チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

ソーニャとクレーン・ヴェッスルマンとキティー(1)

2004年09月14日 21時47分21秒 | 読書
ジーン・ウルフ「ソーニャとクレーン・ヴェッスルマンとキティー」柳下毅一郎訳(ジャック・ダン&ガードナー・ドゾワ編『魔法の猫』扶桑社文庫、98、所収)

 本篇はもはや純文学ですね。
 というのは追々として、まずは、例によって気がついたところを列挙します。

 もちろん、今は二人とも年寄りではない。今はソーニャはあなたくらいの年だし、クレーン・ヴェッスルマンはいくらか年上だ。だが、二人は知り合っていない。(307p)

 のっけからウルフ節全開!
 この小説は近未来が舞台です。この近未来のソーニャとクレーンは年齢は書いてませんが、かなり老齢と判断されます。したがって、この「今」というのは読者がこれを読んでいる「今」、すなわち初出がOrbit8ということで1970年当時ということになります。
 1970年当時、この二人はまだ若かったけどまだ知り合っていない、という一種のレトリックなんですね。その二人が老年になったとき、二人は出会い、物語は始まるわけです。
 つまりウルフは、「今は昔」の逆をやっているのです。いやー洒落てますねえ、テクニシャンの面目躍如たるものがあります。間違ってもラノベではお目にかかれない書きっぷりです(いや編集が書かせてくれないかも)。

 運転手はバスと呼んでいて、バス運転手の精神を持っていたし、それはヘリコプター・パイロットの精神とはまるで違うものだった。(310p)

 些末な部分ですが、この近未来社会のヘリコプター・パイロットは70年代アメリカのバス運転手並みのレベルだったということ。日本でいえば、バブル期の不良タクシードライバーのようなものか。
 だから、ソーニャが高齢者カードで半額料金で乗車することに「憤慨」するわけです。
 SFっぽさを出す演出ですが、SFM鼎談で柳下さんが言うように、無理矢理とってつけたような感じがしますな(^^; 

 さてソーニャは結婚してないらしく子供もないため、国から補助を受けられない「法の狭間」に住んでいます。したがってきわめて貧しい。
 男やもめのクレーンはどうやら資産家の一人暮らしらしい(一応)。

 クレーン(・・・)がソーニャと出会ったのは、まだ彼が、ときおり、家から出ていたころだ。(308p)

 分かりづらい表現(訳?)ですが、要は老齢の彼はかなり出不精になっていた(終いに引きこもってしまうのは小説の通り)、ということ。
 そういうある意味僥倖で、二人は出会い、意気投合します。
 しかしソーニャのほうには、一種の打算がほの見える(彼女の言動は、クレーン以外の他者には「はしっこい」と映り、作者も「お世辞の名人」と描写する)。

 新しい章の開幕、結婚式、花束、新しい名字、今のままではない死。(310p)
(つづく)
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