のように死人と交信ができるとでも?

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広島平和式典は、秋葉市長のオモチャか?

2010年08月07日 | Weblog
毎年、毎年、式典における秋葉市長の平和宣言には眉をしかめたくなる。

なぜなら、そこには市長の個人的政治・思想信条によるものと思われる政治色の強い「メッセージ」が込められるからである。
今回は、非核三原則の法制化と「核の傘」からの離脱を訴えた。原爆は核問題へと直結する以上、式典そのものが政治性が帯びることは不可避であるが、ただし、非核三原則の法制化云々など、広島市民の総意ではなく、市長個人の政治的主張に過ぎないものを、市民を代表して式典を執り行う立場のものが、口にするというのは、いかがなものか。式典の「私物化」、職権乱用ではないのか。

市長の近年の宣言のもう一つの特徴は、北朝鮮、中国への甘さである。オバマが核廃絶の意向を表明して以来対米批判はやんだが、それまでは繰り返しの名指し批判もあった。その一方で、北朝鮮への厳しい指弾はなく、中国に対しても数年前に一度他の主要核保有国とともに、その名を列記し批判したに過ぎない。今回、米国をはじめ英仏代表も参列する中、中国、インドが参列しなかったということに対して何らかの言及があってしかるべきではなかっただろうか。秋葉氏が社会党の代議士だったからというわけでもないが、ここに、同氏の政治的、思想的嗜好を詮索したくなってしまう。

率直にいってこのような政治臭の強い式典を私は、見たくもない。おかげで「ゲゲゲの女房」は出勤時間に重なり見れなかった。
もっと、慰霊を主眼とした式典で良いのではないのか。例えば、終戦の日の武道館での式典のように。もっとも、あの式典でもかつて河野洋平衆院議長は個人的主張を両陛下並びに「英霊」の前で開陳するという、お下劣を演じたという事例もあったが、広島ももう少しあの路線で行くべきではないのか。

そのためには秋葉市制を終わらせなければなるまいが。
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中国、昨年に続き参列せず: 広島平和記念式典

2010年08月06日 | Weblog
2年前の今日、中国は初めて広島での平和記念式典に参列した。

ところが昨年は参列せず。

そして、今年も、米英仏が参列する一方で、中国代表の参列はなかった。

こうした中国の行動をどう解釈すればよいのか。一昨年の初参列は対日関係改善志向の一環として捉えることが可能のように思われたのだが、昨年に続き二年連続の参列見送りは、一体何を意味するのか。

一つの可能性は対日方針の変化であるが、これはまずあり得まい。

となると、やはり中国国内にその理由があると考えるべきではないだろうか。胡政権にとって、代表派遣を見合わせる必要のある何らかの事情が国内、より厳密に言えば党内にあるということではないのだろうか。

もしかりにそうだとすれば、やはり一番大きな可能性の一つは、世論動向であろう。2年前の代表派遣に対する中国国内世論の反応を私は知らないが、昨年来これに対応した可能性はないだろうか。

しかし個人的には世論よりもより内部、すなわち中国共産党内にこそ理由・原因があるのではないだろうか。2年後に迫る政権交代に向けた権力闘争、強まる軍部の意向が作用しているのではないか。

今回米国が初参列する一方での中国の参列見送りは、対米関係という点においても意味深に捉えられても仕方があるまい。米国と同歩調をとらなかったことに対して、オバマ政権に対して何らか挑戦的ですらあるシグナルを送ったと捉えることも可能であろう。米中の不協和音が再び強まりつつあるとの示唆とも読むべきかもしれない。

中国も米国大使の参列に対する不参列がいかなるイメージで捉えられるかという点について鈍感であろうはずもあるまい。とすれば、上述のようなシグナルとして捉えられる可能性があると知りつつ不参列を選択したとすれば、やはり、対米姿勢における強気をあえて隠そうともしないということなのかもしれず、更にそれは中国の特に軍部の強まる自信の表れなのかもしれない。

胡錦涛個人の思惑はいざ知らず、政権としてそうした軍部の強気と自信を無視できない状況に置かれているということだとすれば、今後の党内権力闘争の行方のカギは軍部の支持ということになるのだろうか。そして軍部の支持を得て誕生した新政権は、軍部の意向を背景に好むと好まざるとより自己主張的な対外政策を展開するということではないのだろうか。

かりにそうだとして、もしそのときの日本の政権が引き続き親中路線を取る時、経済力、軍事力を背景とした中国の対外政策を前に、日本は対中従属という親中姿勢を強いられることになるのではないだろうか。そしてそのときの米中関係ならびに米国の対中姿勢いかんでは、日本は米中のはざまにおいて、今のような不安定な対米関係のままでは容易ならざるジレンマに陥る恐れすらあろう。そのとき日本がとるべき選択肢は決して多くはなく、「正解」は一つしかないと思うのだが・・。

その意味で、普天間問題の早期解決を図ることは、中国政治の今後の行方と日中・米中関係の今後という点からも、非常に大きな意味を持ちうるのである。

中国の今後を占う上において、経済と社会情勢の推移からは目が話せないことはいうまでもないが、同時に軍部の動きには細心の注意が必要であろう。可視性が低いだけに神経を使う作業になろうが、やはり銃口から生まれた政権は、相変わらず軍権の所在によって政権の命運と政策の方向性が大きく左右されるという点で相変わらずであるように思われる。


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民主党反主流派の思惑は、代表戦での勝利にあらず?

2010年08月04日 | Weblog
民主党主流派の菅総理への攻勢が強まっているとのことだが、彼らは本気で代表戦において菅降ろしをするつもりなのだろうか?

どうもそうは思えないのだ。

おおらく代表戦に対抗馬を立ててくるに違いない。しかし、いまのところ名前の上がっている連中、いずれもどう見ても党代表すなわち総理の器ではないか、いろいろとカネ関係で芳しくない噂のある者ばかりである。

しかも、それを信じるか否かはさておき、マスコミの調査では国民の多くは再びの総理交代を望んではいないという。

にもかかわらず果たしてあえて菅降ろしをするであろうか。かりにその結果新たな人物が総理の座に就いたとして、国民世論の支持を得られるとは思えない。むしろ、国民の意思に反して誕生した政権として発足当初から低支持率に苦しめられるのではないだろうか。

ならば、対抗馬を立てるには立てるが本気で勝利を狙うよりも、菅総理自身に自滅してもらった方が得策との判断があってもおかしくはあるまい。今の菅総理を見ている限り、どうも支持率回復を果たすことは難しいように見受けられる。国会論戦でも受身というか低姿勢で、それは党内に対しても変わらない。国民からみればそれは指導力の欠如に見えてしまう。ねじれ国会と党内に相当数の反主流派を抱えている以上、低姿勢を余儀なくされる状況は今後も続くものと思われる。加えて、代表戦で対抗馬を出され、それが行って以上の党内の支持を集めたとなれば、いかに勝利したとはいえ、菅総理の党内での求心力は更に低下し、それが指導力、政権運営の独自色発揮に抑止力として働き、結果、支持率にマイナスの影響を及ぼす。ジリ貧状態のなか、野党の敵失でも発生しないかぎり衆院解散に打って出るという選択も自殺行為以外の何ものではなく、菅政権は行き詰ったまま国民からのソッポ、国会運営の停滞、党内の不協和音の増加のなか、退陣を余儀なくされ。必然的に新たな代表すなわち総理選びという運びとなる。

反主流派からしてみれば、そのときを待てばよいということではないのか。いざとなれば、そのときの自らをめぐる状況いかんでは小沢自らが出馬する可能性も捨てきれまい。海江田あたりが今回出馬するとの向きもあるが、あれは「かませ犬」ということではないのか。本人も自分の「かませ犬」としての役割を理解しつつもその後の論功行賞を見込んでの出馬・敗北ということではないのだろうか。

世界経済の雲行きも不安定である。米国の二番底、今年の秋になくともいずれ来よう。欧州経済は尚のこと不穏である。その他も知れたものではなく、外で何かあれば、日本経済はそれに即影響される。菅政権に適切な対応策を講じる力はあるまい。となれば、ますます「果報は寝て待て」こそが反主流派の今取るるべき選択ではないのだろうか。

民主党支持者ではない私にはどうでも良いことだが、反主流派が党内主導権を回復して、菅周辺の仙石あたりの左巻き、反国家主義者の連中を一網打尽、場合によっては党を割って
政界再編の口火を切るくらいの選択をもって動いてくれればもっけの幸いだと思うのだが。

ちなみに仙石由人、あの男も今が盛りで後はあるまい。いずれ大きな落とし穴があの男を待ち構えているような気がするなあ。あの男には、不幸の臭い、滅びの臭いがする。
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今日本人が稔持すべきこと: 「愛国行進曲」

2010年08月04日 | Weblog
「愛国行進曲」、盧溝橋事件発生間もなくに、国策として作られた一曲である。今時の人はメロディーだけを聞けば、鈴木建設の社歌と思うかもしれない。そう、映画「釣りバカ」で同社の社歌のモチーフにもなっている曲である。

その2番の歌詞は次のようなものである。

起て一系の大君(おおきみ)を
光と永久に頂きて
臣民我等皆共に
御稜威(みいつ)に副はむ大使命
往け八紘(はっこう)を宇(いえ)となし
四海の人を導きて
正しき平和打ち立てむ
理想は花と咲き薫(かお)る

現在ただ今、わが国の将来に向けたビジョンが無い、政治家が国民に国家ビジョンを示せないでいるとの指摘、批判がある。その通りだと思う。冷戦終結この方、この国は向かうべき方向性をいまだ見いだせていない。

しかし、思うのだ。この歌詞は具体的なビジョンとは言わぬまでも今我々日本人が心に持つべきを示しているのではないかと。
政治可が党利党略をめぐる駆け引き、権力闘争に明け暮れているときではない。国民の自己利益の保全・追求のみに汲々としているときではない。母が母たるを捨て一人の女になった姿は、我々日本人の現在ただ今の姿を程度の差こそあれ映し出してはいないか。今日本国民は皇室のもと一つになり、それを守護し奉り、陛下の大御心に沿わんとすべきではないのか。横綱白鵬に示された陛下のお心、日々大内山のうちで祭祀を営まれる陛下のお姿に我々はその思召しを読み取り、それに沿わんとすべきではないのか。

しいては対外的には、日本は四海兄弟、八紘一宇の精神をもって、「道義国家」としての姿を確立し、今世界を、特に東アジアを席巻しつつある覇道に対して「否」を突き付けるべきではないのか。

軍国主義時代の国策歌とレッテルを貼る前に一度聞いて欲しいものである。
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相撲協会は大御心に沿うべく粉骨砕身すべし

2010年08月04日 | Weblog
天皇陛下より横綱白鵬へのおねぎらい、横綱自身ならずとも感激せずにはおれまい。

「日本の横綱」への陛下のお心遣い、ただただおそれいるばかりである。たとえ主義者であろうと、アンチ皇室であろうと、あるいは皇室に無関心で敬意を示すことすら知らぬものであろうとも、一視同仁、陛下はすべての国民に御思いを致される。

いやおそらくは、白鵬が「日本の横綱」を自認せずとも、陛下の一視同仁の御姿勢に変わりはなかったはずである。叡慮は八紘を一宇のごとくに思召し、そこにいくばくかの分け隔てもないのではなかろうか。

翻って相撲協会は、陛下の横綱へのお言葉を横綱一人に向けられたものではないと重く受け止め、早急の改革断行、完遂すべし! もしかりに大御心にそぐわぬことになれば、そのときこそ「国技」の看板を自ら下すときと心得よ!

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「今の日本って、どうしてこう下品になったか」-北野武

2010年08月03日 | Weblog
産経新聞のインタビュー記事。いちいちごもっとも。

女の公衆の面前での化粧なんて、人前でパンツはくようなもんで、不快極まりない。でも、随分昔からそういう女いたけどねえ。数が増えたというか、印象的には低年齢化していると思うんだけどなあ。
まあ、子どもがおとなの前をするようになったってことで、今時突然そうなったわけでもないように思うが、見苦しいねえ。自分の女房がアレをしたら、即離婚とは言わないが、怒鳴り飛ばしているなあ。娘、虐待と言われてもいいから、はりとばす!

立ち食いそば? ス-ツ姿のあれも、昔からだわな。でも、若い女が混じるようになってきた。立ち呑みの居酒屋なんてのもそのケースで、あんなのは昔は肉体労働者のスタイル。昔は酒屋の店先で立ちながら一杯提供する店もあったが、しかるべき人間はそういう呑み方はしなかった。そこに女が加わった。水商売か商売女じゃあるまいに、と思う。

確かに、日本人は下品になっているが、これは世界的潮流じゃないのか。アメリカ文化の地球規模的流布なんて、「下品」のグローバル化ってことでしょ? アメリカ文化は下品だよ。ハリウッド映画を見てみろ。最近のものなんか、どこに「品位」とかあるんだって?

悪貨は良貨を駆逐する。今に始まったことではない。今時王侯貴族でもスーツに身を包むが、あれなんか社会の低層化の最たるもの。そもそも、あれは金はあっても地位のない連中が来ていたもの。いまじゃあ、わが国のやんごとないところでも、それが常態化しているでしょ? 女性の服装だって、いつしか庶民やせいぜい武家の下の方の召しものを召されているし。

それはさておき、「巨匠」北野武、お前が言うな。下品な芸をかれこれ30年近く晒し続け、品の無い映画を散々作っておいて、お前が言える立場か!?

しかも、逮捕歴ありの凶状持ちのくせに。

いつからこの男、文化人だか何だか知らないけど、こんな上から目線のえらそーな物言いするようになったんだろう。ジジイやババアいじっていた頃の物言いとは明らかに違うと思うんだが。

今の日本が下品になったのは、あなたのせいでもあるのだよ、巨匠!

というか、既に昔から下品になっていたから、あなたの下品な「芸」や「芸術作品」が受けてるんでしょう?

ゴキブリに「どうしてこの家はこんなに不潔なんだ!?」って言われているようなもんだわな、こりゃ。
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やはり、白石真澄(関西大学教授)は・・・

2010年08月03日 | Weblog
白石真澄が逆性差別主義者であることは、彼女のかつての女尊男卑的発言からもうかがえることであるが、彼女はやはりオカシイ。

以下「朝ズバ」での発言、抜粋。

>こういう事件が起こると母親が責められて異常のように報じられるが、私は彼女に同情的」として、「大阪の中心区の人間関係
>が希薄なところでは孤立してしまう。子育ての母親の孤立をどう救うかに目を向けなければ、こういう事件は防げない」と述べ
>る。

後段はもっともと言えばもっともだが、「同情的」とは・・。

かりに社会的に孤立していたとして、あの鬼母に何を同情しろというのか!? あの畜生女だけを責めるつもりはない。元夫は何をしていたのだ? 養育費はどうなっていたのだ? 個人的経験からも決して驚くべきことではないが、行政の対応はいかにも甘過ぎる。だが、それによって、畜生女の責任や罪が軽減さっるわけでもないし、孤立についても、彼女はその犠牲者だとでもいうのか? そうではあるまい? 両親との連絡を絶ったのは畜生本人ではなかったのか? 切羽詰まれば頼るべきは親。それまでの経緯に何があろうとも、血のつながった親子であるし、ましてや両親にとって亡くなった二人は孫だ。きっと何らかの救いの手を差し伸べたはずだ。他所の親子関係の内幕など知るよしもないが、孤立してしまわずとも済む可能性もまだ残されていたのだ。その可能性を自ら捨てたのは、あの畜生本人なのだ。

親になった以上言い訳はなしだ。親も一人の人間だ。完全な滅私は無理だ。そこまで求めてはいけないが、自己犠牲は仕方がない。そして忘れてはならないのは、その自己犠牲は自ら選んだものであるということだ。個人の自由のもとのなされた選択に対しては、その個人が責任を負うべきである。ましてや責任の対象が子どもであるとなれば、尚更である。

その我が子に対して、あの畜生は何をしたのか。いかに子どもとはいえ3歳ならば何らかの形で他人に助けを求めることができたのではと不可解に思っていたら、何と部屋を粘着テープでふさいでいたというではないか。そこまでして我が子をむごたらしい死に老いこんだ女に何を同情しろというのだ。女が通常の知能の持ち主なら、我が子が死に至るであろうことは明らかに予見できたはずだ。その予見可能な行為を我が子になした畜生に、「同情的」だとは?

白石も同じ類の性質をもった女ということか?そんな人間が大学教員にして千葉県知事候補者でいいのか?

ただ、一つ思うことがある。この白石女子、実は世の男性諸氏への甘えがあるからこそ、性差別発言をテレビカメラの前で平気でし、鬼畜生に「同情」を抱くのではないだろうか。甘えがあるからこそ、差別的発言も許されるとふんだのであろう。事実、彼女の発言が番組司会者や本人によって訂正、撤回されることはなかった。社会や周囲が子を持つ女性に何かしてくれて当然という甘い気持ちがあるからこそ、我が子を惨殺した女に「同情的」などとまたしてもテレビカメラの前で平然と言ってのけることができるのだろう。

まあ、本人が自分の「甘さ」をどこまで自覚しているいかは疑問だが、もし「甘え」などから出た発言ではないとすれば、そらおそろしい人間というほかない。

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梅幸の「弁天小僧」

2010年08月02日 | Weblog
梅幸の弁天、むかーしから一度見てみたいと思っていたが、ついに存命中それはかなわず。

そういえば、梅幸という人、芸風だけではなく普段の姿も大成駒とは随分違ったふうであったようだ。そういえば、一度国立劇場の前で見かけたことがあった。なんと、先代国太郎と会話を交わしていた。ロビーのガラス越しだったから会話の内容は知る押しもないが、もしかしたら、大歌舞伎と前進座、貴重な一シーンを目撃したのかもしれない。そのときの梅幸、ぴっしっとスーツに着こなす姿は、品のいい老紳士といった風情で、知らない人には、大成駒と双璧をなす女形だとは想像だにつかなかったに違いない。

それはさておき、あり難い世の中でYoutubeで、梅幸の弁天に出会うことができたのだが、これがなかなか良いのだ。

正直言って、当代菊五郎の弁天、昔は当り芸だと思っていたが、何年か前に15代目のセリフを耳にしてから、もしかしたら従来の江戸歌舞伎のそれとは趣が違うのではないかと考えるようになっていた。関西風に対比しての江戸前のウナギの味とでも言おうか、15代目のそれはあっさりなのに対して、当代菊五郎はまったり、こってりなのである。

では、梅幸の弁天は?

どちらかというよりも、むしろ断然15代目に近いのだ。もしかしたら6代目も同じようにやっていたのかもしれない。

どちらが好きか? 昔だったら当代と答えたであろうが、よくよく考えてみて、弁天というのはむしろ女形が演じた方が本格ではないのだろうか? もちろん、女形がやると、女から男の本性を現すところの変化のメリハリに欠けておもしろくないという見方もあろうが、弁天の想定されている年齢や賊に身をやつすまでの経歴を考えると、やはり女形がやるのが自然なのではないか。

残念ながら菊之助の弁天、10代で演じた時は随分話題になったが、それを見てはいないが、父親ではなく爺さんにむしろ似ていたのではないか、いやそうあって欲しいと思うのである。

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