くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

Jaywalk中村耕一と矢野きよ実の馴れ初めは・・・(不倫)?

2010年03月12日 | Weblog
この二人の「馴れ初め」だが、報道等の情報が正しいとすれば、一寸おかしくないか?

二人が交際を始めたのは、1995年。

ところが、矢野が前夫と離婚したのは、夫の西武移籍後。つまり1996年以降ということになる。

もし、この時系列が正しければ、二人の馴れ初めは「不倫」ということになる。

そして「倫ならぬ恋」の行く先には、「情夫」の逮捕という悲劇が待っていた。

これも、人としての道を踏み外した人間の因果応報ということなのだろうか?

都はるみと、その首をくくった情夫しかり、不倫の末にくっつき泥沼で別れた松方某・仁科某といい、一般人でも、犯罪、事件の背後に不倫が存在した事例は少なくない。

自ら重ねた負の因果の挙句の今回二人に降りかかった「悲劇」だとすれば、「仕方がない、自業自得だ」としか言いようがないな。

合掌
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モンゴルでの記者会見で露呈された朝青竜という人間の低劣さ

2010年03月12日 | Weblog
今更、ではあるが、再び朝青竜という人間がいかに「げす」であるかということを再認識させられた。

それが、昨日のモンゴル帰国時の記者会見である。

帰国前はさんざんダンマリを決め込んでおいて、相撲協会からはしっかり銭をせしめておいてからの言いたい放題。

まあありていに言えば、卑怯、卑劣なやり方であって、とても勝負の世界で(たぶん正々堂々と?)生きてきた人間のやり口とは思えない。それとも、八百長がやはりあったのか?

勝負師でなくとも、あれは上等な人間のすることだ。ダンマリならダンマリで、祖国に帰ってもそれを通すべきだ。言いたいことがあるなら、日本国内でも言うべきであった。

例の事件の捜査への影響を恐れて、日本国内では沈黙を通した? 関係者に迷惑がかかるから? 義理か?

捜査の影響を恐れてというのであれば、今のご時世、テレビやネット一つで情報が簡単に国境をまたぐご時世である。ならば、モンゴルでも黙り続けるべきだった。

関係者への配慮や義理? というのであれば、やはりモンゴルでも黙し続けるべきだった。

相撲協会には少しの義理もない? それを言ったら、いた思っただけでも、この男の値打ちは更に下がる。最後の最後までいろいろあったが、どれもこれもすべてあの男が自分で発端を作ったことだ。義理がないわけがない。モンゴルに行って、後足で砂をかえるような行為は、あの男の人格が下下の下下たる証拠だ。

モンゴルでは、恥じるべき行為ではない。

ところ変わればという。日本人から見れば眉をしかめるような行為や思考が、他国では通じる場合もある。また逆もしかりだ。モンゴルの流儀では、あれはありなのかもしれない。

今更、日本でどう思われようがどうでもようのかもしれない。

もうこのまま、日本には二度と来ない?それもそれでよいだろう。こちらも不良外国人を抱え込まなくてすむ分、気が楽だ。あの類の低劣なガイジンは要らない。

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「2分の1成人式」の不気味さ

2010年03月12日 | Weblog
先日、子供の小学校での「2分の1成人式」に出席した。平日にもかかわらず、私以外にも、夫婦揃っての参加が結構いたのには、時代の変化を感じた。私の子供の頃には、週末ならともかくも、平日にはあり得なかった光景だ。良い意味で、時代の変化を感じた。

父親はもっと子育てに参画し、子供の成長を身近なものにすべきだと思う。

それはさておき、「2分の1成人式」にはがっかりした。というか気色悪くなった。

何が気色悪いかと言えば、子供たちが口ぐちに「生んでくれてありがとう」、「育ててくれてありがとう」等というのだ。

10歳の子供が、そんな言葉を自発的に、言うものだろうか? いやそんなはずはない。
親のありがたみを子供ながらに、あの年齢ながらに感じつつも(もっとも、親のありがたみは自分が親になってみて更に深まるというか、再認識するものなのだ)、あえて口に出そうとはすまい。ましてや「生んでくれて・・」とは、まず普通の子供は普段口に出さないだろうし、出そうとも思わないだろう。

これは、明らかに、大人が言わせているのだ、大人の書いたシナリオを「読まされて」いるのだと感じた。

大人とは、言うまでもなく、教師であり、学校である。

率直に言えば、「くだらない猿芝居を子供にさせて」と気色悪さを超えて、腹が立ってきた。

さらに、こうして大人が作り上げた思想や言葉を、子供にウム返しさせて、子供を「染めて」いくものなのだと、学校現場における「洗脳の手法」を目の当たりにしたような気がした。

公教育の大きな役割の一つが「洗脳」であることに間違いはあるまい、と私は考えている。
国家が国家にふさわしい国民を育成するための手段が公教育である。国家という言葉に語弊があるというのであれば、人間社会、あるいはコミュニティーかコミューンでもかまわない。とにかく、いずれにしても、人間が集団で行くていこうとする以上、あるいは、人が生きていくために集団形成を必要とする以上、その集団に適した、あるいは集団の利益にかなった人間を必要とすることはいうまでもない。「はみ出し者」ではこまるわけだ。そこで、集団(利益)にとって「有用」な構成員を子供の頃から育てようとする。それが公教育というものだ。

そうした人間を数多く育てるためには、集団への忠誠心、帰属意識、集団共有の価値観、イデオロギーを子供たちに植え付けることが必要となる。

日本国の主権のもとに行われる教育が、自国への忠誠心をもった有用な国民を育ることを目的とするのは当然であるのだが、その点、現在ただ今の我が国の教育というものは、「国民教育」が十分に行えているのだろうか?

そうした疑問ゆえに、二分の一成人式に話を戻せば、「生んでくれてありがとう」、「育ててくれてありがとう」と、本番のみならず練習等を通して繰り返し言わせることによるこの刷り込み(洗脳)の手法が、もし他の場面で、他の目的でもつかわれていたら・・・と不安になる。

息子は高学年になるが、いまだ学校で「君が代」を習ったことも歌ったこともない。

わたしの暮らす地域は日教組の組織率は全国的に見ても高い方だが、それと関係しているのだろうか。

それとも学校個々の方針によるものなのか。

一昨年の学習発表会での多学年による発表は、平たく言えば、「戦争反対」、「平和バンザイ」という内容のものであった。「平和教育」と言えば聞こえがいいが、これも学習発表会を利用した「洗脳」ではないのか?確かに、我が国の憲法は「戦争の放棄」をうたっているから、「戦争反対」、「平和バンザイ」という刷り込みは、国家指針にかなったものであるといえるが、その発表は「自衛を除く戦争に反対」でも、「戦争は反対。でも、自衛のためには戦おう!」というものでもなく、どう見ても、聞いても、「戦争はすべからく反対」というものであった。

ここに「自衛権の否定」、「自衛隊否定」という教師側、学校側のイデオロギーと、子供たちをそれによって洗脳しようとの思惑が存在したとしたら・・・。

保護者の皆さん、もしかしたら「二分の一精神式」でウルウルしている場合ではないかもしれませんよ!


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