先日、子供の小学校での「2分の1成人式」に出席した。平日にもかかわらず、私以外にも、夫婦揃っての参加が結構いたのには、時代の変化を感じた。私の子供の頃には、週末ならともかくも、平日にはあり得なかった光景だ。良い意味で、時代の変化を感じた。
父親はもっと子育てに参画し、子供の成長を身近なものにすべきだと思う。
それはさておき、「2分の1成人式」にはがっかりした。というか気色悪くなった。
何が気色悪いかと言えば、子供たちが口ぐちに「生んでくれてありがとう」、「育ててくれてありがとう」等というのだ。
10歳の子供が、そんな言葉を自発的に、言うものだろうか? いやそんなはずはない。
親のありがたみを子供ながらに、あの年齢ながらに感じつつも(もっとも、親のありがたみは自分が親になってみて更に深まるというか、再認識するものなのだ)、あえて口に出そうとはすまい。ましてや「生んでくれて・・」とは、まず普通の子供は普段口に出さないだろうし、出そうとも思わないだろう。
これは、明らかに、大人が言わせているのだ、大人の書いたシナリオを「読まされて」いるのだと感じた。
大人とは、言うまでもなく、教師であり、学校である。
率直に言えば、「くだらない猿芝居を子供にさせて」と気色悪さを超えて、腹が立ってきた。
さらに、こうして大人が作り上げた思想や言葉を、子供にウム返しさせて、子供を「染めて」いくものなのだと、学校現場における「洗脳の手法」を目の当たりにしたような気がした。
公教育の大きな役割の一つが「洗脳」であることに間違いはあるまい、と私は考えている。
国家が国家にふさわしい国民を育成するための手段が公教育である。国家という言葉に語弊があるというのであれば、人間社会、あるいはコミュニティーかコミューンでもかまわない。とにかく、いずれにしても、人間が集団で行くていこうとする以上、あるいは、人が生きていくために集団形成を必要とする以上、その集団に適した、あるいは集団の利益にかなった人間を必要とすることはいうまでもない。「はみ出し者」ではこまるわけだ。そこで、集団(利益)にとって「有用」な構成員を子供の頃から育てようとする。それが公教育というものだ。
そうした人間を数多く育てるためには、集団への忠誠心、帰属意識、集団共有の価値観、イデオロギーを子供たちに植え付けることが必要となる。
日本国の主権のもとに行われる教育が、自国への忠誠心をもった有用な国民を育ることを目的とするのは当然であるのだが、その点、現在ただ今の我が国の教育というものは、「国民教育」が十分に行えているのだろうか?
そうした疑問ゆえに、二分の一成人式に話を戻せば、「生んでくれてありがとう」、「育ててくれてありがとう」と、本番のみならず練習等を通して繰り返し言わせることによるこの刷り込み(洗脳)の手法が、もし他の場面で、他の目的でもつかわれていたら・・・と不安になる。
息子は高学年になるが、いまだ学校で「君が代」を習ったことも歌ったこともない。
わたしの暮らす地域は日教組の組織率は全国的に見ても高い方だが、それと関係しているのだろうか。
それとも学校個々の方針によるものなのか。
一昨年の学習発表会での多学年による発表は、平たく言えば、「戦争反対」、「平和バンザイ」という内容のものであった。「平和教育」と言えば聞こえがいいが、これも学習発表会を利用した「洗脳」ではないのか?確かに、我が国の憲法は「戦争の放棄」をうたっているから、「戦争反対」、「平和バンザイ」という刷り込みは、国家指針にかなったものであるといえるが、その発表は「自衛を除く戦争に反対」でも、「戦争は反対。でも、自衛のためには戦おう!」というものでもなく、どう見ても、聞いても、「戦争はすべからく反対」というものであった。
ここに「自衛権の否定」、「自衛隊否定」という教師側、学校側のイデオロギーと、子供たちをそれによって洗脳しようとの思惑が存在したとしたら・・・。
保護者の皆さん、もしかしたら「二分の一精神式」でウルウルしている場合ではないかもしれませんよ!
父親はもっと子育てに参画し、子供の成長を身近なものにすべきだと思う。
それはさておき、「2分の1成人式」にはがっかりした。というか気色悪くなった。
何が気色悪いかと言えば、子供たちが口ぐちに「生んでくれてありがとう」、「育ててくれてありがとう」等というのだ。
10歳の子供が、そんな言葉を自発的に、言うものだろうか? いやそんなはずはない。
親のありがたみを子供ながらに、あの年齢ながらに感じつつも(もっとも、親のありがたみは自分が親になってみて更に深まるというか、再認識するものなのだ)、あえて口に出そうとはすまい。ましてや「生んでくれて・・」とは、まず普通の子供は普段口に出さないだろうし、出そうとも思わないだろう。
これは、明らかに、大人が言わせているのだ、大人の書いたシナリオを「読まされて」いるのだと感じた。
大人とは、言うまでもなく、教師であり、学校である。
率直に言えば、「くだらない猿芝居を子供にさせて」と気色悪さを超えて、腹が立ってきた。
さらに、こうして大人が作り上げた思想や言葉を、子供にウム返しさせて、子供を「染めて」いくものなのだと、学校現場における「洗脳の手法」を目の当たりにしたような気がした。
公教育の大きな役割の一つが「洗脳」であることに間違いはあるまい、と私は考えている。
国家が国家にふさわしい国民を育成するための手段が公教育である。国家という言葉に語弊があるというのであれば、人間社会、あるいはコミュニティーかコミューンでもかまわない。とにかく、いずれにしても、人間が集団で行くていこうとする以上、あるいは、人が生きていくために集団形成を必要とする以上、その集団に適した、あるいは集団の利益にかなった人間を必要とすることはいうまでもない。「はみ出し者」ではこまるわけだ。そこで、集団(利益)にとって「有用」な構成員を子供の頃から育てようとする。それが公教育というものだ。
そうした人間を数多く育てるためには、集団への忠誠心、帰属意識、集団共有の価値観、イデオロギーを子供たちに植え付けることが必要となる。
日本国の主権のもとに行われる教育が、自国への忠誠心をもった有用な国民を育ることを目的とするのは当然であるのだが、その点、現在ただ今の我が国の教育というものは、「国民教育」が十分に行えているのだろうか?
そうした疑問ゆえに、二分の一成人式に話を戻せば、「生んでくれてありがとう」、「育ててくれてありがとう」と、本番のみならず練習等を通して繰り返し言わせることによるこの刷り込み(洗脳)の手法が、もし他の場面で、他の目的でもつかわれていたら・・・と不安になる。
息子は高学年になるが、いまだ学校で「君が代」を習ったことも歌ったこともない。
わたしの暮らす地域は日教組の組織率は全国的に見ても高い方だが、それと関係しているのだろうか。
それとも学校個々の方針によるものなのか。
一昨年の学習発表会での多学年による発表は、平たく言えば、「戦争反対」、「平和バンザイ」という内容のものであった。「平和教育」と言えば聞こえがいいが、これも学習発表会を利用した「洗脳」ではないのか?確かに、我が国の憲法は「戦争の放棄」をうたっているから、「戦争反対」、「平和バンザイ」という刷り込みは、国家指針にかなったものであるといえるが、その発表は「自衛を除く戦争に反対」でも、「戦争は反対。でも、自衛のためには戦おう!」というものでもなく、どう見ても、聞いても、「戦争はすべからく反対」というものであった。
ここに「自衛権の否定」、「自衛隊否定」という教師側、学校側のイデオロギーと、子供たちをそれによって洗脳しようとの思惑が存在したとしたら・・・。
保護者の皆さん、もしかしたら「二分の一精神式」でウルウルしている場合ではないかもしれませんよ!
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